四十八の一 影添大社水牢
文字数 5,735文字
水牢は血の池ではない。血の色に照らされているだけ。それでも生臭い。奥まで見えない。ペイペイドームより広いのは間違いなさそう。空間の上も暗黒で、その高さは分からない。溜まる水の深さも。
水滴の音と腐臭。風はなく、涼しいのにじっとりしている。
俺達を乗せた籠はワイヤーだけで頼りなく浮かんでいた。
「私は水泳が苦手というか、たぶん泳げない。泳いだことないから」
人になき力を持つ魔道士であるドロシーが、いまさら宣言する。
「貴様なら溺れながらコツを覚える」
折坂さんが根拠なきを告げる。
「だが、まだ夷を攻撃するな。奴が戦いの時を決める。そういう取り決めで遊んできた」
「……つまり遊びを続けるのですか?」
俺は夷を見つめたままで尋ねる。そんなゲームに参加したくない。
「夷が成敗されずに生かされている理由を考えろ」
「へへ、ほどよく強いからだ。満月の夜の大和獣人の相手をできる程度に」
「それだけであるはずないが、人の身を考えぬ貴様には分からぬだろう」
折坂さんが振り向かずに言い捨てる。
彼の横には川田。その背後で俺とドロシーが抱きあっている。全員がびしょ濡れで週末を挟んだゴミ袋の残飯ほどに匂う。生命には関わらぬようで、護符が汚水をはじいてくれない。うがいをしたい。
夷が三つの目で折坂さんを見つめている。恋焦がれた目のように感じる。
「藤川匠が怒っている。松本にだ」
片目を血の色に照らされた川田が上を探る。手にした天宮の護符が闇のように暗く光っている。
「どこにいるの?」
汚水まみれのドロシーが俺の胸から離れる。その手に七葉扇が現れる。
「見つけられない」
折坂さんの歯ぎしりが聞こえた。その手に日本刀が現れる。
川田が鼻を鳴らしながら、それを見る。
「その刀からドロシーの死んだ匂いがする」
絶対に触れてはいけないことに露骨に触れやがった。ドロシーの歯ぎしりも聞こえた。
「その刀の名は?」俺は特技のごとく話題を逸らす。
「異形が使うものに銘などない。だが過去の宮司から授かった大切なものだ」
「だったら無音に名付けてもらえばいい。いまの愛しい飼い主に」
ドロシーが扇を円状に広げる。
「藤川を倒すのは始めていいよね。私が見つけてやる。照らせ!」
紅色の光が血の色の光を飲みこむ。闇さえも飲みこみ、はるか上の天井がおぼろに照らされた。スカイツリーを真下から見あげるとこんな感じかな。
「なんだこりゃ」
夷が水中から爪のはえた巨大な手を慌ててだし、三つ目を覆う。波紋が地底の池をたどり、俺達が乗る頼りない籠を揺らす。
「……これは責めだろ。折坂、約束を違 えたな」
「愚かな娘だ。水中戦が始まる。泳げようが泳げまいが、人にはきついな」
「狩りの時間だ」
ふたりの獣人の声を聞きながら俺は思う。水牢と聞いていたのだから、水着とは言わないけど防水の準備をしておけばよかった。スマホがまた水没する。
「ドロシー。リュックにスマホを入れ……」
巨大な鬼が風呂から上がるように体を持ち上げた。龍や白虎よりは小さいけど、夷が起こした波紋はもはや高波で、迫りくるそれを見ながら俺はまた思う。どういう場所かをしっかり聞いておけば、鶏子を借りて空から戦えたのに……この水牢こそ大蔵司の陸海豚が真骨頂のステージだろ。貸せよ。
