二十の二 忌むべき二人
文字数 3,407文字
高校生ぐらいの王思玲が目のまえにいた。黒髪をストレートにおろしている。眼鏡をしていない。怪訝な顔でおのれの身体を見おろす。
そんな彼女はきれいすぎて、俺は目を逸らしてしまう。
「こっちを向け」
顎をもたれる。
「哲人の大事な場所は覗かぬから心配するな。目を見せろ。そして私の目を見ろ」
ここは俺の中。俺と思玲しかいない場所。接するほど前にいる、俺より若くて生まれたままの姿の思玲に従う。……きつい眼差し。黒目がちな瞳……あれ?
「思玲だ。思玲がいる……」
間の抜けた言葉を口にしてしまう。でもたしかに、目の前にいるのは思玲だ。ただの人である王思玲だ。
「哲人だっているぞ。懐かしいな」
俺を見る彼女の目は、輝きすぎた木漏れ日のようだ。
「私に欲望を向けない人のままの哲人だ。情けないだけの哲人だ」
俺達は心まで裸。ここでは異形でも魔道士でもない。ここにいれば忌むべき二人ではない。
「書は破いて捨てる」
彼女の手に死者の書があった。「麻卦や南京の坊主が怒ろうが知ったことじゃない。魔道団の仕業にしてやれ」
いまの俺は囚われていない。未練などどこにもない。
「ここで一緒に破ろう」
だからそう答える。
思玲がうなずく。裸の二人は見つめ合ったまま古びた書を引っ張りあう。たやすく破れて、書は粉と化す。俺の中から外へ舞って消える。
俺はあらためて思玲の身体を見る。
「やっぱりきれいですね」
欲望から逃れているから素直に口にだせる。
「哲人は私へいつまで敬語だ?」
年ごろの思玲は笑う。
「それより、暴雪 を聞いておけばよかったな」
書が無くなってから笑う。
「どうせ煙に巻かれるだけだよ」
俺も笑う。
「そうでもないはずだが、お前達には宝の持ち腐れだった」
声が俺のなかへ闖入した。
「書の破片はかき集め、もとに戻してから先生に渡そう。これで私から逃れる手段は消えた」
「うっ」
目のまえの思玲が悲鳴を漏らす。
「暴雪!」
俺は思玲を自分へ引き寄せる。抱き寄せる。彼女は俺の胸にもたれる。
俺は意識を外に向ける。夜の墓地。異形の気配はない。
「ぐおっ」
自分の悲鳴が聞こえた。縦に深く、背中を切り裂かれた衝撃。
「しくじった」と思玲は俺から出ていく。「我、人であったものを守るため」
服を着て眼鏡をかけた思玲が円状に七葉扇をひろげた。よろめくように舞う。その背中は赤く濡れていて、俺達は急造の結界に包まれる。
異形であるくせに俺はむせる。妖怪のくせに血が口にまわってくる。それでも天珠を取りだす。
「琥珀、何をしている!」
「小鬼と大燕は弱いから殺せなかった。退場だけさせた」
結界の中で声が返ってくる。天珠を握った右腕が涼しくなった。腕は無くなっていた。
「暴雪! どこだ!」
思玲の手に小刀も現れる。「ああ」とうずくまる。
しゃがみこんだ彼女の足もとの地面に血がひろがる。真っ暗なのに妖怪だから見えてしまう。
「松本哲人と王思玲。人だとしてもおぞましき人だ。忌むべき人間だ」
声だけが近い。気配はない。「先生は正しい。二人は人の世から消えろ」
見えない刃物で胸を斜めに切り裂かれる。やられてから気づくだけ。急ごしらえの結界はとっくに砕かれている。
「思玲、逃げよう」
大蔵司とドロシーのもとへ。俺は残された左手で彼女の肩をつかむ。
「ざけんな、戦え!」思玲は俺の手を払う。「白虎め、貴様こそ化け物だ」
「先生の式神である私を揶揄することは、先生を貶 めることだ」
抑揚なき声。
「王思玲よ。お前が弱れば低級な異形が寄ってくる。さらに弱まれば連中に襲われる。お前はいずれ魔物に喰われて死ぬさだめだ。そうなる前に殺してやろう」
「や、やめ」
思玲が手でおのれの顔を覆う。その腕が見えない刃で何度も裂かれる。みるみる血まみれになる。
弱い攻撃……おかしい。こいつは傷が癒えていないかも。俺達を一口で飲み込めず噛み砕けない。
違うだろ。人なき夜の墓地で、この虎は俺達で遊んでいる。ネズミみたいに弄ばれている。
俺の手に独鈷杵が現れる。
俺は異形だから復活する。でも思玲はそうはいかない。大蔵司なら回復でき――窮地だから感じる。蜜月は過ぎた。もはやあてにできない。あの人は影添大社に従う。
だから俺が思玲を守る。
「猫め!」と独鈷杵を投げる。
思玲の真ん前でそれは弾かれる。
俺の残された手に法具は戻ってくる。
