三十四の二 レッドリスト
文字数 2,460文字
ひさびさに車の音がした。ライトに照らされないように、歩道の端になるべく寄る。白いバンは通り過ぎる。歩道の野良猫に気づくこともなかっただろう。ましてや物の怪などに。
町は再び静かになるが、駅に近づいたため深夜営業の店がちらほらとある。その明かりからも逃げだしたくなる。
振り向くと、フサフサはいなくなっていた。
「あの女は、かなりおぞましい物の怪だったね。あいつは人を操れるのかい?」
この猫はどこから話しかけているのだ。なんでそんなことまで知り得るのだ?
「あいつも大カラスらしい。人も好き放題にできる」
「やっぱりね」つっけんどんな声。「さっきのクルマに乗っていたから、そう思ったのさ。隠しても、とんでもない気配の化け物だね」
白いバンが前方で乱暴にUターンした。猛スピードで戻ってくる。俺達の前で急停車する。俺は上空に逃げだそうとするが、
ブ、ブブブブー! ブブブー
クラクションを思いきり響かせられる。
人の作った轟音だ。俺の体は跳ねあがり、脳みそがぐらぐらと揺れる。混乱している俺の前で、バンはガードレールをこすりながら切りかえす。俺へとハイビームを照らす。
比喩でなく目が溶けそうだ。いや溶けたかも。
「光を見るな。私らだって動けなくなる」
フサフサのアドバイスは遅い。俺は身動きできなくなった。気力も体力も急速に失せていく。
「馬鹿たれ、逃げろ!」
フサフサの声が離れた場所から聞こえる。俺はよろよろとそちらに向かう。……車が突進してきた。必死に避けるが、フロントに跳ねられる。
バゴン!
人の作った衝撃が体を伝わる。車が店舗に突っこむのを感じる。俺は路上に転がる。俺の身をかき消すべく、全身を激痛が襲う。
多数の人間が姿を現した。俺はまだまだ存在している。護符を握りしめる――。助手席のドアが開いた。
あいつの気配が近づく。
「これくらいじゃ消えられないよね。苦しいだろうに」
またも見おろされる。
「助けてあげたいけど、護符があるじゃない? 私だとあなたに触れられないわ」
俺から去っていく。
「フサフサ……」
俺は声をしぼりだす。返事はない。
「事故カヨ」
「警察ヨベヨ」
「アノ女ハ、ナンデミンナノ手ヲ触ルンダ?」
「ベッピンダ。オレラモ握手シテモラオウゼ」
興奮していた人々の感情がおさまっていく。
「こんばんは、酔っぱらいさん達。そこに妖怪がいるから、みんなで持ちあげて」
あいつの流ちょうな日本語が聞こえる。
傀儡と化した人間達が俺を囲む。人の作りし車に跳ね飛ばされても、護符は発動しない。発動したら、まわりの人を傷つける。
俺はアスファルトを這う。暗闇を探る。
「うふふ、逃げられちゃうわよ。もっと右」
あいつの声などもう聞きたくない。「捕まえた。ここからちょっと難しいわよ。息を合わせて持ち上げてね」
アルコールの匂いが四方から吐きだされ、地獄のような責めだ。人に囲まれ俺の体に逃げ場はない。酒で燃えたいくつもの手ですくいあげられる。
「お店に連れていって。あなたは店員さん? 風邪をひくぐらい冷房を強くして、音楽も大きくして、明かりもいっぱいつけてあげな。パチンコ屋みたいに」
「やめろ……」
その言葉だけで心がなおさら弱まる。
「あなたが消えるまで、外で見守ってやるよ」
あいつの声がついてくる。
「きっと一瞬だね。あとに残った護符は、ごみ箱に捨てさせる」
助けを呼びたいけど、妖怪としての力などかけらも残っていない。砂粒ほどの力なんて、弱った心ではうごめきすらしない。
やっぱり、あいつはすごいな。あきらめず幾重に考えてくる。黒い光がなくても、こんなにも無様に俺を消し去れる。
「どこにいた?」
峻計が怯えた。同時に強烈な衝撃を受ける。俺は地面に落とされる。
まわりで人間達がバタバタと倒れていく。俺の体もしびれる。……これは術だ。劉師傅が亮相の構えをとっていた。
「キサマラ、正気ヲ戻セ!」一喝が響きわたる。
地に伏せた人々がびくりと起きる。俺の弱まった心にも強く届く。
「アレ?」
「俺タチ、ナニヲシテイタ?」
立ちあがった人々を押しのけて、劉師傅が俺のもとに来る。
「気を張れ。これしきなら消えぬ」
劉師傅は俺を抱えあげようとする。でも俺はふわりとすべる。
「貴様も守りたい者だけを思え。生きて会いたいと思え!」
……昨年の十二月。訪れの早い夕暮れ。
そのときの笑みを思い浮かべる。師傅が気迫をこめて異形である俺を持ちあげる。
劉師傅の腕は、なめらかで傷だらけの鹿皮のようだ。俺を緋色のサテンに包む。力強く抱いて歩きだす。
「あいつは?」
あごの無精ひげを見上げながら尋ねる。
「逃げた。峻計は私が近寄ることを許さぬ」劉師傅は朴訥と言う。「感にあふれた野良猫が私を呼んだ。哲人、哲人と必死に心へ伝えようとした。哲人とは、お前のことに相違ないな。私も猫と初めて話した」
師傅はかすかに笑ったようだ。俺から受けた傷は大丈夫なのか?