「始まるぞ」
「さきに行くぜ」
川田と折坂さんが跳躍して波を避ける。そのまま水中に飛びこむ。俺とドロシーは息を止める。柵にしがみつき、汚水をたっぷりと浴びる。
目を開けると右上空から青い光が一直線に俺へと――護符が発動した。
ズドン
直撃を受けて、俺は吹っ飛ぶ。籠から落ちて紅色に照らされた地底湖へ沈む。……服が重い。命の危機なのに、火伏せの護符は水には無力なのか。初めて知った。胸がじんじん痛む。これが藤川匠の術か。初めて喰らった。木札がなければ死んでいた。……人の世界でない水牢。ここで人である俺を殺す気かも。
なんとか顔を水面にだす。全部脱いでしまいたい。
「哲人さん! おぼれる、ゴボゴボ、オエッ」
巻きこまれたドロシーが3メートルほど向こうで、あえぎながら俺へ手を伸ばしていた。
「落ちついて!」
俺は助けに向かうけど、彼女の背へと後方から一直線に青い光線――
ドクン
俺の手から護符が消える。同時にドロシーが吹っ飛ぶ。頭から飛んできて、俺の頭に激突する。……痛い。目がチカチカする。水中に沈む。
「ぷはっ、おええ、げほげほ」
「ごほごほっ、ひいい、哲人さん!」
水面に顔をだすと、ドロシーが完璧な着衣立ち泳ぎで寄ってきた。
「ひええ、やっぱり私は泳げない。沈まないだけ。だから助けて」
しがみつかれて俺は頭まで沈む。
「あれ? 藤川の術が当たったよね。痛くない。背中も頭も。あれ?」
顔を上げた俺へと言い、シャツの襟もとを覗く。
「なんで? 木札がブラジャーの真ん中に挟まっている」
そんな行動の支えにされて、俺はまた顔まで沈む。呼吸も思考もおぼつかないまま顔をだすと、巨大な鬼が勢いよく湖にもぐるのが見えた。またもや穢れたビッグウェーブが押し寄せてくる。
モーターが壊れた走馬灯ぐらい脳みそを回転させろ。そして心で箇条書きしろ。
・藤川匠が俺を狙った。その必要なく俺は溺死するかも?
・火伏の護符がまたドロシーを守ってくれた。つまり水をたっぷり吸った服を着た今の俺は守られていない?
・川田が天宮の護符を手に狩りにでかけた。俺を守るためでないから光るはずなく、邪魔だと捨てる。そしたらそれは誰の手に現れる?
俺にしがみつくドロシーの手が紅色に輝く。
「へへっ」彼女は勝ち誇るように笑い「螺旋は力を奪うから温存する。噠!」
紙垂型の木札から放たれた紅色の光が、迫りくる大波を突き破る。水にでかい穴が空いただけ。波はそのまま俺達を飲みこむ。抱き合ったまま離れない。
よどんだ水。視界ゼロ。なのに紅色に照らされる。ドロシーが手にする天宮の護符が光っているからだ。それは俺を守るためにそれぞれの持ち主の色に輝くのであり、その方程式からすると、いまの俺は生命の危機……。
三つの巨大な目玉が近づいてきた。
ドロシーが俺から体を離し、髪を海藻のように漂わせ、上唇を舐める。七葉扇と天宮の護符を交差させる。紅色の魚雷みたいな螺旋が、夷のひたいにある目へ突き刺さる。悲鳴が水中で渦を巻く。
俺達は必死に上を目指す。溺死した怨霊が四肢にしがみついているよう。ジーンズもシャツも破り全裸になりたい。
「灯!」
水面に顔をだすなりドロシーが地底湖を照らす。
「げほげほ、おえ、はあはあ……見た? 夷の瞳はつぶらだった」
