暗冥潭

文字数 5,692文字

 林のなかで結界に籠る。ここから湖は見えない。濡れた体が凍えるけど、鍛錬しているから心と精神はまったく平気だっくしょん!

「くしゃみが外に漏れるか試してみた。……十六時二十分。山だし天候のせいもあって暗くなるのが早いな」

 思玲はバッグに目覚まし時計をしまう。ドロシーが力説していた日本アニメのロボットみたいに何でも収納できるのだから、腕時計など邪魔なだけだ。……しかし林がサワサワ色気づいていやがる。観光地なのに、奴らが居やがる。

「狭いし暗いし苦手です」
 ミーレはうるさい。「……祭凱志さん達は悪人ですか?」

「違うに決まってら。悪人は王思玲。はやく主のもとに戻れと命じろよ。裏切り者と勘違いされて俺まで峻計さんに殺される」
 高屏は更にうるさい。こいつは放置だ。

「あの三人の顔を見れば分かるだろ。極悪人だ」
「中国は善悪を顔で判断するのですか?」
「ここは台湾だ」
「でも漢人ですよね?」
「静かにしろ」

 空から気配が近づいた。……奴だったらまずいな。だが近寄らない限り見つかるはずない。

「高い山は青く~、谷の水も碧く~」

 なんて奴だ。高屏が歌いだしやがった。この声は三段重ねの我が結界を貫くぞ。

「竹林。高屏のへたくそな歌がしなかったか?」
「阿里山の娘は水のよう~、阿里山の少年は山のようグエ」
「本当だ。おーい、どこにいる?」

 気絶させるのが遅かった。しかも最悪の大鴉がいる。竹林は結界を見抜く。
 思玲は姿隠しのなかで立ち上がる。

「我、悪しきに騙されしものどもを護るため舞を奉ずる」
 扇をひろげる。「邪なる力を妨げたまえ」

「素敵……」
 ミーレが私をうっとりと見ている。

「跳ね返しの結界だ。持久戦になるぞ」
 思玲は額の汗をぬぐう。はやく師傅が来てくれないだろうか。

「ここだよ、ここ。間違いないって」
「よっしゃ、喰らえ――痛え!」

 燃える爪が姿隠しの結界を破り、跳ね返しの結界に跳ね返されるのが見えた。こいつが焔曉か。初対面だ。

「あっミーレちゃんだ。いま助けてあげるね」
「高屏のボケが寝ていやがるぜ」
「私は流範と峻計を呼んでくる。逃がさないようにね」
「それまでに糞結界を破ってやる」

 馬鹿め。たやすく弾き飛ばされる雑魚ならば、ひびを入れるのに一晩かかる。その前にこちらから打ってでるべきだな。どうせこいつら鴉は、劣勢になると飛んで逃げる。そしたらミーレを連れて林を抜けて、別の場所で結界を張りなおす……焔曉の脚がやけに燃えだしたぞ。

「強火だ!」
 吠え声とともに炎を前にして突っ込んでくる。

ピキ……ピキピキピキッ

 我が結界がたやすく破られたじゃないか!
 でも林の中。飛べようが優位に立てない。やはり焔曉は空へと戻る。
 林はどんどん暗くなっていく。とにかく飛び道具を持っているかに注意しろ。動きを読み術をぶつければ……。

