十八 すでに勝負はついていた

文字数 3,260文字

「草鈴は横根が無事の合図だ。そしたらすぐに戻ろう」

 リードから手をはなし、狼の前にでる。
 流範はすぐそばにいるのに、雷の気配が強すぎて居場所までは分からない。稲光が空を切り裂き、ほぼ同時にバリバリと響く。大粒な雨がビチャッビチャッと落ちてくる。スコールが始まった。
 妖怪である俺にも雨は叩きつけてくる。横根達は雨の当たらぬ場所に移っているだろうか。

「俺達もおっぱじめるか」
 またたく間に濡れそぼった狼から、狩りへの喜びが伝わる。
「その前に、この紐をくわえさせてくれ」

 狼の裂けた口にリードを持っていく。もっと根もとだと、さらに頼まれる。狼は牙をむき出しにして咀嚼する。じきにリードは引きちぎられる。
 邪魔だったからなと、残片を吐きだし狼が笑う。

「ありがとうな。両脇からまわるぞ」
 川田が資材置き場へと歩いていく。

 俺は木札を懐で確認して、背の高い雑草を覗きながら進む。工事を投げだされた民家の脇へとまわる。黒い空は始終どよめく。ドーンのいる向かいの家へ目を向けるが、雨が強すぎてそんな近くさえ見えない。
 稲妻に照らされて、雨の中を黒い鳥が飛んできた。ベニヤ板がはがれた窓から、雷から逃げるように家へと飛びこむ。
 ドーンであるはずがない。ならばゴウオンか?
 俺もあとを追う。

 *

 屋内に入り、雨から解放される。うち捨てられた家屋の中は真っ暗だ。入ってきた窓から稲光が照らす。雨の勢いは増している。体から滴が垂れていないことに気づく。雨水さえ俺には触れられない。
 異形の気配が濃う。流範はこの中だ。護符はまだ発動しない。

「いるのだろ?」

 闇へと声をかける。流範が返事するはずがない。部屋を見わたす。闇にこそ俺の目は馴染(なじ)む。内装はされていない。地面に敷かれたコンクリートがむき出しだ。
 凄まじい閃光と轟音が家を包む。きな臭い匂いと地響きさえ感じた。雷雲は真上で暴れている。また空が光る。雷のもたらす音ともに、前から気配が現れる。稲光がおたがいを照らす。
 狼の目がどう猛に光る。

「あれの血の匂いで充満してやがる。追いつめたな」

 川田が体を震わし水滴を飛ばす。
 流範の血を追って、裏のどこからか入ってきたのだろう。俺には血の匂いなど感じられない。ただ気配ははっきりと感じる。

「カラスが一羽、この中にいる。流範に呼ばれたのかも」
「あんな化け物を名前で呼ぶな」狼がにらみつける。「俺達と一緒にするな」

 狼は宙を嗅ぐ。匂いが強すぎて逆に分からんとぼやく。そこの隅かと、階段になるはずの段組みの下へと歩む。奈落にかかったような足組をいく。

「化け物で悪かったな」奥から声が聞こえた。「お前達も同類だがな」

 雷の閃光も流範まで届かない。狭い足場を進む狼を、俺は中空から追い越す。暗闇の隅に、大カラスの黒い体がにじむように見える。木札は発動しようとしない。

「お前に力を与えれば、キジムナーの振りをした悪鬼が目に入る。カンナイを抜け殻にしたのも、おそらくそいつだ。だが絶対に関わるな。お前は南に帰れ」

 ゴウオンがどこかでカカカと同意する。流範の声はただのカラスに届く。

「流範様もあきらめないでくださいね。力をもらわないと、呼ぶ声しか聞こえない。ここにだって、ボソを追ってたまたま来られただけだし」
「もうすこしだけ待ってくれ。見せたくない姿だからな」

 俺の目は底知れぬ闇にすら同化していく。うずまる大カラスの姿が浮かんでくる。
 流範は折れ曲がったくちばしで、どちらの羽根もだらりと落ち、片方の眼孔は空洞となっていた。溶けゆく体のなかで顔をもたげている。

「俺と白猫、どっちが先に抜け殻になるかな」
 首から上だけの存在になっていく流範が笑う。

「そ、そこでうごめいている闇みたいなのがあれか? うめき声みたいなのがあれの声か?」

 川田には見えていない。もはや狼では感じとれないほどの存在へと、流範はなっている。

「白猫は大丈夫だよ。思玲が治している」
 俺はうそぶく。

「思玲だと。カカ……」
 流範は笑うことさえできず、くちばしからむせるように黒い液体を吐く。
「奴に与えた傷が浅かったのは心残りかな。……穴熊にふたつばかり伝えろ。俺が溶けて消えるのはお前の手柄でない。護符の怒りが強すぎて、あの時点で俺は消える運命だったとな」