ドロシーが喘ぎながらしがみつく。それより陸に上がりたい。
「おええ、げほげほ……籠は?」
「螺旋はきつい。もう使いたくない。はあはあ……やっぱり王姐はすごい」
「籠はどこ?」
「かなり離れちゃった。どうしよう……潜って!」
せっかく空気を吸えたのに、ドロシーに顔を押される。
真上を紫色が漂うのが見えた。紫毒だ。人だから吸えば即死かも。でも呼吸がもたない。体力も限界だ。ドロシーもみたい。
二人は並んでまた水面に顔をだす。
紫色オンリー。
「護符が助けている!」
ドロシーが叫ぶ。……俺もだ。呼吸をしても毒を吸い込まない。二人を守るお天狗さんの木札……。
水面を真っ二つに裂くように、青い光が飛んでくる。これは漫画で定番の飛ぶ斬撃って奴だな。
「わあ!」
「きゃあ!」
さすが破邪の剣。火伏せの神に守られた二人だろうと吹っ飛ばされる。ドロシーとつないだ手が離れる。護符の守りが遠ざかる。
まわりはなおも紫色の世界。肺が激痛。呼吸が
「よかった。間にあった」
ドロシーは抱きついてない。水面で仰向けに浮かぶ俺の顔を安堵たっぷりに見つめていた。
「なぜだか木札が私しか守らない。だから私から離れないで」
……たぶんドロシーから癒しを授かったのだろう。
やはり人だとあの毒は即死レベルだと、身をもって確認できた。でもキスされてしまった。ここから先は苦しまないまま溺死してしまう。しかも護符は、未来の所有者の母親優先に守りやがる。父親は自力で頑張れと言うのかよ……。
決めた。終わったら結ばれてやる。でも……国際結婚だと重婚できるかな?
現実逃避はやめろ。汚水に漂いながら考えろ。川田と折坂さんと夷は潜ったまま所在不明。俺は座敷わらしだったときも息継ぎしないとならなかった記憶がするが、たぶん彼らなら生きているだろう。
「きゃあ!」
「わお!」
また背後から吹っ飛ばされた。
藤川は姿を見せぬまま遠距離からの攻撃。お天狗さんはドロシーの胸の谷間で怒りまくっている。
「げほっげほっ……、あの鬼の瞳は邪でない。だから改心している。急に襲ってきたから躾けちゃったけど、もう私も哲人さんも夷を倒さない。……夷をまた邪に引きずる藤川は大悪だ」
ドロシーの決意の声に、俺の意識もはっきりしてくる。
知らぬ間に、あちこちに朧な光が灯っていた。
さすがドロシー。俺が九割ほど死んだ際に介抱ついでに地底湖を恒常的に照らしたようで、陸地が新宿駅から代々木駅ぐらい遠くて絶壁なのを視認できた。
俺達は湖のど真ん中。籠がプールの端から端ぐらいの距離に見えた。つまり25メートルほど。
「あそこまで泳ごう」水中からあがりたい。
「対 。体がふやけたけど哲人さん経由でもとに戻った。でももう嫌――噠!」
「やめてくれ、俺だ」
水中からいきなり顔をだした川田へ、当然のようにドロシーが天宮の護符を向けた。でも俺を守る護符。川田へと紅色の光は発せられない。七葉扇を選ばれなくてよかった。
「水の中にいたのに、藤川に空からやられた。瑞希のところに行って傷を治してもらう」
川田は肩を抉られていた。赤い血が水面に漂う。
「海神の玉は私が受け継いだ。私が祈りをささげる」
よどんだ水上でドロシーが川田の傷へ手を置く。胸もとから珊瑚の玉をだす。
「いくよ! 人間になんか戻りたい獣人のために私は祈る。そうすれば哲人さんも守られるから」
