日月潭

文字数 5,996文字

4.2-tune


 今日は十二月二十二日。太陽より月の時間がもっとも長い日。ばあやが手作りした湯圓(タンユエン)を食べてから出発し、いまの時間は奇しくも昼の十二時二十二……二十三分になってしまった。
 空はどんより。いまにも降りだしそうで降らない。冬至にふさわしい天気かな。

「とにかく破壊行為を慎め」
 助手席の師傅が念押ししてくる。紺色デニムと白い長袖シャツ。
日月潭(リーユエタン)はリゾート地だ。湖が見える場所で、私以外のいかなる術も禁止する。とくに臥龍窟と鳳雛窩。どちらの結界も人々が気づかず怪我する恐れがある」

 真冬で平日でこの天気。水里(ツイリー)を抜けたら道もガラガラですけど。私以外って二人しかいないですけど。

「承知しました。夜を待ちます」
 エンジンを緩めずカーブを抜ける私のファッションは、紺色デニムと赤い長袖シャツ。カバンには白露扇と小刀とハンカチ、財布、時計、生理用品ぐらい。

「夜もだ。どんな巻き添えが起きるか分からない。……浮かれてないか? カーブの曲がり方で分かる」
「ちっとも」

 エンジョイの振りをしているだけだ。一番重い日に術を使わず魔物狩り。意味することは無抵抗の餌。伝承どおりの化け物なら、私が太刀打ちできるはずないにしろ。

陰辜諸(エゴフツ)……。最近は五つ星で異形を評価するらしくて愉快だ。その水棲の異形はいくつかな?」
「過去の文献には記載されておりません」
 ちょっと皮肉が強すぎたかな。「香港のドロシーなら頭に一覧が入っているかもしれませんね」

 そもそも、あのひきこもりガールが編集していそうだし……。香港に招かれてケビンにボコられてから半年過ぎたか。さすがにドロシーは謹慎を解かれただろうな。

「梁勲の孫か。たしかに賢かった。今年で十六歳になったはずだが、変わらず人に怯えて過ごしているだろう。だが、あの子は誰より強くなるぞ。きっと人への恐怖を悪しき異形への怒りに変える。美人になりそうだし、いずれまた会いたいな」

 師傅が人を熱く語るとは、空から団子が降ってきそうだ。しかも年齢を把握して、容姿にコメントするなんて。
 どうであれ八歳も年下のガキに、私は嫉妬しない。あの子が台湾にきたときも、ええと十九歳の私は『お姉さん』だったけど、師傅はなんと二十三歳にして『おじさん』扱いだったし……。

――昇が抱っこだと? ……やめておけ。儂だからわかるが、その子は昇を……梁勲、起きたのか。酔いは醒めたか? とにかくだ、その子は幼い歳でない。降ろしなさい

――やだ。梓群は昇おじちゃんが大好きだし、おじちゃんも梓群が大好きなの。私を怖がる楊じいさんなんて大嫌い!

「……あれは教場を破壊して怪我人をだしても謝るだけでしたよ」
「裁判所の門を破壊する奴よりはまともだ」

 みずから蒸し返してしまった。話題を変えないといけない。

「楊偉天が陰辜諸の封印を解いた狙いは何でしょう?」
「私が老師の頭を読めるはずない。だが溺死者はすでに二名。報いは必要だ」

 星がいくつか分からなくても過去の文献にこいつは記されている。
 陰辜諸――人が人に殺され、その怨念から異形になり、人を水中に引きずり溺死させる。長く退治されずにいたが、日本の統治時代に陰陽士により湖へ封じられた。生前は魔の力を発する杖を持っていたらしい。
 伝承が事実ならば、陰辜諸は魔道士だった。だったら霊になろうと力を持つかもしれない。さまよう魄になったのかもしれない。
 杖……。忌むべき杖。弟を奪った杖。

「楊偉天はあらたな杖を手に入れようとしているのでは?」
「我が師はそこまで愚かでない」

 そろそろ呼び捨てにしろよ。過去を引きずって弱い男だ。
 道が下り坂になる。ビンロウの木が目立ち始める。

「到着します」
「まずは一周してくれ。気配を探ろう」
「まずはトイレに寄らせてください」

 ***

 やはり観光地だ。湖畔をもたもた走る大型バスが邪魔だ。どこから湧いてきたのか大陸からの観光客が多い。中国人は暇人だらけか。でもスクーターで山道を頑張るタイワニーズもいたりする。人の気配が絶えることはない。
 道は日月潭から離れる。
 
「この辺りは比較的静かだな。ここを拠点にする」
「はい」

 また林を抜ける。右側に現れる湖の景色が美しい。この季節でこの天気に映えるのだから、初夏なんてきれいかもな。過去に家族と来ているが、そのときのことは思いださない。小さかった弟のことを思いだしたくない。
 空にケーブルカーが見えた。

