四十三の一 終わっているはずない

文字数 3,248文字

 屋上の楊偉天は宙に浮かんでいた。

「昇よ。まさに根競べであったな。この地でも無益な死が続くかと、さすがに不安になった。おそるべきは、げに劉昇。だが儂の勝利で終わる」

 楊偉天以外に誰もいない。乗り越えられるぐらいのフェンスに囲まれた狭い空間なのに、川田達はどこにも見あたらない。
 楊偉天が杖をかかげる。

「みなは結界に閉ざされている。だが楊の結界は再生する。まとめて消さねばならない」

 師傅が破邪の剣をかざす。楊偉天も杖をおろす。朱色の光が群れとなり、俺達へと向かう。師傅の剣から鋼色の光が飛びたつ。朱色の鳥達を交差するなり消し去り、楊偉天のもとへと突きすすむ。

ヒヒヒ

 楊偉天の姿が蜃気楼のように消える。鋼色の光も闇に消える。――上空から朱色の蛇達が俺と師傅を襲う。護符が発動して、蛇は俺に触れるなり消える。師傅が剣を薙ぎ、残りの蛇達もかすんで消えていく。

ヒヒヒ

 楊偉天の笑い声だけが闇空に響く。
 低空に赤い星がいくつもきらめく。師傅が剣で闇をはらう。ぼた雪のように落ちてくる朱色の光を跳ねかえす。剣を逃れた光が師傅に張りつく。師傅は手でつかみとり、地面に叩きつける。俺に触れた光はそのまま消える。

バサッバサッバサッ

 重たげな羽音。上空からの突進を、師傅が転がるように避ける。大カラスが降りたった足もとから煙があがる。
 俺はぶん殴ろうとするが、焔暁はすぐに飛びたつ。その上空から、うねる光が襲う。師傅の剣がはじき返そうとして、なにかにさまたげられる。師傅へと朱色の光が巻きつく。

「結界がへこんだ。劉昇はまだ強い」竹林の声。「流範まだかな」

 師傅が全身に力をこめ、縛りつける術の光を微塵にする。
 俺には大カラスがからんでこない。護符があるからだけでない。この人を倒せば勝負が決するからだ。

「みなを包む鳳雛窩をまとめて消さねばならない。私が巨光環(チーグァンホァン)を発する猶予を作ってくれ」

 師傅が荒い息で言う。
 その難しい名前はなんだ? ……姿隠しの結界と、あのでかい光の輪のことだな。

「昇よ。終わっていることに気づきなさい」
 楊偉天の声が下から聞こえた。コンクリートの地面から、ゆっくりと浮かびあがる。
「ノウマキインガロゼ……」

 不快な言葉を声として唱えだす。……背筋が凍える。これが、いにしえの呪文かよ。

「ザイシンガイガツエダツ!」

 師傅が祓いの言葉を声として発する。楊偉天の呪文が弱まる。

「ノウマカインゴロゾ……」

 楊偉天はなおも呪いの言葉を唱える。師傅がよろめきながらも祓いの言葉を続ける。

『焔暁だ!』俺の中で桜井が叫ぶ。『ヤバいくらい燃えている』

 上空を見上げる。なにも見えない。それでも俺は師傅の前へとでる――。呪いと祓いに挟まれる。護符はどちらもはじき返すが、じわりと不快が押し寄せる。
 ……護符が穢れたな。だとしても上空へとかかげる。

「わあ。強火と火伏せの正面衝突だ!」

 竹林の声が横へとずれる。結界に隠れていた業火が露わになる。
 俺は灼熱に襲われる。護符を握った左手を右手でさらに握りしめる。焔暁の燃える爪を受けとめる。これは……、熱いなんてものじゃない!

「あちー!」
「いてぇー!」

 俺と焔暁がたがいにはじきとばされる。俺は師傅に受けとめられる。焔暁は薄らぎながら楊偉天のもとに転がりこんでいく。

「護符封じの術を焔暁にかけている」師傅が言う。

 やはり楊偉天がいたらお天狗さんも意味なしか……。ひりひりと痛む自分の手に目を向ける。赤く腫れているが、それすらもおさまっていく。その手を開く。木札だけが黒く焦げていた。