「私の爪で壊せなかったぞ。さすがは楊偉天を倒した憤怒だ」
抑揚なき声が答える。
「たしかに私は猫だ。獲物があきらめるまで、茂みにいくらでも潜んでいられ――うっ」
目のまえの空間へと矢が刺さった。
「……ウンヒョク殿、なぜに私を?」
暴雪が戸惑いをにじませた。
そいつは誰だ? ……聞いた覚えがある。なにより緑色の瞳を思いだす。
「そりゃ狩りのためだ」
墓地の奥から男の影が近づく。
「暴雪 を狩るためだ。それって最高のスリルだろ?」
背高く若い男。俺よりちょっと上の年齢……。シンプルな臙脂色シャツと白色パンツの着こなし。明るく染めた髪……イケメンだ。心への声は、おそらく韓国語。
ウンヒョクと呼ばれた男は俺と思玲に目を向けない。
「覚えているよな? 俺の矢には紫毒を塗ってある。もちろんただの紫毒ではない」
ウンヒョクは洋弓 を持っていた。
「暴雪、逃げろよ。追える楽しみって奴だ。それとも、その二人にとどめを刺したいか? けれども認めない。俺の前で人殺しはできない」
消された記憶――六魄の話を思いだした。イウンヒョク。キム老人の一番弟子。日本にいる。
その男に白虎を狩らせる。そのための餌が王思玲と松本哲人。
「先生はあなたを許すと仰っています。だが私をこれ以上傷つけるとそうはいかない。……先生が存命のうちに、もう一度お顔を見せてあげてください」
声が遠ざかる。
「そのまま爺さんのもとへ帰れ。いまはお前の季節だろ」
緊張した時間が過ぎていく。またしても片腕だけになった俺は立ちすくんでいる。
「……白虎は去ったのか?」
血だらけの思玲がウンヒョクへ尋ねる。
「俺から逃げた。あの式神とは旧知だから、さすがに殺すのは気がひけた。さて俺らも逃げよう」
「ふん。一人で倒せるはずないだろ。暴雪こそお前と戦いたくないから逃げたのでは? というか、お前は誰だ?」
そう言って思玲はよろめく。その横で俺は立ったまま。
ウンヒョクが俺達を見る……。思玲だけを見つめる。
「王思玲……すっげえ美人だし」
人の言葉で流ちょうに日本語で話しだす。
「俺は韓国出身のイウンヒョク。爺さんと喧嘩して日本に来た。居候代として、暴雪を倒すのをデブの麻卦に頼まれた。
正直いうと俺だけで夜の白虎を倒せるはずない。でも異形を狩るだけならば、あんたの師匠と同格かもな。……かわいいね、すげえかわいい。ソウルにも東京にもいないスタイルだ。一目惚れできるレベル。持ち帰りたい」
ウンヒョクは俺を見ない。思玲だけに微笑む。
ほめちぎられた彼女はぎょっとした顔で後ずさりする。
「なぜ人の声かつ日本語で話しかける? 私は台湾人だぞ」
「え? ……もしかして通じていたの?」
「ああ」
「まいったな。心の声だと伝わっちゃうから、わざわざここの言葉で話したのに」
イウンヒョクは俺など存在しないようだ。でも真顔になる。
「続きは影添大社でだ。俺が傷ついた君をかくまう。心からいやすこともできる」
「かくまうって、暴雪は逃げてない?」
俺の言葉に、ウンヒョクが嫌悪露わな顔を向ける。
「人の形をした異形が話しかけるな。いま思玲とお前を狙っているのも、人の形をした化け物だ」
その手から洋弓が消えて、思玲を抱えあげる。
「そいつは、思玲達が暴雪にとどめを刺されるのを待っていた。でもこうなると姿を現す。君を守りながらだと俺でも辛い。だから避難しよう。バイクを麻卦に借りた。――カッス来てくれ」
墓石を倒すことなく、無人の大型バイクが跳躍してきた。
「お急ぎください。奴らに勝てるはずありません」
「ま、待て。哲人も」
「異形にかまうな。行け」
思玲を抱えた韓国人がバイクに半身を乗せる。同時にバイクが跳ねる。エンジン音を聞かせることなく闇から消える。
「……思玲」
返事などない。腕を失うほどの重傷を負った俺だけが残される。巨大な霊園の奥、人の光も喧騒もかすかな場所に。
「松本哲人。置いてきぼりだね」
あいつの声をひさびさに聞かされた。
次回「ダークなファンタジー」
そんな彼女はきれいすぎて、俺は目を逸らしてしまう。
「こっちを向け」
顎をもたれる。
「哲人の大事な場所は覗かぬから心配するな。目を見せろ。そして私の目を見ろ」
ここは俺の中。俺と思玲しかいない場所。接するほど前にいる、俺より若くて生まれたままの姿の思玲に従う。……きつい眼差し。黒目がちな瞳……あれ?