「じきに売店通りです」
「寄らなくていい」

「光華島を眺めますか?」
「不要だ」

「一周を終えました。駐車場に停めますか」
「今度は逆にまわる。私が運転するので思玲が探れ」

 十三時を過ぎた。思玲は助手席から、流れる晩冬の林を見る。湖を見る。人を見る。車窓から異形の気配を追いきれるはずない。それでも湖畔を見る。歩く人を見る――目が合った。

「師傅。あいつがいました」
「感づかれたか?」
「お互い同時に」

 師傅が車の速度を緩める。即座に後方からクラクション。

「蛙(九蛙畳像)への入口だったな。峻計の相手をするには人が多すぎる」
 再び速度があがる。
「やはり陰辜諸を抑えていない? ゆえに手下に狩らせる? もしくは……」

 師傅がぶつぶつ言いだした。どっちにしろドライブの時間は終わりだ。思玲は観光地図を広げる。

「どこかで降りましょう。今後はカーナビをつけましょう」
「そうだな」
「スマートフォンを持てばお互いに連絡が」
「魔道士の術は気と心の具現だ。携帯電話はその妨げになる」
「しかし使用を制限すれば」
「優秀な飛び蛇なら電波を凌駕する。捕らえて式神にしろ。許可する」
「……はい。もうじき松柏崙步道って遊歩道入口があります。そこに駐車場があります」
「さきほども一台停まるだけだったな。そこから湖畔に向かうか」

 *

 車は二台に増えていたが、どちらも人が乗ったままだ。休憩か何かだろう。師傅に続いて車道を渡り、枯れ葉が貼りつくコンクリートの小道を下る。……猿が鳴いたぞ。観光地とは思えぬ野趣ある道だ。木道もカエデの葉で埋もれているし、常人だったら転びまくるかも。
 林の隙間から覗く冬の日月潭に寂寥感が漂う。人とはすれ違わないまま、師傅が立ち止まる。

「展望台まで行く必要はない。林に入ろう」

 シダをつかみ、竹の林に入る……。峻計は楊偉天の指図でここにいるのだろうが、大鴉は他に竹林、流範、焔暁がいる。兄弟子だった者もいる。全員集合していても、師傅一人にかないそうもないけど。

 傾斜のきつい林から日月潭を覗く。高台には高級ホテル群。湖には遊覧船が数隻。水量が減っているようで、湖畔の林の下に土部分が1メートル近く現れていた。私の目だから分かるが、遠くに背負い蛙の石像が縦に六匹見えた。その先の岬状の眺望地への道に、峻計がいたわけだが。
 湖上を渡る風が凍えてきた。

「十四時を過ぎたか」
 師傅が腕時計を見る。「暗くなるのが十七時……。峻計は追わない。当初の予定通り陰辜諸を成敗する。なので私は思玲と離れる」

「了解です」
 思玲は素気なく答える。事前にレクチャーされなくても分かりきっている。今日の私は異形を誘う最高の餌だ。だけども……
「気配をまったく感じません。すでにここにいないかもしれません」

 師傅が私を見つめ、湖面を見つめる。ついで林を見つめる。黙ったままだ。

「楊偉天は何のために陰辜諸を復活させたのですか?」
「何度聞かれても答えは同じだ。私には計り知れない」
「ならば、あなたの考えを教えてください」

 人は現れない。雲は重い。今日は満月二日後。陰辜諸はおそらく新月系。どうであれ凶暴だろう。そして長い長い夜まで、あと三時間。
 劉師傅が林を見ながら語りだす。

「我が師は人と鴉を組み合わせた。それより前に、師の息子は人と異形を組み合わせようとした。失敗に終わったが、老師の探究の礎になった」
「化け物になったのは王俊宏。私の弟です」
「私も覚えている。つまり、あなたの弟は異形でない。人として殺された」

 ゆえに誰の記憶にも残った。ずっと会っていない両親の心にも。

「老師は、おのれの智より息子の楊聡民のが秀でている。そう考えたかもしれない」
 師傅が話を続ける。
「それを認めたくないために、あの日のおぞましき行為に加担した」

「そして今日それを繰り返す。あの浅ましい老人ならばあり得ますよね?」
 思玲が顔を向けない師傅へ告げる。
「その杖を奪うついでに、陰辜諸と人を合成させる。人でなき屑が考えそうなことだ」

「言いすぎだ」師傅ににらまれる。「老師に本来の邪念なき御心を戻す。私達が手助けをする」

「え、ええ、そのとおりでございますです」
 引きつった顔でうなずく。やはり師傅は怖い。「あのジジイが観音様だったなど見かけたことありません」などと言えるはずない。