そんな適当な唱えで祈りが通じるのか? だとしても俺はドロシーに貼りつきながら周囲を警戒する。藤川め、姿を現さずに姑息すぎるって、また紫色が漂ってきたぞ。
「心をまったく込めないのに傷が塞がった。まだ痛いが、さすがボスが囲む女の筆頭だ」
「へへ。私とこの玉は相性いいかな。輝かないけど」
「なので、これからはドロシーを姉御と呼ぶ」
川田が俺達を両手に抱える。「毒ガスから逃げるぞ」
「ちょ、うぇっぷ」
「や、うぅええっぷ」
俺達を抱えたまま犬かきを始めやがった。俺とドロシーの顔が水面へ交互に叩きつけられる。悪意がないから護符が発動しないし、驚くだけで痛くも苦しくもない。
抵抗する間もなく二人は籠へと投げ入れられる。
「折坂と鬼は追いかけっこ……鬼ごっこだ。挟み撃ちにしたいが、そうすると空から邪魔が入る」
川田が抉れたままの肩をぐるぐる回しながら言う。
「おええ……、藤川は空を飛べるの?」
ドロシーが水を吐きだしつつ心の声で尋ねる。
「奴は何かに乗っているな。藤川はボスと姉御でなんとかしてくれ」
「見えないままだと異形まで攻撃しちゃうけど、なんとかする。だから川田さんも夷ちゃんを殺しちゃダメだ。折坂が剣を使ったら、折坂を攻撃して」
腐敗した巨大鬼を『ちゃん』づけしだしたドロシーが、同士討ちを提案しやがった。俺は呼吸を整えるだけ。陸地ならまだしも、水中戦だと魔道士と異形のペースについていけない。
「分かった。狩りじゃなくてお遊びだ」
川田がじゃぼんと潜りなおし水中へ去っていく……。
冷静になれ。自分のペースを取り戻せ。そのために、とりあえず服を脱ごう。着替えはまだリュックサックにあるはずだけど、ここでは下着だけで過ごそう。
断言できる。水牢はただの人にはハードステージすぎる。
「哲人さん、リュックサックを返して」
背中を向けて脱ぎだしたのに、ドロシーが俺の正面にやってくる。俺が降ろした迷彩柄のリュクを手にしたぞ。彼女も服をだして着替える気か?
「どうせ濡れるから脱ぐだけにしよう」
「異形になろう」
「はい?」
ドロシーがデカくて透明な玉を、リュックサックから上半分だけ顔ださせる。
「そうすれば私は飛べて哲人さんは沈んでも
早口で教えてくれたけど、デニーに甘えただと?
「どうやって?」
「だから同じ玉に一緒に同時に触れる」
俺の質問を勘違いしたが、びっしょりに垂れ下がった髪の毛。体にぴったり貼りついたシャツ。奇跡的瞳は期待に爛々としていて、早々にぶつぶつ唱えはじめる。
彼女の脳内理論だと、どうやら俺はそれだけで玄武もどきになれるらしい。
「やめよう……」
向かい合わせで俺は言うけど、紫色の霧が漂ってくる。空から青い斬撃がいくつも飛んでくる。お天狗さんがドロシーの胸もとから懸命に俺達を守るけど。
藤川匠は本気で俺を殺したいらしい。夏奈を怒らすのも仕方ないようだ。
だったら俺はキモくなっていい。このシチュエーションで藤川匠と戦えるのは、ドロシーだけ。彼女に羽ばたいてもらうしかない。
「やっぱり急げ!」
「哲人さんも玉に触れて!」
ドロシーの触れようとする玉に俺も手を伸ばす。……青い玉を思いだす。夏奈の手をはらおうとして、コバルトブルーに吹っ飛ばされた全ての始まりの瞬間――
耐えろ! 気を失うな!