「思玲だ。思玲がいる……」
間の抜けた言葉を口にしてしまう。でもたしかに、目の前にいるのは思玲だ。ただの人である王思玲だ。
「哲人だっているぞ。懐かしいな」
俺を見る彼女の目は、輝きすぎた木漏れ日のようだ。
「私に欲望を向けない人のままの哲人だ。情けないだけの哲人だ」
俺達は心まで裸。ここでは異形でも魔道士でもない。ここにいれば忌むべき二人ではない。
「書は破いて捨てる」
彼女の手に死者の書があった。「麻卦や南京の坊主が怒ろうが知ったことじゃない。魔道団の仕業にしてやれ」
いまの俺は囚われていない。未練などどこにもない。
「ここで一緒に破ろう」
だからそう答える。
思玲がうなずく。裸の二人は見つめ合ったまま古びた書を引っ張りあう。たやすく破れて、書は粉と化す。俺の中から外へ舞って消える。
俺はあらためて思玲の身体を見る。
「やっぱりきれいですね」
欲望から逃れているから素直に口にだせる。
「哲人は私へいつまで敬語だ?」
年ごろの思玲は笑う。
「それより、
書が無くなってから笑う。
「どうせ煙に巻かれるだけだよ」
俺も笑う。
「そうでもないはずだが、お前達には宝の持ち腐れだった」
声が俺のなかへ闖入した。
「書の破片はかき集め、もとに戻してから先生に渡そう。これで私から逃れる手段は消えた」
「うっ」
目のまえの思玲が悲鳴を漏らす。
「暴雪!」
俺は思玲を自分へ引き寄せる。抱き寄せる。彼女は俺の胸にもたれる。
俺は意識を外に向ける。夜の墓地。異形の気配はない。
「ぐおっ」
自分の悲鳴が聞こえた。縦に深く、背中を切り裂かれた衝撃。
「しくじった」と思玲は俺から出ていく。「我、人であったものを守るため」
服を着て眼鏡をかけた思玲が円状に七葉扇をひろげた。よろめくように舞う。その背中は赤く濡れていて、俺達は急造の結界に包まれる。
異形であるくせに俺はむせる。妖怪のくせに血が口にまわってくる。それでも天珠を取りだす。
「琥珀、何をしている!」
「小鬼と大燕は弱いから殺せなかった。退場だけさせた」
結界の中で声が返ってくる。天珠を握った右腕が涼しくなった。腕は無くなっていた。
「暴雪! どこだ!」
思玲の手に小刀も現れる。「ああ」とうずくまる。
しゃがみこんだ彼女の足もとの地面に血がひろがる。真っ暗なのに妖怪だから見えてしまう。
「松本哲人と王思玲。人だとしてもおぞましき人だ。忌むべき人間だ」
声だけが近い。気配はない。「先生は正しい。二人は人の世から消えろ」
見えない刃物で胸を斜めに切り裂かれる。やられてから気づくだけ。急ごしらえの結界はとっくに砕かれている。
「思玲、逃げよう」
大蔵司とドロシーのもとへ。俺は残された左手で彼女の肩をつかむ。
「ざけんな、戦え!」思玲は俺の手を払う。「白虎め、貴様こそ化け物だ」
「先生の式神である私を揶揄することは、先生を
抑揚なき声。
「王思玲よ。お前が弱れば低級な異形が寄ってくる。さらに弱まれば連中に襲われる。お前はいずれ魔物に喰われて死ぬさだめだ。そうなる前に殺してやろう」
「や、やめ」
思玲が手でおのれの顔を覆う。その腕が見えない刃で何度も裂かれる。みるみる血まみれになる。
弱い攻撃……おかしい。こいつは傷が癒えていないかも。俺達を一口で飲み込めず噛み砕けない。
違うだろ。人なき夜の墓地で、この虎は俺達で遊んでいる。ネズミみたいに弄ばれている。
俺の手に独鈷杵が現れる。
俺は異形だから復活する。でも思玲はそうはいかない。大蔵司なら回復でき――窮地だから感じる。蜜月は過ぎた。もはやあてにできない。あの人は影添大社に従う。
だから俺が思玲を守る。
「猫め!」と独鈷杵を投げる。
思玲の真ん前でそれは弾かれる。
俺の残された手に法具は戻ってくる。
「私の爪で壊せなかったぞ。さすがは楊偉天を倒した憤怒だ」
