三十四の二 松本哲人と四人の姑娘
文字数 2,694文字
「サキトガが現れたって! ……僕は何人にも咎められない。僕は標高四千メートル級に住んでいた。氷点下こそ快適だし、長雨も耐えられる。しかし、この国の夏は耐え忍ぶのも限界だ。とくに盆地の底の下品な暑さはゆるせない。午前中にヨタカで飛んだけど――」
「ハラペコは連中を探してきてくれ」
思玲は露泥無の話などろくに聞かない。「いやなら琥珀を差し向ける」
寝起きのヨタカがよろよろと飛んでいく。ドロシーが術の明かりを消す。
「あの小鬼はそんなに強いの?」
横根が尋ねる。
「奴は小さくても鬼だぞ」
思玲があきれる。
「食い物は上品だがな。――弱小な新月系を狩り、その魂をすする。飛び蛇とか貉とか。座敷わらしもか」
上品ではない。電車で言っていたように糞はでないだろうけど。
それより横根に教えておかないと。
「川田が行方不明になった。危険だけど、一緒に探しにいこう」
ぽつぽつと空から滴が落ちてきた。
「えっ」横根が俺を見つめる。「……私は猫になってもいいよ」
たしかに異形の白猫になれば素早いし六感も抜きでる。でも、たとえ魂が半分でなくても……。雨足がゴール直後の歓声のように強まっていく。小鳥達が林の中へ雨宿りに飛びこんでくる。
「もう誰も異形になどさせない」
俺以外は。林の外は大雨だろう。樹木達が頼りない傘になっている。
「松本。私がなってもいい」
それでも濡れそぼったドロシーが妖艶に見える。
「君を信じているから。それに、異形になるのは子どもの頃の夢だった。強くてきれいな朱雀がいいな、へへへ」
化け物になりたいだと? ちょっとひいてしまった。朱雀の赤い光はドーンが浴びているし。
「その手もあるか」
思玲が同意しやがる。顔にかかった雨水をぬぐい、腕を組む。
「だ、駄目だよ」横根が言う。「それにあの箱には魔道士への罠がある」
彼女だけは雨に濡れない。雷は遠ざかっている。おそらく嵐にはならない。
「大丈夫だとは思うが……、そういうことにしておこう」
思玲が野球帽のつばを後ろにする。「このままの四人で行く」
キョキョキョと場違いな鳴き声がした。
「この雨で飛んだら逆に怪しまれる」
ヨタカが戻ってきた。溶けて、ずぶ濡れな女の子に変げする。
「土壁が道を歩いていた。その上で、竹林が結界をはずした。おそらくは土壁を誰かのもとへ誘導している。だとすると、ケビン達もあの林にいる」
あの野良犬も生きていた。峻計もいるだろうか?
思玲が天珠をだす。耳にあてる。
「でたということは、まだ無事だな。捜索をやめて樹上にひそめ。竹林がいる」
式神に指示すると、俺を見る。「策はあるか?」
あるはずない。二人を探しに行くだけだ。
「最善の策がある」露泥無が言う。「誰も戻って来なかろうが、ここで待つ。ほかは愚策だ」
誰も聞き入れない。
ステルス偵察機である竹林が上空を飛んでいる。それでも俺達は傘もないまま土砂降りの境内へでる。
水たまりへと、思玲が倒れる。
***
「しょせんは子どもだからね。無理が続けば熱だってでるだろう」
露泥無はクールだ。
「しかし39度7分は高熱のたぐいだ。彼女は導きを果たした。もはや不要かもね。彼女が死んだら箱は軽くなるかもしれない」
手水舎で雨宿りしながら、俺は聞こえない振りをする。このムジナにだけは、黙れこの野郎舌を抜いてやろうか、などと言えない。
「だ、黙っていてよ」代わりに横根がにらむ。「さもないと――」
露泥無が究極体に化す。日本語を喋りだす。
「甘えているから激情する。僕は横根タイプが張麗豪よりも嫌いだ。教えておく。松本にいまの記憶が消えて平凡な学生に戻ろうと、お前には目を向けない。惹かれるのは桜井夏奈。もしくは二度と会うことないドロシー。横根は人の姿の僕以下だ」
呆気にとられて、俺はなにも言えない。中年女性である露泥無が水たまりを避けながら境内を歩く。
本堂から、心配そうなお寺の奥さんを押しのけて少女である思玲が現れた。外で待っていたドロシーがビニール傘をかける。横根は俺の横でうつむくだけだ。
「横根は甘えていない」
そんな言葉しかかけられない。横根こそ大好きだ。事実なのに言えない。なおさら夏奈が離れそうだから。
俺は杓子で口をゆすぐ。吐きだした水は真っ赤だ。だけど体は絶好調。うずくほどだ。
「ドロシーは強いし優しいし、高校生に見えないね」