人でなくなっていく俺は、俺達の人としての魂 が玉に吸われ、代わりに異形である魂 が俺達の魄 に乗り込み、俺とドロシーが詰まった玉が飛ぶ斬撃を受けて、
契りの妨げは赦せぬ
火伏せの神が甚大な怒りを込めて、撃った者へと打ちかえすのを見ていた。
「うっ」
「見つけた。もう見逃さない」
藤川匠のうめきも、ドロシーの勝ち誇った声も、異形になりながら聞いた。
大魔導師の術と火伏の護符が激突する力は強大で、俺とドロシーはあのときの俺と夏奈みたく、散れぢれ吹っ飛ばされる。
次回「力ある者」
水滴の音と腐臭。風はなく、涼しいのにじっとりしている。
俺達を乗せた籠はワイヤーだけで頼りなく浮かんでいた。
「私は水泳が苦手というか、たぶん泳げない。泳いだことないから」
人になき力を持つ魔道士であるドロシーが、いまさら宣言する。
「貴様なら溺れながらコツを覚える」
折坂さんが根拠なきを告げる。
「だが、まだ夷を攻撃するな。奴が戦いの時を決める。そういう取り決めで遊んできた」
「……つまり遊びを続けるのですか?」
俺は夷を見つめたままで尋ねる。そんなゲームに参加したくない。
「夷が成敗されずに生かされている理由を考えろ」
「へへ、ほどよく強いからだ。満月の夜の大和獣人の相手をできる程度に」
「それだけであるはずないが、人の身を考えぬ貴様には分からぬだろう」
折坂さんが振り向かずに言い捨てる。
彼の横には川田。その背後で俺とドロシーが抱きあっている。全員がびしょ濡れで週末を挟んだゴミ袋の残飯ほどに匂う。生命には関わらぬようで、護符が汚水をはじいてくれない。うがいをしたい。
夷が三つの目で折坂さんを見つめている。恋焦がれた目のように感じる。
「藤川匠が怒っている。松本にだ」
片目を血の色に照らされた川田が上を探る。手にした天宮の護符が闇のように暗く光っている。
「どこにいるの?」
汚水まみれのドロシーが俺の胸から離れる。その手に七葉扇が現れる。
「見つけられない」
折坂さんの歯ぎしりが聞こえた。その手に日本刀が現れる。
川田が鼻を鳴らしながら、それを見る。
「その刀からドロシーの死んだ匂いがする」
絶対に触れてはいけないことに露骨に触れやがった。ドロシーの歯ぎしりも聞こえた。
「その刀の名は?」俺は特技のごとく話題を逸らす。
「異形が使うものに銘などない。だが過去の宮司から授かった大切なものだ」
「だったら無音に名付けてもらえばいい。いまの愛しい飼い主に」
ドロシーが扇を円状に広げる。
「藤川を倒すのは始めていいよね。私が見つけてやる。照らせ!」
紅色の光が血の色の光を飲みこむ。闇さえも飲みこみ、はるか上の天井がおぼろに照らされた。スカイツリーを真下から見あげるとこんな感じかな。
「なんだこりゃ」
夷が水中から爪のはえた巨大な手を慌ててだし、三つ目を覆う。波紋が地底の池をたどり、俺達が乗る頼りない籠を揺らす。
「……これは責めだろ。折坂、約束を
「愚かな娘だ。水中戦が始まる。泳げようが泳げまいが、人にはきついな」
「狩りの時間だ」
ふたりの獣人の声を聞きながら俺は思う。水牢と聞いていたのだから、水着とは言わないけど防水の準備をしておけばよかった。スマホがまた水没する。
「ドロシー。リュックにスマホを入れ……」
巨大な鬼が風呂から上がるように体を持ち上げた。龍や白虎よりは小さいけど、夷が起こした波紋はもはや高波で、迫りくるそれを見ながら俺はまた思う。どういう場所かをしっかり聞いておけば、鶏子を借りて空から戦えたのに……この水牢こそ大蔵司の陸海豚が真骨頂のステージだろ。貸せよ。