「護符の打撃は意外に強かった」
俺の心を読んだわけではないだろうけど、師傅が話題を変える。
「傷が強まり、しばらく籠らせてもらった。あの猫には見つけられたがな」
「あの時は頭に血がのぼりすぎて……」
あのときの情景を思いだすと、また怒りがわきそうだ。その感情が俺の心身に活を入れる。じわりと気力が戻る。
「気にするな。おそらく私に非がある」
謝りの言葉はないけど、きっぱりと言ってもらえた。俺の怒りのくすぶりも消える。……劉師傅からは畏怖と等しくやさしさが伝わる。今のこの人の汗の匂いに包まれると、気力がさらに蘇る。
よき人間だと、俺の中の妖怪にインプットされる。この人も守るべき存在だ。
「だが猫を巻き添えにしたのだな? 向こうの世界に属する生きたものを」
師傅がふいに言う。非難されても仕方ないけど、この人の怒りは怖い。
「怯えるな。猫だけを引き連れてうごめく胆力には感心している。思慮なき勇気が必要なときもある」
ほめられたのか? この人が守るべき存在だなんて、おこがましい妖怪だ。
次回「座敷わらしと祓いの者」
町は再び静かになるが、駅に近づいたため深夜営業の店がちらほらとある。その明かりからも逃げだしたくなる。
振り向くと、フサフサはいなくなっていた。
「あの女は、かなりおぞましい物の怪だったね。あいつは人を操れるのかい?」
この猫はどこから話しかけているのだ。なんでそんなことまで知り得るのだ?
「あいつも大カラスらしい。人も好き放題にできる」
「やっぱりね」つっけんどんな声。「さっきのクルマに乗っていたから、そう思ったのさ。隠しても、とんでもない気配の化け物だね」
白いバンが前方で乱暴にUターンした。猛スピードで戻ってくる。俺達の前で急停車する。俺は上空に逃げだそうとするが、
ブ、ブブブブー! ブブブー
クラクションを思いきり響かせられる。
人の作った轟音だ。俺の体は跳ねあがり、脳みそがぐらぐらと揺れる。混乱している俺の前で、バンはガードレールをこすりながら切りかえす。俺へとハイビームを照らす。
比喩でなく目が溶けそうだ。いや溶けたかも。
「光を見るな。私らだって動けなくなる」
フサフサのアドバイスは遅い。俺は身動きできなくなった。気力も体力も急速に失せていく。
「馬鹿たれ、逃げろ!」
フサフサの声が離れた場所から聞こえる。俺はよろよろとそちらに向かう。……車が突進してきた。必死に避けるが、フロントに跳ねられる。
バゴン!