横根が水鉢から手ですくう。
「私はついていくだけだね。でも一緒に行くよ」
横根は水で顔を洗おうとしてはじかれる。あの屋上からこびりついたままの汚れがとれない。目もとの涙も流されない。透けた彼女越しに水鉢が見える。
ドロシー達がやってきて、手水舎で傘をたたむ。
「思玲には癒しは届かなかった」俺へとぼそりと言う。
「十二分に届いた。礼は言わぬがな」
少女がいじらしいほどに背筋を伸ばして言う。
修羅場での付き合いだけは深いから、嘘だと分かる。雨は小降りになっていく。思玲はリタイヤさせるべきだ。どうせ彼女は聞かない。
「いい人じゃないか。なのに顔もあわさず」
戻ってきた露泥無が、ドロシーに蔑みの目を向ける。
「お孫さんの服を貸してくれた。車もだしてくれるらしい」
思玲は男の子向けのTシャツと短パンに着替えていた。……注意力が落ちている。でも戦いの場に行けば、たぶん復活するかも。血だけがうずいている。
「人は関わらせない」女の子が言う。「二組に分かれよう。私と動くのは――」
それこそ愚策と勉強済だ。
「かたまって進む」
きっぱりと拒否する。いまの五人は、小学校の踊り場にいた六人より弱い。敵ははるかに強い。
「人は関わらせないが、好意を踏みにじろう」
露泥無であるおばさんが言う。
「車を奪うべきだ。記憶消しの妖術は香港だと合法だよな?」
ドロシーが目をそらす。
「私には使えない。四月に茶会メンバーの白 さんが、俺で試してみろと言ってくれた。そしたら、普通の記憶まで三週間消えた」
……昨日俺にかけようとしたよな。
「ならば理由をこじつけて、町ではなく山まで五人乗せてもらおう」
露泥無がきっぱり言う。
「そういうのは松本が得意だよな。一緒に来てくれ」
母屋へと歩いていく。
「僕はボランティアで動いているわけではない。……ロタマモを退治したのはありがたいが、僕は失態を続けている。もう松本から離れられない」
仕方なく追いついた俺を傘に入れて、露泥無が言う。
「台湾、香港、日本の姑娘 達。次に死ぬのは三人の誰かだろう。ここに残ったとしても、遅かれ早かれの違いだろうけどね」
こいつをなぐりたくなる。殺されない俺が三人を守るだけだ。
次回「午後四時からのハイキング」
「ハラペコは連中を探してきてくれ」
思玲は露泥無の話などろくに聞かない。「いやなら琥珀を差し向ける」
寝起きのヨタカがよろよろと飛んでいく。ドロシーが術の明かりを消す。
「あの小鬼はそんなに強いの?」
横根が尋ねる。
「奴は小さくても鬼だぞ」
思玲があきれる。
「食い物は上品だがな。――弱小な新月系を狩り、その魂をすする。飛び蛇とか貉とか。座敷わらしもか」
上品ではない。電車で言っていたように糞はでないだろうけど。
それより横根に教えておかないと。
「川田が行方不明になった。危険だけど、一緒に探しにいこう」
ぽつぽつと空から滴が落ちてきた。
「えっ」横根が俺を見つめる。「……私は猫になってもいいよ」
たしかに異形の白猫になれば素早いし六感も抜きでる。でも、たとえ魂が半分でなくても……。雨足がゴール直後の歓声のように強まっていく。小鳥達が林の中へ雨宿りに飛びこんでくる。
「もう誰も異形になどさせない」
俺以外は。林の外は大雨だろう。樹木達が頼りない傘になっている。
「松本。私がなってもいい」
それでも濡れそぼったドロシーが妖艶に見える。
「君を信じているから。それに、異形になるのは子どもの頃の夢だった。強くてきれいな朱雀がいいな、へへへ」
化け物になりたいだと? ちょっとひいてしまった。朱雀の赤い光はドーンが浴びているし。
「その手もあるか」
思玲が同意しやがる。顔にかかった雨水をぬぐい、腕を組む。
「だ、駄目だよ」横根が言う。「それにあの箱には魔道士への罠がある」
彼女だけは雨に濡れない。雷は遠ざかっている。おそらく嵐にはならない。
「大丈夫だとは思うが……、そういうことにしておこう」
思玲が野球帽のつばを後ろにする。「このままの四人で行く」
キョキョキョと場違いな鳴き声がした。
「この雨で飛んだら逆に怪しまれる」
ヨタカが戻ってきた。溶けて、ずぶ濡れな女の子に変げする。
「土壁が道を歩いていた。その上で、竹林が結界をはずした。おそらくは土壁を誰かのもとへ誘導している。だとすると、ケビン達もあの林にいる」
あの野良犬も生きていた。峻計もいるだろうか?
