二の二 知らない知り合い

文字数 2,797文字

「哲人、石鹸が切れそうだ。今度来るときに買ってきてくれ……。ここにはもう不要だったな」
 濡れた髪をタオルで拭きながら、スーリンがぞんざいに言う。
「チューラン媚びるな。リクト落ち着け。哲人と和戸は、つぎなるアジトを決めたのだろうな?」

 考えてさえいない。

「それよりツバメがなにか伝えたいのじゃないの? 聞いてあげなよ。だよね?」
 俺は頭の上にいるらしい化け物に同意を求める。

「こいつはなにか隠している。間者かもしれぬ」
 スーリンが俺の頭上をにらむ。
「たぶらかそうとするかもしれぬ。そもそもこいつがいれば、私とフーポーの企みも哲人などを頼らずに成就したのにな」

 俺の頭上に扇子を向ける。空気がびくりと動いたような。リクトがスーリンへとうなり声をあげる。

「チューランちゃん。手負いの獣が怒っているよ。川田は弱い者いじめが大嫌いだったからな。カカカッ」
 デスクの椅子からドーンが笑う。
「スーリンが噛まれる前に白状するじゃん。なぜここに来たのか? 今までどこにいたのか? そうしないと俺もお前と競争できねーし」

「和戸では勝てぬ。……その長い尾羽根をリクトに食わすか。そうすれば、カラス程度の速さになるかもな」
 少女が残酷な笑みを浮かべ、テーブルに座る。

 いきなり静寂がおとずれる。真夏の昼間に外からの騒音もない。女の子が俺の頭上をにらむだけだ。

「スーリンちゃん――」
「黙っていてくれ」
 俺は小学生にとがめられる。「この間抜けが、ようやく事実を告げている」

 リクトまでが俺の頭上を見つめている。おそらくスーリンは念を飛ばしている。長くはない時間が過ぎて、

「もういい。言い訳はもういらぬ」
 スーリンが頭のタオルをはずす。
「なぜ肝心のそれを伝えなかった。囮にも使えぬ役立たずの伝令だけはあるな。人の言葉は貴様への当てつけだ。貴様の愚かさを周知するためにな。――和戸、ここをすぐに立ち去るぞ」
 それから俺に顔を向ける。
「すまぬがお前の部屋に退避させてもらう」

 そう言われるのは、うすうす覚悟していたけど、
「遠いよ。ここからだと乗り換え二回して五十分かかる」
 俺の下宿は郊外のはずれだが、実家よりは近いし家賃も安い。

「関係ねーし!」
 ドーンは青ざめた顔で立ちあがっていた。「香港どころじゃないんだろ? 台湾かよ」

「この馬鹿の仕業でな」
 スーリンはすでに荷物をかき集めている。
「チェンが生きていた。あいつらと合流する。この大馬鹿は何年も前の使命を果たすために、その伝令をしやがった。大陸に飛び、ヤンのもとに飛んだ(ヤンウェイテン……、ラスボスだ)。連中の任務を片道だけ完了して、お役が済んだと私のもとへ飛んできた。この大馬鹿のあとを追えば、私にたどり着く」

「チェンって誰だよ? て、てて言うか、リクト、逃げるぞ」
 ドーンが子犬に飛びつくようにリールをつける。
「スーリンは川田を頼む。俺は哲人と箱を運ぶから」

 子犬が興奮してドーンを噛む。いや、喜んでの甘噛みだよな。

「タクシーを呼べ。お前達にはまだ小遣いがあるのだろ」
 スーリンは、使いこまれたスポーツバッグ(川田という人のだ)に端から押しこんでいく。自分の着替え、デスクの上の諸々、包丁に金属バットまで。
「哲人、ぼさっとしているな!」

 女の子におもいきり怒鳴られる。

 *

「馬鹿燕は付いてくるな」
 念を飛ばすのさえ腹立たしいのか、スーリンが空に怒鳴る。バットがはみ出たバッグをトランクにしまう。段ボールを抱えたドーンが後部座席に乗りこむ。
「ここにいろ。すぐに伝令を送る。使えぬ伝令に伝令をな」

 スーリンがドアを強く閉める。段ボールの中の子犬は大騒ぎだ。
 俺は、成人の体を凝縮したほどに重たい木箱を赤い布につつんで抱えながら、運転手に諸々の件を謝罪し、助手席で行き先を指示する。翌日には伝令として、ここに戻ってきて、襲われるとは思わずに――。


 *******


 まだ水に飢えていた。駅前近くのコンビニに立ち寄り、でたところでミネラルウォーターを飲み干す。交番が目にはいる。駆けこんだところで相手にしてもらえない。それくらいは分かっている。
 家に帰らないとならない。ドーン達がいる俺の部屋でなく、父母がいる実家へと。こんな世界から一歩でも遠ざかりたい。

ゾワッ

 なのに気配を感じてしまう。あっちの世界に関わってはいけないのに、どうしても四方に気をくばるからだ。だから余計なことに気づいてしまう。
 桜の木にしがみつくだけで鳴かない蝉、怯えたように固まるドバト達。そして人混みにあふれた駅前にあって、わずかな陰に体を押しこむ人間。その男も俺に気づき、湿った地面から立ちあがる。
 身長2メートル? 骨太そうな体に土色の作務衣をまとい、刈りこんだ頭。ごつごつした顔に目は落ちこみ、片方の腕はなかった。
 男は俺だけを見ている。俺も立ちどまってしまう。その男を見つめかえしてしまう。

「むぁ…、まふもふぉ、てふふぉ? てふと?」

 人の言葉を発するのを慣れぬように、俺の名前を口にだす。早く逃げだしたいのに、俺を後押ししてくれるものはない。立ちすくむだけだ。男が確信する。

ふぁは、はははははは……

 地の底から響くような笑い声に、周囲の人達も立ちどまる。男は気にとめる素振りもなく、残忍な笑みを浮かべたまま、

ウォーン、ウォーン、ウォーン……

 野犬の吠え声みたいに空へと響かせる。

 ……逃げろ。

 ようやく俺の本能が訴える。先ほどの連中など比較にならない。肉食動物と草食動物だ。
 俺は駅へと走りだす。定期入れを改札に左手でタッチする。振り向くと、あの長身の男がいやでも目立つ。俺だけを見て笑っているが、ふいに振りかえる。俺の存在などなかったかのように、通りへと去っていく。俺の疑心暗鬼からの妄想だったみたいに。

 *

 ホームに立ち、ひたすら電車を待つ。……あの男は人間ではない。あっちの世界に浸かりかけている俺でなくたって分かる。スーリンがあげた異国の名前を思いかえす。
 ボスとナンバー2以外は人の目に見えない大カラスらしい。それに親玉は爺さんで、(お互いに)天敵だったナンバー2は美麗な女性だと言っていた(見えないカラスかもしれないらしい)。ならば、あいつはなにものだ? 俺の名前を知っているあいつは。
 階段からばたばたと気配が来てびくりとする。私服の中学生達が駆けこんできただけなので安堵する。郊外への普通電車が到着する。停車するなり俺は乗りこむ。もう一度ホームを振りかえる。

 灰色の影が見えた。そいつはあらぬ限りのスピードで駆けてくる。閉まりかけた電車に飛びこみ、入口近くの俺へと飛びかかる。衝撃と動きだした電車の振動に俺は倒れる。転んだまま腹の上を見る。うす汚れた白く長い毛に覆われたでかい猫がいた。こいつも俺の目だけを必死に見ている。
 こんな世界に関わるんじゃなかった。




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