「カカカ」

 真っ正面から突っこんでくるじゃないか。なめやがって。

「喰ら――」
「焔曉あぶない!」

 扇と小刀を交差させる間際に、ミーレにタックルされた。

「飛びだすな! 巻き添えになるぞ」
 焔曉の怒声が近づく。

「馬鹿娘め」
 思玲はミーレを抱き倒す。その背に激痛が走る。
「くっ」

「中火に落としちまったぜ。ミーレに感謝しろ」

 大鴉の声が遠のく……。背中を焼け火箸で長く裂かれた。火傷と裂傷の組み合わせなんて滅多に経験できない。

「ミーレなど知らぬ」

 私を信じなかった娘など知ったものか。思玲は立ち上がり日月潭を目指す。背中を冷やさないといけないし止血も必要だ。林の中、距離は40メートル程度。

サワサワサワサワ

 私の血を愛でるな。

「カカカッ」

 異界の炎が空から追いかけてくる。四、三、二……振り向くなり、

「喰らえ!」
「クワッ」

 焔曉を螺旋の炎が飲みこむ。思玲は崖のごとき傾斜を走る。そのまま湖に落ちる。
 ふらつこうが立ち泳ぎする。背中の痛みが弱まるけど、あらたな痛みが湧いてくる。

「くそ鴉め。人だったとしても、ゆるさ……」
 異形になって殺された俊宏。これ以上犠牲者は増やさない。
「……くそ」

 血の匂いに異形の気配が寄ってくる。……ヤバい。ヤバすぎる。例の化け物だ。師傅から受けた傷を、私を食べて回復させる算段だ。

「寒くないの? ふふ、さすがは魔道士ね」
「思玲。焔曉にぶつけたな。あいつは離脱させた」

 しかも声がした。暗闇の空。高台のホテルに明かりが灯されて、眼鏡を落としたから朧に見えてなおさら綺麗。それを背景に、流範の背中に乗った峻計が私を見下ろしていた。その隣には張麗豪が両手に青い鞭をだして浮かんでいる。

「ひひひ……」
 ついでに卑しい笑い声が真っ暗な湖面から聞こえた。
「思玲よ。命はとらないから降参しなさい。これより儀式を始める」

「昇はどこだ?」
 祭凱志の声もした。

「やい思玲。よくも術をぶつけたな」
「降伏してくださいよ。寒いから早くホテルにチェックインしたい」

 高屏とミーレの声もした。こいつらは老師の結界に包まれている。林が私を物欲しげに眺めている。体は冷えきって背中の出血は止まってないだろう。湖の底から狂った気配が上ってくる……。ふふっ、ひひひっ、
 笑わずにいられるか。誰もが餌に食いついた。

「祭凱志に教えてやる。我が唯一の兄弟子である昇様ならば、ここだ!」

 特大の水しぶきが上がる。顔をだした陰辜諸が断末魔の悲鳴をあげる。頭上には狂神のごとき劉師傅がいた。怪物の頭に片手を脇まで突っ込んでいた。

「こ、こいつは人でない」
 峻計がびびってやがる。

 師傅が顔をあげる。腕を抜く。その手には黒い血に染まる月神の剣があった。

「貴様らより人だ」剣を横に払う。「巨光環!」

 鈍色の巨大な光が円状となり、湖上を蹂躙する。

「クワッ」
「ひい」
「きゃあ痛い」

 竹林もいたのか。巨大な羅針盤みたいな光弾が結界も何もかも弾き飛ばし、旋回し、陰辜諸の首へと刺さり、その顔を胴体から離す。

グワアアア……

 陰辜諸の首が日月潭に浮かび溶けていく……。

「なんてことを……」
 姿をさらされた楊偉天がうめく。
「人を異形に変える神髄。息子に代わり、私が突き止めねばならなかった。それなのに……」

 湖上は静まっている。林のざわめきも鎮まっている。老人の配下の人と異形は怯えている。師傅は私のもとへ泳ぐ。

「傷を負わせたな。すまぬ」
 水面で凍えた私を抱いてくれる。

 楊偉天の胸に神殺の鏡が現れる。

「鏡よ。陰辜諸を復活させろ。凱志よ、麗豪よ、大鴉どもよ。昇と思玲を殺せ」

「高屏、主を間違えたおのれを恨め」

 師傅が剣を投げる。大洋獺の眉間に刺さる。船であった異形が消えて、祭凱志とミーレが湖上に落ちる。
 楊偉天は浮かんでいる。鏡からのオーロラみたいな光が、日月潭のほんの一角を照らしている。
 師傅の手に月神の剣は戻る。