「始まるぞ」
「さきに行くぜ」
川田と折坂さんが跳躍して波を避ける。そのまま水中に飛びこむ。俺とドロシーは息を止める。柵にしがみつき、汚水をたっぷりと浴びる。
目を開けると右上空から青い光が一直線に俺へと――護符が発動した。
ズドン
直撃を受けて、俺は吹っ飛ぶ。籠から落ちて紅色に照らされた地底湖へ沈む。……服が重い。命の危機なのに、火伏せの護符は水には無力なのか。初めて知った。胸がじんじん痛む。これが藤川匠の術か。初めて喰らった。木札がなければ死んでいた。……人の世界でない水牢。ここで人である俺を殺す気かも。
なんとか顔を水面にだす。全部脱いでしまいたい。
「哲人さん! おぼれる、ゴボゴボ、オエッ」
巻きこまれたドロシーが3メートルほど向こうで、あえぎながら俺へ手を伸ばしていた。
「落ちついて!」
俺は助けに向かうけど、彼女の背へと後方から一直線に青い光線――
ドクン
俺の手から護符が消える。同時にドロシーが吹っ飛ぶ。頭から飛んできて、俺の頭に激突する。……痛い。目がチカチカする。水中に沈む。
「ぷはっ、おええ、げほげほ」
「ごほごほっ、ひいい、哲人さん!」
水面に顔をだすと、ドロシーが完璧な着衣立ち泳ぎで寄ってきた。
「ひええ、やっぱり私は泳げない。沈まないだけ。だから助けて」
しがみつかれて俺は頭まで沈む。
「あれ? 藤川の術が当たったよね。痛くない。背中も頭も。あれ?」
顔を上げた俺へと言い、シャツの襟もとを覗く。
「なんで? 木札がブラジャーの真ん中に挟まっている」
そんな行動の支えにされて、俺はまた顔まで沈む。呼吸も思考もおぼつかないまま顔をだすと、巨大な鬼が勢いよく湖にもぐるのが見えた。またもや穢れたビッグウェーブが押し寄せてくる。
モーターが壊れた走馬灯ぐらい脳みそを回転させろ。そして心で箇条書きしろ。
・藤川匠が俺を狙った。その必要なく俺は溺死するかも?
・火伏の護符がまたドロシーを守ってくれた。つまり水をたっぷり吸った服を着た今の俺は守られていない?
・川田が天宮の護符を手に狩りにでかけた。俺を守るためでないから光るはずなく、邪魔だと捨てる。そしたらそれは誰の手に現れる?
俺にしがみつくドロシーの手が紅色に輝く。
「へへっ」彼女は勝ち誇るように笑い「螺旋は力を奪うから温存する。噠!」
紙垂型の木札から放たれた紅色の光が、迫りくる大波を突き破る。水にでかい穴が空いただけ。波はそのまま俺達を飲みこむ。抱き合ったまま離れない。
よどんだ水。視界ゼロ。なのに紅色に照らされる。ドロシーが手にする天宮の護符が光っているからだ。それは俺を守るためにそれぞれの持ち主の色に輝くのであり、その方程式からすると、いまの俺は生命の危機……。
三つの巨大な目玉が近づいてきた。
ドロシーが俺から体を離し、髪を海藻のように漂わせ、上唇を舐める。七葉扇と天宮の護符を交差させる。紅色の魚雷みたいな螺旋が、夷のひたいにある目へ突き刺さる。悲鳴が水中で渦を巻く。
俺達は必死に上を目指す。溺死した怨霊が四肢にしがみついているよう。ジーンズもシャツも破り全裸になりたい。
「灯!」
水面に顔をだすなりドロシーが地底湖を照らす。
「げほげほ、おえ、はあはあ……見た? 夷の瞳はつぶらだった」
ドロシーが喘ぎながらしがみつく。それより陸に上がりたい。
「おええ、げほげほ……籠は?」
「螺旋はきつい。もう使いたくない。はあはあ……やっぱり王姐はすごい」