人の作った衝撃が体を伝わる。車が店舗に突っこむのを感じる。俺は路上に転がる。俺の身をかき消すべく、全身を激痛が襲う。
多数の人間が姿を現した。俺はまだまだ存在している。護符を握りしめる――。助手席のドアが開いた。
あいつの気配が近づく。
「これくらいじゃ消えられないよね。苦しいだろうに」
またも見おろされる。
「助けてあげたいけど、護符があるじゃない? 私だとあなたに触れられないわ」
俺から去っていく。
「フサフサ……」
俺は声をしぼりだす。返事はない。
「事故カヨ」
「警察ヨベヨ」
「アノ女ハ、ナンデミンナノ手ヲ触ルンダ?」
「ベッピンダ。オレラモ握手シテモラオウゼ」
興奮していた人々の感情がおさまっていく。
「こんばんは、酔っぱらいさん達。そこに妖怪がいるから、みんなで持ちあげて」
あいつの流ちょうな日本語が聞こえる。
傀儡と化した人間達が俺を囲む。人の作りし車に跳ね飛ばされても、護符は発動しない。発動したら、まわりの人を傷つける。
俺はアスファルトを這う。暗闇を探る。
「うふふ、逃げられちゃうわよ。もっと右」
あいつの声などもう聞きたくない。「捕まえた。ここからちょっと難しいわよ。息を合わせて持ち上げてね」
アルコールの匂いが四方から吐きだされ、地獄のような責めだ。人に囲まれ俺の体に逃げ場はない。酒で燃えたいくつもの手ですくいあげられる。
「お店に連れていって。あなたは店員さん? 風邪をひくぐらい冷房を強くして、音楽も大きくして、明かりもいっぱいつけてあげな。パチンコ屋みたいに」
「やめろ……」
その言葉だけで心がなおさら弱まる。
「あなたが消えるまで、外で見守ってやるよ」
あいつの声がついてくる。
「きっと一瞬だね。あとに残った護符は、ごみ箱に捨てさせる」
助けを呼びたいけど、妖怪としての力などかけらも残っていない。砂粒ほどの力なんて、弱った心ではうごめきすらしない。
やっぱり、あいつはすごいな。あきらめず幾重に考えてくる。黒い光がなくても、こんなにも無様に俺を消し去れる。
「どこにいた?」
峻計が怯えた。同時に強烈な衝撃を受ける。俺は地面に落とされる。
まわりで人間達がバタバタと倒れていく。俺の体もしびれる。……これは術だ。劉師傅が亮相の構えをとっていた。
「キサマラ、正気ヲ戻セ!」一喝が響きわたる。
地に伏せた人々がびくりと起きる。俺の弱まった心にも強く届く。
「アレ?」
「俺タチ、ナニヲシテイタ?」
立ちあがった人々を押しのけて、劉師傅が俺のもとに来る。
「気を張れ。これしきなら消えぬ」
劉師傅は俺を抱えあげようとする。でも俺はふわりとすべる。
「貴様も守りたい者だけを思え。生きて会いたいと思え!」
……昨年の十二月。訪れの早い夕暮れ。
そのときの笑みを思い浮かべる。師傅が気迫をこめて異形である俺を持ちあげる。
劉師傅の腕は、なめらかで傷だらけの鹿皮のようだ。俺を緋色のサテンに包む。力強く抱いて歩きだす。
「あいつは?」
あごの無精ひげを見上げながら尋ねる。
「逃げた。峻計は私が近寄ることを許さぬ」劉師傅は朴訥と言う。「感にあふれた野良猫が私を呼んだ。哲人、哲人と必死に心へ伝えようとした。哲人とは、お前のことに相違ないな。私も猫と初めて話した」
師傅はかすかに笑ったようだ。俺から受けた傷は大丈夫なのか?
「護符の打撃は意外に強かった」
俺の心を読んだわけではないだろうけど、師傅が話題を変える。
「傷が強まり、しばらく籠らせてもらった。あの猫には見つけられたがな」
「あの時は頭に血がのぼりすぎて……」
あのときの情景を思いだすと、また怒りがわきそうだ。その感情が俺の心身に活を入れる。じわりと気力が戻る。
「気にするな。おそらく私に非がある」
謝りの言葉はないけど、きっぱりと言ってもらえた。俺の怒りのくすぶりも消える。……劉師傅からは畏怖と等しくやさしさが伝わる。今のこの人の汗の匂いに包まれると、気力がさらに蘇る。
よき人間だと、俺の中の妖怪にインプットされる。この人も守るべき存在だ。
「だが猫を巻き添えにしたのだな? 向こうの世界に属する生きたものを」
師傅がふいに言う。非難されても仕方ないけど、この人の怒りは怖い。
「怯えるな。猫だけを引き連れてうごめく胆力には感心している。思慮なき勇気が必要なときもある」
ほめられたのか? この人が守るべき存在だなんて、おこがましい妖怪だ。
次回「座敷わらしと祓いの者」