「流範も消えろ」
「ふざけるな」

 峻計を乗せた流範は、投じられた剣をたやすく避ける。
 剣は師傅の手に現れる。張麗豪の術の鞭を切断する。

「陸にいくぞ」

 師傅が言う。同時に私の体が浮遊する。……このお方は自然の摂理に反している。水中でどれだけ異形と戦っていたのか知らないが、水上から私を抱えて跳躍するってあり得ないだろ。
 なんであろうと二人は緋色のサテンに守られながら、林に軟着陸する。

「これを貸す。あの子が逞しくなったら渡したい品だから、大事に使ってくれ」
 肩に戻っていた護布を渡される。
「私は陰辜諸がよみがえるのを阻止する。思玲は祭凱志を追え。南国の娘を奪還しろ」

 師傅が私に背を向ける。私は聞かなければならない。

「ドロシーへ贈るために、これを編んだのですか?」

 師傅は振り返らない。

「人々を守るためにだ。それを託せる人に持ってもらうためだ」
 暗黒の日月潭へ跳躍する。

 水しぶきとともに化け物以上の化け物が湖へ消える。

 私はカバンから予備の眼鏡をだす。体が震える。背中が痛い。護布を体に巻くと勝手にフィットする。出血が止まるのを感じる。
 だけど護布をはずし、湖へと落とす。

「本心がぽろりとでたな。私では人を守れない。でもあの子にだって守れない」
 思玲は歯を食いしばる。眼鏡をかける。
「人を守れるのはあなただけだ」

 緋色のサテンは、いまの主を追うように水面を流れていく。……月の神と海の神。ふたつが重なれば邪悪は滅びるだけと、邪に落ちるまえの老師から聞いた。なのに私は珊瑚を輝かせられない。

 まだ六時ぐらいだろ。畔はやけに静かだ。季節外れのバカンス連中は、異なる世界が隣で争いあうことに、気づけることなくても怯えている。
 思玲は冥界のごとき山林を駆けだす。また木霊がそぞろになりだす。

 ***

「ミーレ急いでくれ」
 前方から忌むべき声が聞こえた。

「もう無理です。なんで車道を歩かないのですか? なんでホテルや店に助けを求めないのですか?」
「私達は関わってはいけないのだ。もう少しで遊歩道にでる。そしたら駐車場まで一時間ぐらいしかない」
「一時間……。楊さんが言っていた、人をお化けに変えるって何ですか」

「おいおい。老師と呼びなさいと真っ先に教わらなかったか?」
 先回りした思玲が二人の前に立つ。「祭師兄、その子を渡してください。私が祖国に連れていきます」

 雨は降りださないだけの陸も湖も区別つかない闇。その中で思玲は扇と小刀を手にする。

「……村には帰らない。また石を投げられる。姉や弟まで投げられる」
 ミーレがうつむく。

 漆黒の闇こそ目が利く少女。忌むべき声で当然のようにやり取りできる少女。居場所があるはず……。

「だったら私達と過ごそう。親父に囲まれるより私と寝起きするのがマシだろ?」

 思玲の言葉にミーレが顔をあげる。祭凱志は首を横に振る。

「師兄。認めてください。それであなたの罪が消えることはなくても」

 祭凱志はまた首を小さく振る。

「……もし、あの事件がなかったら、思玲も老師を敬うままだっただろう」
 祭凱志が人の声で言う。
「私は忌むべき声が嫌いだ。呪われたおのれそのものだから」
 その両手に蕃刀が現れる。
「老師の(めい)だ。……王思玲。お前を抹殺する」

 思玲は思いだす。この人に教わった多くを。この人の武骨なやさしさを。
 思玲は思いだしたくない。異形にされたうえに、この人に殺された弟を。

「あなたの力は衰えている。私はあの頃より強くなっている」

 思玲は思いだしてしまう。この人と笑いながら食べた夕餉を。この人に泣きながらこぼした愚痴を。この人は叱咤するだけだったけど、その眼差しは……はるか昔の父親のようだった。
 私が呼び寄せた人の目に見える異形のため、発狂してしまった父親。