「籠はどこ?」
「かなり離れちゃった。どうしよう……潜って!」
せっかく空気を吸えたのに、ドロシーに顔を押される。
真上を紫色が漂うのが見えた。紫毒だ。人だから吸えば即死かも。でも呼吸がもたない。体力も限界だ。ドロシーもみたい。
二人は並んでまた水面に顔をだす。
紫色オンリー。
「護符が助けている!」
ドロシーが叫ぶ。……俺もだ。呼吸をしても毒を吸い込まない。二人を守るお天狗さんの木札……。
水面を真っ二つに裂くように、青い光が飛んでくる。これは漫画で定番の飛ぶ斬撃って奴だな。
「わあ!」
「きゃあ!」
さすが破邪の剣。火伏せの神に守られた二人だろうと吹っ飛ばされる。ドロシーとつないだ手が離れる。護符の守りが遠ざかる。
まわりはなおも紫色の世界。肺が激痛。呼吸が
「よかった。間にあった」
ドロシーは抱きついてない。水面で仰向けに浮かぶ俺の顔を安堵たっぷりに見つめていた。
「なぜだか木札が私しか守らない。だから私から離れないで」
……たぶんドロシーから癒しを授かったのだろう。
やはり人だとあの毒は即死レベルだと、身をもって確認できた。でもキスされてしまった。ここから先は苦しまないまま溺死してしまう。しかも護符は、未来の所有者の母親優先に守りやがる。父親は自力で頑張れと言うのかよ……。
決めた。終わったら結ばれてやる。でも……国際結婚だと重婚できるかな?
現実逃避はやめろ。汚水に漂いながら考えろ。川田と折坂さんと夷は潜ったまま所在不明。俺は座敷わらしだったときも息継ぎしないとならなかった記憶がするが、たぶん彼らなら生きているだろう。
「きゃあ!」
「わお!」
また背後から吹っ飛ばされた。
藤川は姿を見せぬまま遠距離からの攻撃。お天狗さんはドロシーの胸の谷間で怒りまくっている。
「げほっげほっ……、あの鬼の瞳は邪でない。だから改心している。急に襲ってきたから躾けちゃったけど、もう私も哲人さんも夷を倒さない。……夷をまた邪に引きずる藤川は大悪だ」
ドロシーの決意の声に、俺の意識もはっきりしてくる。
知らぬ間に、あちこちに朧な光が灯っていた。
さすがドロシー。俺が九割ほど死んだ際に介抱ついでに地底湖を恒常的に照らしたようで、陸地が新宿駅から代々木駅ぐらい遠くて絶壁なのを視認できた。
俺達は湖のど真ん中。籠がプールの端から端ぐらいの距離に見えた。つまり25メートルほど。
「あそこまで泳ごう」水中からあがりたい。
「
「やめてくれ、俺だ」
水中からいきなり顔をだした川田へ、当然のようにドロシーが天宮の護符を向けた。でも俺を守る護符。川田へと紅色の光は発せられない。七葉扇を選ばれなくてよかった。
「水の中にいたのに、藤川に空からやられた。瑞希のところに行って傷を治してもらう」
川田は肩を抉られていた。赤い血が水面に漂う。
「海神の玉は私が受け継いだ。私が祈りをささげる」
よどんだ水上でドロシーが川田の傷へ手を置く。胸もとから珊瑚の玉をだす。
「いくよ! 人間になんか戻りたい獣人のために私は祈る。そうすれば哲人さんも守られるから」
そんな適当な唱えで祈りが通じるのか? だとしても俺はドロシーに貼りつきながら周囲を警戒する。藤川め、姿を現さずに姑息すぎるって、また紫色が漂ってきたぞ。
「心をまったく込めないのに傷が塞がった。まだ痛いが、さすがボスが囲む女の筆頭だ」
「へへ。私とこの玉は相性いいかな。輝かないけど」
「なので、これからはドロシーを姉御と呼ぶ」
川田が俺達を両手に抱える。「毒ガスから逃げるぞ」