 忌むべき世界の声が、叩きつける雨音の中でうめく。

「あれがなにか言っているのかよ。耳など傾けるな」

 狼は闇を見つめる俺の前へと進もうとして躊躇する。
 流範がまた黒い液体を吐きだす。

「仲間が死んだとき、俺の心は立て続けにうずいた。しかしお前は劉昇を失ったところで、俺らほどに悲しめるかな。それも思玲に伝えろ」
 そして天井を見る。
「待たせたな。使いのカラスよ、来るがいい」

 ゴウオンが暗闇から薄闇へと降りてくる。

「カカッ、イエの中で見るとなおさらでかい犬だな。こいつも物の怪ですか?」
「関わるな」

 流範はそう言うと、曲がったくちばしを無理やりひろげる。異形の力の残りかすが、ただのカラスに向かう。ゴウオンから忌むべき気配が漂いだす。

「カカカッ、すきっ腹が止まったぜ」
 ゴウオンが入ってきた窓枠にとまる。ひと際長い雷光を浴びて、濡れた黒羽根が若い女性の髪のように緑のつやを帯びた。
「流範様には悪いですが、南に帰る前にやることがあるですよ」

 ふと聞こえる。

チリチリチー、チリチリチー、チーチリチリチリチー

 雷雨の音よりもはっきりと、草鈴の音が耳に届く。

「……瑞希ちゃんは助かったんだな」川田がつぶやく。

 そうに違いない。笛の音は、歓喜さえもはっきりと伝える。草鈴を吹いているのは桜井だろう。青龍もどきの秘めた力が笛に乗って、音となり伝わる。

「白猫は無事だ」
 告げずにはいられない……。

 流範は溶けた体に沈んでいた。片目と折れ曲がったくちばしだけが、地面すれすれに残る。

「龍の咆哮が聞こえるぞ……」

 言い残して流範が消滅する。大カラスのいた暗闇は虚無のごとくなる。

「おい、あれは死んだのか?」

 俺は川田の問いにうなずけない。流範の消え去った影から、人の姿をした魂が浮かびあがる。
 霊にも似た気配。闇の中でもはっきりと見える。俺達と同じくらいの年代で、髪を短く切りそろえ、屋外労働にたけた感じに日焼けした男が立ちつくしている。
 川田は気づかない。俺は目を合わさぬように顔をそらす。

「見えるぞ。ミョウオウ様であるはずなかったな」
 ゴウオンも人の魂に気づくことなく、俺だけをにらんでいた。
「人間のガキみたいなのが、ヂャオリーを抜け殻にしたのか」

 ゴウオンが俺へと突っこむ。稲光がまた屋内を照らし、怒りに満ちたカラスをも照らす。服の中で木札が存在感をあらわす。

「危ない!」狼が俺へと飛びこむ。

 さすが川田、タイミング悪すぎだ。発動した木札に、狼が室内犬のような悲鳴をあげる。足場から落ちる。……護符はかすめただけだよな。ぎりセーフ――。
 カラスが目前にあらわれる。

「俺に触れたら、お前は抜け殻だ」

 俺はゴウオンを避け、流範が消えたあとへ目を向ける。あの青年の魂も消えていた。

「俺はまた力を持ったんだよ。ヂャオリーの仇だ」
 なにも知らないカラスもどきが狭い空間で羽ばたく。

「ざけんな!」

 川田が足場の底から跳躍する。空中のゴウオンに跳ねかかる。足場に落ちた狼とカラスを、ひと際でかい雷の光が照らす。
 舞いあがる埃の中で、ゴウオンのくちばしが狼の目に刺さるのが映しだされた。
 落雷の轟きはスクランブル発進した米軍機ほどで、川田の絶叫をかき消す。
 狼がゴウオンの首をくわえて投げる。
 カラスは壁に激突して、ずるずると落ちる。

「目を狙いやがって」

 川田が憎悪の顔を向ける。床に落ちたゴウオンのもとへは足場がない。狼はそこへと跳躍しようとして、思いとどまる。

「畜生……」首の折れたカラスがうめく。「ちくし……」

 やむことのない雨音の中で、ゴウオンの目から魂が消える。異形に堕ちたカラスが抜け殻を残すことなく溶けていく。
 黒い羽根だけを残して。




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