「手合わせお願いします」
 思玲は一礼する。思玲は泣かない。

「玲玲、すまなかった」
 祭凱志は一礼しない。その目を照らすものはない。
「おらっ」

 左手の蕃刀が思玲へと投げられる。心あるよう自在に飛びまわり、敵を切り裂き続ける刀。
 跳ね返しの結界――正式名称は何だったっけ? その使用が認められたのは、この人のこの蕃刀を無効にできたから。

――登り坂だな。私は下り坂だ。それでもさすがだ。思玲はまだまだ強くなれる

 だとしても籠らない。小刀を振るう。金色の光が蕃刀を弾く。
 蕃刀は祭凱志の手に戻る。

「避けてみろ!」
 思玲は小刀の峰を向けて、三たび振るう。

 祭凱志は転がり避ける。藪を盾にして、両方の刀を飛ばしてくる。

 本気だな……。蕃刀に切り裂かれ続け、弱まり消滅した異形を思いだす。
 背中が辛い。子宮が重い。寒さは忘れている。痛いのはもう嫌だ。

 蕃刀を引きつけて、
「喰らえ!」
 扇と小刀を交差させる。

「ひいい」
 金色と銀色の巨大な螺旋の光を見て、ミーレが悲鳴をあげた。

「……なんだそりゃ?」
 祭凱志も愕然としている。

 対の蕃刀は消滅した。林の一角も。

サワサワ、サワサワ……

 魔道士同士の戦いを眺めていた木霊が怒りだす。

「鍛錬の賜物だ」
 思玲が森の気配に気を配りながら告げる。よろめきを耐える。
「私はあなた達と違い、人を傷つけるのさえ嫌だ。降参して逃げろ」

「麗豪の背後に放ったのもそれか……。魔道具を交差させて強大な力を発する技なら知っている。その人の力を大いに奪うことも知っている」
 祭凱志は手ぶらで立っていた。
「何よりも血のにじむ鍛錬に裏付けされた才能が必要だ。素晴らしいぞ、王思玲。私の最初で最後の愛弟子」
 その手に土色の扇が現れる。

 驚蟄扇(ジンジュアシャン)……。私の白露扇と対になる扇。

「それを広げるな!」

 思玲は祭凱志の手もとへ小刀を投げる。

「危ない!」
 ミーレが素手でつかみやがった。それを手に私へと構えやがった……。
「どちらもおかしい! なんで争える!」

 その隣で、祭凱志が驚蟄扇を広げる。
「陰を陽に従えるでなく、陰を陽に移らえる」

 扇の前の闇が光に変わる。羽虫のような光の粒が集いだす。その一つ一つが銃弾に匹敵することを、思玲は知っている。

「我に護るものあり!」
 思玲は扇を振るう。

耀光舞(ヤオグァンウー)!」
 祭凱志も扇を振るう。

 虹色の光達の競演……。

 光と化した闇が結界に当たり弾けて消える。
 祭凱志がまた扇を払う。光がまた思玲を襲う。……ミーレが去っていく。正解だ。どこでもいいから逃げろ。

「な、なにこれ……」
 だけどミーレは立ちどまる。

サワサワ、サワサワ……

――その女の血は私達のもの

「……木霊か」
 祭凱志が扇を構えたまま四方の闇を見わたす。

――その女の肉も私達のもの

「ふざけるなよ」
 思玲は足もとを見る。腐葉土が集まりだしていた。

「きゃあああ」
 ミーレの全身に落ち葉が集まりだす。しゃがめば、さらに埋まれていく。

「ぐおおお!」
 祭凱志は扇で必死に落葉を払っていた。でも足もとが土に埋もれていく。

 無数の落ち葉が跳ね返しの結界を覆っていた。裂かれても裂かれても集ってくる。

「ひっ」
 這いあがった腐葉土が、人の指のように思玲の身体をまさぐりだす。
「いや、やめて」

 思玲を守っていた結界が、木の葉の重みに耐えきれぬように割れて溶ける。瞬く間に思玲は落ち葉に埋もれる。衣服の間に土が雪崩れこむ。
 ……歓喜してやがる。木霊は私を犯しながら食べる気だ。




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