「ちょ、うぇっぷ」
「や、うぅええっぷ」
俺達を抱えたまま犬かきを始めやがった。俺とドロシーの顔が水面へ交互に叩きつけられる。悪意がないから護符が発動しないし、驚くだけで痛くも苦しくもない。
抵抗する間もなく二人は籠へと投げ入れられる。
「折坂と鬼は追いかけっこ……鬼ごっこだ。挟み撃ちにしたいが、そうすると空から邪魔が入る」
川田が抉れたままの肩をぐるぐる回しながら言う。
「おええ……、藤川は空を飛べるの?」
ドロシーが水を吐きだしつつ心の声で尋ねる。
「奴は何かに乗っているな。藤川はボスと姉御でなんとかしてくれ」
「見えないままだと異形まで攻撃しちゃうけど、なんとかする。だから川田さんも夷ちゃんを殺しちゃダメだ。折坂が剣を使ったら、折坂を攻撃して」
腐敗した巨大鬼を『ちゃん』づけしだしたドロシーが、同士討ちを提案しやがった。俺は呼吸を整えるだけ。陸地ならまだしも、水中戦だと魔道士と異形のペースについていけない。
「分かった。狩りじゃなくてお遊びだ」
川田がじゃぼんと潜りなおし水中へ去っていく……。
冷静になれ。自分のペースを取り戻せ。そのために、とりあえず服を脱ごう。着替えはまだリュックサックにあるはずだけど、ここでは下着だけで過ごそう。
断言できる。水牢はただの人にはハードステージすぎる。
「哲人さん、リュックサックを返して」
背中を向けて脱ぎだしたのに、ドロシーが俺の正面にやってくる。俺が降ろした迷彩柄のリュクを手にしたぞ。彼女も服をだして着替える気か?
「どうせ濡れるから脱ぐだけにしよう」
「異形になろう」
「はい?」
ドロシーがデカくて透明な玉を、リュックサックから上半分だけ顔ださせる。
「そうすれば私は飛べて哲人さんは沈んでも
たぶん
死なない。デニーさんに甘えたら色々教えてくれた。肝心な部分をぼかしたって私は頭良くて魔法陣の呪文もほぼ覚えている。もちろん言葉だけでは不充分だから昨夜より未完成な四神獣になる。代わりに玉はひとつだけでよし」早口で教えてくれたけど、デニーに甘えただと?
「どうやって?」
「だから同じ玉に一緒に同時に触れる」
俺の質問を勘違いしたが、びっしょりに垂れ下がった髪の毛。体にぴったり貼りついたシャツ。奇跡的瞳は期待に爛々としていて、早々にぶつぶつ唱えはじめる。
彼女の脳内理論だと、どうやら俺はそれだけで玄武もどきになれるらしい。
「やめよう……」
向かい合わせで俺は言うけど、紫色の霧が漂ってくる。空から青い斬撃がいくつも飛んでくる。お天狗さんがドロシーの胸もとから懸命に俺達を守るけど。
藤川匠は本気で俺を殺したいらしい。夏奈を怒らすのも仕方ないようだ。
だったら俺はキモくなっていい。このシチュエーションで藤川匠と戦えるのは、ドロシーだけ。彼女に羽ばたいてもらうしかない。
「やっぱり急げ!」
「哲人さんも玉に触れて!」
ドロシーの触れようとする玉に俺も手を伸ばす。……青い玉を思いだす。夏奈の手をはらおうとして、コバルトブルーに吹っ飛ばされた全ての始まりの瞬間――
耐えろ! 気を失うな!
人でなくなっていく俺は、俺達の人としての
契りの妨げは赦せぬ
火伏せの神が甚大な怒りを込めて、撃った者へと打ちかえすのを見ていた。
「うっ」
「見つけた。もう見逃さない」
藤川匠のうめきも、ドロシーの勝ち誇った声も、異形になりながら聞いた。
大魔導師の術と火伏の護符が激突する力は強大で、俺とドロシーはあのときの俺と夏奈みたく、散れぢれ吹っ飛ばされる。
次回「力ある者」