思玲が天珠をだす。耳にあてる。
「でたということは、まだ無事だな。捜索をやめて樹上にひそめ。竹林がいる」
式神に指示すると、俺を見る。「策はあるか?」
あるはずない。二人を探しに行くだけだ。
「最善の策がある」露泥無が言う。「誰も戻って来なかろうが、ここで待つ。ほかは愚策だ」
誰も聞き入れない。
ステルス偵察機である竹林が上空を飛んでいる。それでも俺達は傘もないまま土砂降りの境内へでる。
水たまりへと、思玲が倒れる。
***
「しょせんは子どもだからね。無理が続けば熱だってでるだろう」
露泥無はクールだ。
「しかし39度7分は高熱のたぐいだ。彼女は導きを果たした。もはや不要かもね。彼女が死んだら箱は軽くなるかもしれない」
手水舎で雨宿りしながら、俺は聞こえない振りをする。このムジナにだけは、黙れこの野郎舌を抜いてやろうか、などと言えない。
「だ、黙っていてよ」代わりに横根がにらむ。「さもないと――」
露泥無が究極体に化す。日本語を喋りだす。
「甘えているから激情する。僕は横根タイプが張麗豪よりも嫌いだ。教えておく。松本にいまの記憶が消えて平凡な学生に戻ろうと、お前には目を向けない。惹かれるのは桜井夏奈。もしくは二度と会うことないドロシー。横根は人の姿の僕以下だ」
呆気にとられて、俺はなにも言えない。中年女性である露泥無が水たまりを避けながら境内を歩く。
本堂から、心配そうなお寺の奥さんを押しのけて少女である思玲が現れた。外で待っていたドロシーがビニール傘をかける。横根は俺の横でうつむくだけだ。
「横根は甘えていない」
そんな言葉しかかけられない。横根こそ大好きだ。事実なのに言えない。なおさら夏奈が離れそうだから。
俺は杓子で口をゆすぐ。吐きだした水は真っ赤だ。だけど体は絶好調。うずくほどだ。
「ドロシーは強いし優しいし、高校生に見えないね」
横根が水鉢から手ですくう。
「私はついていくだけだね。でも一緒に行くよ」
横根は水で顔を洗おうとしてはじかれる。あの屋上からこびりついたままの汚れがとれない。目もとの涙も流されない。透けた彼女越しに水鉢が見える。
ドロシー達がやってきて、手水舎で傘をたたむ。
「思玲には癒しは届かなかった」俺へとぼそりと言う。
「十二分に届いた。礼は言わぬがな」
少女がいじらしいほどに背筋を伸ばして言う。
修羅場での付き合いだけは深いから、嘘だと分かる。雨は小降りになっていく。思玲はリタイヤさせるべきだ。どうせ彼女は聞かない。
「いい人じゃないか。なのに顔もあわさず」
戻ってきた露泥無が、ドロシーに蔑みの目を向ける。
「お孫さんの服を貸してくれた。車もだしてくれるらしい」
思玲は男の子向けのTシャツと短パンに着替えていた。……注意力が落ちている。でも戦いの場に行けば、たぶん復活するかも。血だけがうずいている。
「人は関わらせない」女の子が言う。「二組に分かれよう。私と動くのは――」
それこそ愚策と勉強済だ。
「かたまって進む」
きっぱりと拒否する。いまの五人は、小学校の踊り場にいた六人より弱い。敵ははるかに強い。
「人は関わらせないが、好意を踏みにじろう」
露泥無であるおばさんが言う。
「車を奪うべきだ。記憶消しの妖術は香港だと合法だよな?」
ドロシーが目をそらす。
「私には使えない。四月に茶会メンバーの
……昨日俺にかけようとしたよな。
「ならば理由をこじつけて、町ではなく山まで五人乗せてもらおう」
露泥無がきっぱり言う。
「そういうのは松本が得意だよな。一緒に来てくれ」
母屋へと歩いていく。
「僕はボランティアで動いているわけではない。……ロタマモを退治したのはありがたいが、僕は失態を続けている。もう松本から離れられない」
仕方なく追いついた俺を傘に入れて、露泥無が言う。
「台湾、香港、日本の
こいつをなぐりたくなる。殺されない俺が三人を守るだけだ。
次回「午後四時からのハイキング」