抑揚なき声が答える。
「たしかに私は猫だ。獲物があきらめるまで、茂みにいくらでも潜んでいられ――うっ」
目のまえの空間へと矢が刺さった。
「……ウンヒョク殿、なぜに私を?」
暴雪が戸惑いをにじませた。
そいつは誰だ? ……聞いた覚えがある。なにより緑色の瞳を思いだす。
「そりゃ狩りのためだ」
墓地の奥から男の影が近づく。
「
背高く若い男。俺よりちょっと上の年齢……。シンプルな臙脂色シャツと白色パンツの着こなし。明るく染めた髪……イケメンだ。心への声は、おそらく韓国語。
ウンヒョクと呼ばれた男は俺と思玲に目を向けない。
「覚えているよな? 俺の矢には紫毒を塗ってある。もちろんただの紫毒ではない」
ウンヒョクは
「暴雪、逃げろよ。追える楽しみって奴だ。それとも、その二人にとどめを刺したいか? けれども認めない。俺の前で人殺しはできない」
消された記憶――六魄の話を思いだした。イウンヒョク。キム老人の一番弟子。日本にいる。
その男に白虎を狩らせる。そのための餌が王思玲と松本哲人。
「先生はあなたを許すと仰っています。だが私をこれ以上傷つけるとそうはいかない。……先生が存命のうちに、もう一度お顔を見せてあげてください」
声が遠ざかる。
「そのまま爺さんのもとへ帰れ。いまはお前の季節だろ」
緊張した時間が過ぎていく。またしても片腕だけになった俺は立ちすくんでいる。
「……白虎は去ったのか?」
血だらけの思玲がウンヒョクへ尋ねる。
「俺から逃げた。あの式神とは旧知だから、さすがに殺すのは気がひけた。さて俺らも逃げよう」
「ふん。一人で倒せるはずないだろ。暴雪こそお前と戦いたくないから逃げたのでは? というか、お前は誰だ?」
そう言って思玲はよろめく。その横で俺は立ったまま。
ウンヒョクが俺達を見る……。思玲だけを見つめる。
「王思玲……すっげえ美人だし」
人の言葉で流ちょうに日本語で話しだす。
「俺は韓国出身のイウンヒョク。爺さんと喧嘩して日本に来た。居候代として、暴雪を倒すのをデブの麻卦に頼まれた。
正直いうと俺だけで夜の白虎を倒せるはずない。でも異形を狩るだけならば、あんたの師匠と同格かもな。……かわいいね、すげえかわいい。ソウルにも東京にもいないスタイルだ。一目惚れできるレベル。持ち帰りたい」
ウンヒョクは俺を見ない。思玲だけに微笑む。
ほめちぎられた彼女はぎょっとした顔で後ずさりする。
「なぜ人の声かつ日本語で話しかける? 私は台湾人だぞ」
「え? ……もしかして通じていたの?」
「ああ」
「まいったな。心の声だと伝わっちゃうから、わざわざここの言葉で話したのに」
イウンヒョクは俺など存在しないようだ。でも真顔になる。
「続きは影添大社でだ。俺が傷ついた君をかくまう。心からいやすこともできる」
「かくまうって、暴雪は逃げてない?」
俺の言葉に、ウンヒョクが嫌悪露わな顔を向ける。
「人の形をした異形が話しかけるな。いま思玲とお前を狙っているのも、人の形をした化け物だ」
その手から洋弓が消えて、思玲を抱えあげる。
「そいつは、思玲達が暴雪にとどめを刺されるのを待っていた。でもこうなると姿を現す。君を守りながらだと俺でも辛い。だから避難しよう。バイクを麻卦に借りた。――カッス来てくれ」
墓石を倒すことなく、無人の大型バイクが跳躍してきた。
「お急ぎください。奴らに勝てるはずありません」
「ま、待て。哲人も」
「異形にかまうな。行け」
思玲を抱えた韓国人がバイクに半身を乗せる。同時にバイクが跳ねる。エンジン音を聞かせることなく闇から消える。
「……思玲」
返事などない。腕を失うほどの重傷を負った俺だけが残される。巨大な霊園の奥、人の光も喧騒もかすかな場所に。
「松本哲人。置いてきぼりだね」
あいつの声をひさびさに聞かされた。
次回「ダークなファンタジー」