三十六 三叉路の俺

文字数 4,116文字

「時間はない。起きてくれ」

 遠慮がちの一喝で、俺は悪夢から覚める。見おろす師傅の顔がぼんやりと見える。
 俺はあおむけにぶっ倒れていた。……ここはどこだ?

「護符を手放すとは愚の骨頂だ。四神のものどものために、おのれが犠牲となるつもりか?」

 師傅が木札を俺の胸もとに投げおとす。
 俺はアスファルトに手をついて腰をあげる。……あれだけの衝撃を受けたのに、頭がぼんやりするだけだ。いや、体がやけに重たい。周囲を見まわす。ブルーシートが点滅信号でかすかに赤く光っている。
 俺は交差点の真ん中に転がっていた。また母校の前へと戻ってきた。ここまで飛ばされたのか。

「護符を捨てた哲人君と対等になるために、私も拳に護布をかけた。……かの力が具現する前に、君を消すことができた。ゆえに剣は、また我が手に戻ってくるだろう」

 消しただと? もしかして俺は殺されたのか?
 あわてて立ちあがる。ジーンズについた砂をはたく。Tシャツに乗っていた木札が落ちたので、しゃがんで拾う。……木札を拾う自分の手が見える。あらためて全身を見る。
 俺はもとの人間に戻っている。

「元気そうだな。それならあいつらともまだ戦えるだろう」

 師傅は人である俺より背高いと知る。いや、人の魂である俺よりも。

「お、俺は霊になったのですか?」
 ここで死ぬなんてあきらめきれない。

「死んでなどいない。異形のままだ。布をまとった我が拳は、結果としてか弱き妖怪の光だけを撃破した。いずれは戻るとしても、今はほぼ消滅した」
 師傅が俺に背を向ける。街路樹へと歩み寄りながら「人に戻った姿がおのれに見えても、哲人君はまだ異形のままだ。人の目には見えぬ存在だ」

 車が夜道をとばしてきた。おもいきり照らされて、目を手でかざす。運転手は俺に気づかず、曲がるために速度をすこしゆるめるだけだ。車はそのまま突っこんできて、俺はひらりと横に流される。
 手のひらを開く。こんなに小さかったんだ……。手にしていた護符を前ポケットに突っこむ。宙に浮かぼうとするが、体が重いからか微動だにしない。
 俺は半分人に戻ったと言えるのだろうか? 喜ぶべきなのだろうか? 喜べるはずがない。

「そこの者達は峻計の術により寝たままだ。今宵は起こさぬほうがよいだろう。……図書館の魔物は逃げた。剣の復活を知ったのならば無理からぬな」

 師傅は街路樹の葉を吟味しながら言う。あいつらはコウモリとフクロウの魔物だ。深夜になり力がすこしは戻ったのか。最大の原因は思玲と俺にある。

「使い魔と悶着があったときに、封印していた短剣がなくなりました。でも本をしまい箱も閉じました。それにいばらで縛られて、朝になると消えるとも言っていました」

「幾重に封じられていたのだ? 抹殺されずに辺境へと遠ざけられ……。いかなる境遇の魔物だったのかな。だが檻からでた戒めを受けるならば、この世界には千年たとうが戻って来られまい」

 師傅の背中が答える。東洋随一の祓い師が征伐に来たら、逃げるしか道はないのかも。とはいえ、追いつめられて無鉄砲になる思慮なき魔物とは思えない。むしろ使い魔達は生きのびるために……。
「楊偉天に助けを求めるもあり得ますよね?」

 師傅が振り返る。俺へと歩む。

「人の姿に戻りし異形よ。その深き読みも、そなたの力のひとつであるな。奴らが受けた楔は、老師ほどの者ならばたやすく消せるかもしれぬ。だとしても魔物どもは後回しにするしかない」

 俺も正門前へと歩く。剣が無造作に置いてある。さきほどの決着は、俺の負けでおさまったのだろうか。

 *

「私は思玲とは合流しない」
 劉師傅が草鈴を織りながら言う。
「私も彼女もまだ離れて戦うべきだ。私は彼女の心配はしない。思玲には不確かながら矛がある。だが、そのためには哲人君の力が必要だ。願わくは彼女のもとへ行ってほしい」

 イチョウの葉の草鈴を手渡される。口にあてて吹こうとして押しどめられる。

「離れていても聞こえる笛だ。感の強いものには聞きとれる危険な鈴だ。その代わり、老師か峻計ほどのものが現れたなら、その笛は怯えておのずと私を呼ぶ。なにが起こるかは分からぬ。そのときは鳴らしてほしい。……我が耳に届かぬかもしれぬ。届いたとして動けぬかもしれぬ。笛だけを頼らぬようにな」

 俺は草鈴を握ったまま、師傅の目を強く見る。

「俺達はおとりですか? 老師……、楊偉天を呼び寄せるための」
 そう考えないと、この人が俺達や思玲と行動をともにしない理由がない。

「老師は深謀をめぐらす。私の浅慮にそうも乗るはずがない。だからこそ身をさらすべきだ」
 師傅は俺の視線を受けとめながら言う。
「青龍の娘に人の心があるうちに、一刻もはやく決着をつけるためにだ。それは、君達こそ望むことであろう」

 くそっ、おっしゃるとおりだ。みんなに人の意識があるのは、あとどれくらいだ。俺達にこそ時間がない。時間はないけど、
「なぜ桜井が人であるうちに、けりをつけたいのですか? 彼女を守るためですか?」

