二十一の二 雷雨さえも平伏する

文字数 2,794文字

 俺はフサフサを見る。雨に叩かれて動かないけど、まだ存在している。
 俺は林をさぐる。鏡を持つ老人がどこにいるかなど分からない。雷雨と羽音だけだ。
 巨大な羽音と、無数の羽音が集まったうねりが背後を追ってくる。俺はジェットコースターみたく空中を一回転して、異形の蜂どもをまく。フサフサのもとへ降りる。彼女は意識がなかった。

 昼間買ったばかりなのに、ぼろぼろの服。フサフサは酸の雨を全身に浴びていた。胸もとの傷口へと天珠を差しこむ。

「松本が持つべきだ。それがあるから、オニスズメバチの群れはお前を襲えない。エンマスズメバチには効かないけどね」

 闇はすぐそこでうごめいていた。だったら、なおさらフサフサに持たせる。闇である露泥無がまた喋りだす。

「海神の玉とは違う。苦しむ時間を長引かせるだけだ。それよりドロシーの荷物になにかある。松本は手を入れられただろ……!」

 闇が怯えた。老人が岩の上から見おろしていた。

「龍は白笛川に張った結界を抜けた」
 楊偉天が杖を高くかかげる。
「時間切れだ。だがお前を龍には会わせない。破片とともに消えろ」

 俺達の真上で、巨大な蜂が顎を裂けるほどに開ける。楊偉天が杖をおろす。そして驚愕の顔で消えていく。
 知性もない蜂達がうろたえる。

「さきほどの礼だ」

 風雨を浴びてもなおも気位。林から蒼い毛並みの美しき獣が現れる。小柄な老人の肩をくわえていた。楊偉天の苦悶の顔の下で大きな鏡が揺れる。

「二日も待たない。明日の夜だ。さもなければ私はシノ様から殺す」
 狼が俺へと言う。「この干からびた人間の始末は自分でしろ」

 雅が楊偉天を落とし林へと去っていく。樹木がさわさわと揺れる――。
 放すなよ! 絶対的チャンスだっただろ!

「なぜに蒼き狼が里の山にいる?」
 肩を押さえた老人がよろよろと立ちあがる。「なぜに貴様の味方をした!」

 老人は肩をさすり、蜃気楼となる。蜂達が我に返ったように俺を見る。フサフサをも餌として見る。俺は襟に手を入れる。お天宮さんの護符を握る。

「そのお札は哲人のものでないだろ」
 フサフサは薄目を開けていた。
「私が持つべきだったよ。哲人を守るためにね」

 野良猫であった女性がまた目を閉じる。雨が叩きつける。

「松本、時間がないのは分かっているのだろ」
 闇がまた騒ぎだす。
「大姐を呼ぶべきだ。あの方は悪人だけど極悪人ではない。リクトは絶対に人に戻れない。だったらケビンに託すよりも、大姐の式神となるのが――」

 うるさい。どうせ時間切れだ。

グオオオオ……

 空が大きく揺れた。とてつもない落雷に、エンマスズメバチが一撃で切り裂かれる。天と地がうなりをあげる。咆哮を浴びて、オニスズメバチ達が地面に落ちて溶けていく。

バキバキバキ

 山が崩れると思わせるほどの稲妻。巨大な龍が天上から沢を覗く。

 ふたつに裂けた巨大な蜂が痙攣しながら溶けていく。

「な……。大姐の言うとおりだ……」
 闇である露泥無がおののく。
「龍になど関わったら、命がいくつあろうが足りるはずない」

 龍は谷間に沿って全身を現す。銀鱗は暗く、蛇のごとき体に巨木ほどの四肢が生える。
 青くはない龍が沢を覆う。嵐さえも龍にかしずく。

「五本爪」闇がまたつぶやく。「でも僕は関わる。大姐の名誉のために」

 龍は谷に浮かぶ空そのものだ。その体以外に存在しない。ふいに龍が高く浮かび、向きを変える。また降りて渓谷を包む。その巨体に雨がとだえる。上空の雷は絶え間ない。

「夏奈……」
 こんなのが桜井であるはずない。でも、
「夏奈!」

 俺は浮かびあがる。胴体に沿って顔を目ざす。……でかすぎる。俺なんかハエ以下の存在だ。こんなのが夏奈であるはずないけど夏奈だ。龍はいきなり上空にでる。風圧に飛ばされそうになり、畳ほどもある鱗にしがみつく。
 龍は上空でゆったりと円を描く。なにかを探している。おそらく俺の持つ青龍の破片。もしくは餌としての楊偉天。