「気をたもて!」
 呆然とする俺を、師傅の腕がさらに引き寄せる。「巨光環だ」

 師傅が剣をはらう。目の前に鋼色の輪郭が発生する。光が水平に飛びたち、巨大なベーゴマのように屋上を蹂躙していく。

「思玲も殺すつもりか……」
 光線の中で老人の声が消える。

「私はみなを守ると誓った」
 師傅は剣を持ちなおす。「さもなければ鴉どもも消えた」

 すべてを消し去る光の上で、大カラスが必死にばたついている。師傅が剣を向ける。
 でも突風に焔暁が運ばれる。剣が発した光は、虚空を流星のように消えていく。

「護符除けのせいでなおさら重いぞ」

 上空で雷鳴のごとき声が反響する。見上げると、大カラスが大カラスを爪で抱えて羽ばたいていた。
 溶けて消えたはずの異形が南の空に浮かんでいる。俺をにらんでいた。

「俺へと手をあわせやがったな。おかげで俺の魂はだいぶ奥まで行った。呼ばれても、戻るのに時間がかかってしまった」

 こいつは焔暁や竹林よりずっと強いのだろう。敗死を強いた俺を見る目に、なおも自信が隠れている。

『カラスなんかシカト! もう、みんな見えるよね』

 桜井に怒鳴られる。
 目線を水平に戻すと、巨大な輪が消えた屋上は街に浮かぶ虚ろへ戻っていた。

「桜井か!」川田の声。「松本の匂いもするぞ。どこにいる?」

 屋上の中央にかたまるように三人はいた。座りこむ横根。地面へはりつけにされた思玲。その二人を守るかのように、尻尾を凛とまるめた子犬がいた。
 横根が子犬を抱きよせる。俺はみんなのもとへと駆けだす。

「松本……」川田が声をしぼりだす。「瑞希ちゃんはまた人形だ」

 俺は無表情の横根を見おろす。彼女は子犬の首を絞めあげていた。子犬を奪いとる。

『見知った人の痛みと苦しみにだけ、松本君は本気で怒るんだね』
 桜井はなにかに耐えている。『私にも、その気が伝わっちゃうよ』

「瑞希ちゃんは操られているだけだ!」

 腕の中で子犬がわめく。傷だらけで火傷だらけじゃないか……。その目は両方ともふさがれていた。

「海神の玉は、人の作りし(およずれ)には無力。白虎の娘は老師の術には抗えない」
 師傅の覇気なき声がした。

 上空を大カラスとくすんだ鋼色の光が飛び交うなか、横根が立ちあがる。胸もとで珊瑚のペンダントが揺れる。彼女は無表情のままで俺の首へと手を伸ばす。

トクン

 弱った護符がなおも発動する。……傀儡の横根は殺意を持っている。俺は護符の怒りに耐える子犬を手放し、彼女から後ずさる。仰向けで身動きが取れない思玲へと目を向ける。
 彼女も目だけを俺へ向けていた。

「み、な、を、守、れ」思玲が声を伝える。

 彼女は力になれない。上空を異形の鳥が舞う。守るべき横根の手が俺の首へと向かう。混沌だ。どうすれば――。
 Tシャツの胸もとが内側から切り裂かれる。

『横根――ちゃん!』桜井が飛びだす。「目を覚まそ!」
 小鳥のタックルを受けた横根が吹っ飛ぶ。

「桜井、加減しろ!」

 駆けだした川田へと疾風が向かう。

「瑞希ちゃんを傷つけたのは、あんただね!」

 小鳥が風に飛びこむ。流範は羽ばたきをわざとらしくゆるめて、笑いながら逃げる。

キャイン

 横根の目の前で、子犬が悲鳴をあげて転がる。青い小鳥が川田へと急降下する。空間に突撃する。

「結界カラスめ。くちばしだけだして、つついただろ」
 小鳥が地面をにらむ。

「そうだよ。さっきは目を潰したから、今度は鼻を潰した」
 竹林の声だけする。
「次は耳」
 おさなき声だけが舞いあがる。

「ざけんな!」小鳥が怒鳴る。

 ……桜井の気配で屋上が覆われる。それに波長を合わすように、空がまたどよめく。彼女を俺のもとに戻さないと。手遅れになる前に……。気配に振りかえる。
 老人が入り口に立っていた。もう勘弁してくれ。

「夏奈よ。まだ耐えなさい。その息子の服に戻ってもいいぐらいだ」
 楊偉天が横根へと顔を向ける。
「愛らしい白虎の娘よ。夏奈を連れてきなさい」

 横たわっていた横根が顔を上げる。無表情で無感情の顔。

「ジジイ、ふざけんな!」
 桜井が吠える。横根の前へと飛び「瑞希ちゃん、目を覚ませ!」

 雄叫びが響きわたる。ビルが震える。黒雲がうずまく……なんだよこれ。
 横根がきょとんとした顔で立ちあがった。目の前に浮かぶ小鳥を見つめる。猫のような素早さで両手に捕らえる。

「ツカマエタ」

 傀儡の横根は笑わない。楊偉天の妖術は龍の咆哮でも消せないと知る。




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