 そんなはずはないと気づいてはいる。師傅も俺から目をはずさない。

「青龍になるべきものが小鳥と化したのは、それこそが資質ゆえだ。青い光に耐え、みずからの力で弱きものと化したのだ。強き異形となるのをこらえたのだ。
……今のままで人の心が消えれば、彼女は荒ぶる蛮龍と化す。老師でさえ御せられぬだろう。明の時代の文献が事実を述べているのならば、もはや私一人で立ち向かえる存在ではなくなる」

 俺はただ桜井の笑みを思いだす。彼女がそんな存在であるはずがない。台湾の連中は勘違いしている。そう思いこみたい。
 なのに師傅が背を向ける。

「青龍の娘を殺さないでください。そうでないと協力できません」

 俺はその背に訴えるが、師傅は話は終わったかのように緋色のサテンを肩にかける。地面の剣に手を伸ばす。

「上弦の月といえども、丑の刻を迎える。いかなる人よりも異形が勝る一刻が来る」

 劉師傅は月神の剣を天にかかげる。煌々と輝く。百鬼夜行の時間が近づき、対すべき師傅の感も再び高まる。それでも、

「桜井を殺さないでください」
 それだけを、いまだ百鬼のひとつである俺が切願する。

「累卵のごとき危うい時間が来るのだぞ」
 師傅が剣を見つめながら言う。
「哲人君も私も思玲も死に絶え、青龍は今の世にふさわしからぬ存在となるかもしれぬ」

 もはや劉師傅の心にあるのは決戦のみだ。これ以上の問いかけに意味がないと気づく。
 どうしたらいいんだ? 師傅の剣で人に戻るお膳立てができたとしても、この人が望まなければ桜井をその場に迎えられない。俺は半分人に戻ったとしても、なにもできないのに変わりはなかった。
 ふいに師傅が、かかげていた剣をおろす。

「真横で落ちこまれては剣に気が満ちぬ」
 あきらめたように笑みをこぼす。
「私は異形からの取引に応じぬ。人であったものだとしてもな。ゆえに我が剣に聞いてもらう」

 師傅が刃さきを下にして剣を俺へと差しだす。剣は重厚な鋼色に染まっている。
 ……この柄を受けとれと言うのか? 俺はまだ妖怪だからか、すぐそばで見るこの剣は恐怖さえ与えてくる。

「剣を持てば、桜井を見逃してくれるのですか?」

「そなたの力がいかなるものか。剣に教えてもらう」
 師傅はただ俺の目を見つめる。
「追いつめられて牙を向ける鼠には、月神の剣はともにしない。荒れ狂う巨象に向かう獅子だけを求める」

 俺の心の強さをはかるというのか? それと桜井になんの関係があるのだろう。彼女を守る力を見せろと言うのか?
 それならば、俺は剣へと手を伸ばす――。

「無理です……」

 いくらなんでも、こんなものに触れられない。せっかく人の姿にまで戻れたのに、握るなり消し去られそうだ。師傅は俺に無理強いをして、彼女をあきらめさせるつもりか。

「この期に及んで臆するな」
 そう言いながら、師傅は剣を持つ手を自身へと戻す。
「君は秘めた力など必要なく、聖なる龍をも従えるかもしれぬのだぞ。あのときの迦楼羅のように」

 暴発した俺の怒りを受けたからって、師傅は俺を買いかぶりすぎだ。俺はただお天狗さんのおかげで、ライオンの真似事を器用にできたネズミだ。剣を間近で見て、それがよく分かった。
 なのに師傅はまだ俺を見つめている。

「剣は待ちかまえていたぞ。護符を投げ捨てる勇気を見たのだからな。だがもういい」
 師傅がまた剣をかかげる。
「この男に代わって聞く。剣が輝くならば、私は四神のものどもを護ることはあれ、討つことはない!」

 破邪の剣から強く光があふれだす。人の目に見えぬはずの光が、交差点を白昼のように照らす。

「……これほどとはな。今より我が剣は、楊偉天どもを誅するためだけにある」
 師傅が剣をおろす。
「哲人君。思玲を盾とせよ」

 劉師傅は、俺に一瞥も向けぬまま剣を片手に駆けだす。
 ひととき照らされた町なみは、また闇の中に戻っていく。暗闇に俺一人が存在する。幻である俺が、幻のような世界に立ちつくす。劉師傅は、青龍になるべくものをも救うと言ってくれた。
 剣はたしかに俺を待っていた。

 *

 アブラコウモリが上空を舞っている。超音波みたいなキーキー声がうっとうしい。
 俺は手にした草鈴もポケットへ突っこむ。なにかが入っているのに気づく。カラスに噛まれたぐしゃぐしゃの草鈴と、折りたたんだ一万円札――。思玲に渡された浄財だ。軽トラックの荷台で舌を垂らした狼を思いだして、なぜだか俺は笑みを浮かべる。
 仲間のもとに行かないと。浮かぶことができなくなった俺は、公園へと歩きはじめる。一刻もはやくみんなと合流したいのに、俺はまだ走りだせない。生まれかわったおのれの体を、ゆっくりと闇になじませるだけだ。百鬼のうごめきに連なるためだけに。
 やがて履きなれたスニーカーが地面を蹴る。もはや人の作ったアスファルトも苦にならない。俺は車道を音もなく駆けていく。都心の片隅にまがまがしい時がおとずれようと、人は誰も気づくはずがない。

 曙光が輝くまでのわずかな時間。異形としての最後の夜が今から始まる。もしくは人としての最後の夜が。




次章「4ーtune」
次回「テニスコートの六人」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み