「夏奈!」龍の耳もとで叫ぶ。「フサフサを助けてくれ!」

 俺の声が届いているかなど分からない。龍がまた下へと降りる。

「桜井夏奈!」
 ひげに乗り、龍の目へと訴える。「フサフサを助けろ!」

 この化け物を人に戻すなど後回しだ。いますべきことは、ひとつしかない。……感情のない巨大な目は、ちっぽけな座敷わらしなど見向きもしない。なにかを探しているだけ。
 龍が顎を軽く振り、俺は地面に叩き落ちる。

「座敷わらしめ……」
 鏡を持たぬ楊偉天が面前に現れる。
「貴様はどこまで頼る。呼びつける」

 ……そんなシンプルなことだったのか。孤独な老人が恐れたのは、仲間に救いを求める、か弱き妖怪の力だった。

「楊大翁」
 地味めな女の子が闇から現れる。
「私めは上海不夜会のさもなき式神でございます。ところでチベット黒貉の噂はお聞きでしょうか。あの高原にひそみ知識だけをあさる、みすぼらしい異形を。そのひとつが、あるお方に付き従ったことを」

 龍が俺達を一瞥した。俺達を吟味しだす。……俺を見ろ。俺に気づけ。

「……あの娘が日本にいるというのか? あの翼竜を、あの海獣も連れていると言いたいのか?」

「殲だけです。あいにく(タン)は来ておりません。
ちなみに、こいつらは西洋の妖魔どもを誘いこむ餌でございます。貉は、その餌を雑魚から守る使命を授かっております。……あなた様は神殺の鏡をそれ以上使うべきではないと思います。さもないと、封じてある蛮龍――」

「だらだら話すな!」
 露泥無が抱えていたリュックが浮かぶ。
「儂があの娘……、奴もすでに婆さんだろ! 儂が沈栄桂(シンロングイ)を恐れると思うのか? 儂が貪を御せられぬと言うのか……ひい」

 叫ぶ老人を龍がくわえる。すぐに吐きだす。噛み砕かれた楊偉天が消えていく。
 龍が俺達を見る。露泥無は闇に化す。フサフサが面倒くさげに目を開ける。俺は浮かぶ。

「夏奈!」

 俺は懐をひろげて龍の頬に張りつく。俺のなかに包みこめるはずなく、人として心もつながらない。龍が空を見る。

ヒヒヒ

 雨に薄い白髪が貼りついた、鏡を持たぬ老人を雷光が照らす。

「夏奈よ。想像以上にやさしい龍だな」
 神殺の楊偉天がドロシーのリュックを手にする。
「お前が探しているのは、儂でも青い破片でもないのか。この中にある箱か?」


君にリュックを貸しておく。君が戦わないのなら、私も銃を持たない。


 ……お前が触るな。その中身は、そのリュックサックも、かけがえのないものだ。

「穢すな!」

 老人へと突進する。蜃気楼となりかけた顔をぶん殴る。

ヒッ

 楊偉天が首を150度にねじりながら消えていく。消えかかるリュックを奪還する。――龍の巨大な目が俺を見た。ショウジョウバエぐらいとしても、ようやく俺の存在を認める。豪雨に叩かれながら、その鼻さきに浮かぶ。

「桜井夏奈」俺は龍に命じる。「俺と心を交わせ」

 ゴミみたいに龍の鼻頭に張りつく。かすかに心が通じる。




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