「私がいなければ、知恵なく浅ましい低級の異形がここに現れる。だが、思玲を狩る自信がある強い異形も来る」
「でも昇様はすぐに私を助けにきてくれる」

 あえて幼いころの呼び方をする。顔に薄笑いを浮かべて。

「泣き虫玲玲をな」

 師傅が枝をつかむことなく崖を登りかえす。思玲は観光地の道からはずれた畔で一人になる。枝の太い木へよじのぼり、バッグから白露扇をだす。投げやりに舞って姿を隠す。

「なんでも従っていられるか」

 ここなら鳥が衝突する程度だ。それに完璧に隠したわけではないから、私の気配は漂っているだろう。人間でも勘がよい者なら落ち着かなくなる程度に。
 枝は張りだしているから真下は水面。眺めは良好。でも一人。……式神が欲しいな。一人にならずに済む。伝令や偵察は飛び蛇でなく南極大燕にしよう。賑やかで賢くて任務に忠実……楊偉天一味にも数羽いた。ひと際優秀なのは仕事が雑でほされていたな。
 乗り物役式神は飛竜。もちろん日本産だ。探しに北海道へ行こう。戦闘を補佐させるのは犬系に限るな。チベットピットブルなんて従えたら格好いいな。
 あと五年、師傅と過ごしたら独立しよう。師傅や魔道団や楊偉天の商売敵になろう……。人が降りてくる気配。ヤバい、師傅が戻ってきた――と思ったら年配の男の声がした。

「昇はなおも式神を従えないようだ。なおも老師の教えを守っている」

 あらゆる感情が噴きだす。この野太い声は祭凱志……。樹上の思玲は忙しく扇を振るい結界を重ねる。バッグから小刀もだす。

「私もです。祭師兄さえ式神を一体しか許されない。老師からオニハイエナをお貸しいただければ、捜索も多少は楽なのに」
 この静かな口調は張麗豪。
「陽動で車を駐車場に乗り捨てて、別の地に向かったのでは?」

 二人が師傅といた場所に姿を現す。並んで湖畔を見る。

「人がいた痕跡はある。ついさきほどまでだ」
 祭凱志が言う。独身のまま五十代になっただろうけど、あいかわらずごつい体で紺色のジャージ姿。ハゲを隠すための坊主頭。無精ひげも変わらずだろう。
「いるとしたら樹上だな」

 祭凱志が林の上を見わたす。私のいる枝で目は止まらない。

「弟弟子よ、いるなら聞け。私達を倒したら、老師がお怒りになる」
 張麗豪が声を張り上げることなく告げる。
「ただの人がさらに犠牲になる。それを見たくなければ立ち去れ。車は無傷のままだ」

 こいつは空を飛ぶ変態だ。見つかったら逃げられない……さらなる犠牲?
 溺死した二人も楊偉天の仕業とでも。
 がさがさと仰々しい音を立てながら、また人が現れた。……長い黒髪の小柄の女性。ピンクのジャージ姿だけど、こいつは誰だ?

「ふう、やはり祭師兄も張師兄も速いですね。私はまだまだ鍛錬が足りません」

 心の声のやり取りで習えたような台湾訛り。長髪を後ろで束ねたヘアスタイル。淡い褐色肌で目が大きい小柄な十代女子。

「ミーレ。そこだと湖から丸見えだ。私達は影から離れてはいけない」
「凱志さん了解です。お隣に行きます、おっとっと」
「しっかり鍛錬を積めば、音なく歩けるようになる」
 祭凱志が振り向き告げる。「これが陽と月が重なる日月潭だ。生まれ故郷にも湖はあるか?」

「ラオスは有名な滝ならありますよ」
 ミーレと呼ばれた娘がやってくる。私がいる枝を見上げる。
「あそこに一人隠れていますね。もしかして姉弟子だった王思玲かな?」
 微笑みながら指をさしてくる。

「……冗談だろ」

 つぎはぎした結界だとしても、瞬時に見抜かれた。ラオスがどこだか知らないけど、この華奢でかわいくてあどけない子は資質があふれている。……ゆえに楊偉天にスカウトされたのか。かわいそうに。

「思玲、降りてこい」

 祭凱志の両手に蕃刀が現れる。……あの魔道具が。だとしても憎しみを抑える。

「船から見えても仕方ない」
 張麗豪が浮かぶ。

 まずいぞ。師傅が来なければ捕らえられる可能性大だ。しかもこいつらは、もはや人殺しを厭わない連中だ。
 とは言っても、人に術をぶつけるなんてやれるわけない。

「麗豪おりろ。舟が近づいている」
 祭凱志の手から刀が消える。「飛び蛇が老師のもとに向かった。じきに来られる」

「……悠長ではないか。さきに昇が現れるかもしれない」
 言いながら、麗豪が地面に降りる。

「ニーハオ! サバーイディー!」
 ミーレが遊覧船へ無邪気に手を振る。

 予想外が起きた戸惑いの一瞬。
 必要なのは迅速な決断。

「喰らえ!」

 白露扇と小刀を交差させる。金色都銀色の螺旋が結界を突き破り、張麗豪の背後に飛ぶ。麗豪は1メートルほど吹っ飛ぶ。
 冷たいだろうな。風邪をひくかもな。だとしても思玲は湖に飛びおりる。

高屏(カオピン)逃がすな!」

 祭凱志の声が水しぶきの音にかき消される。やはり式神がいやがったか。
 遊覧船を目指せ。さすがに人前で私を襲わせないだろ…………。

ゾワッ

 とてつもない化け物の気配。そいつが湖底から浮上している。

「玲玲おひさ、抵抗しちゃ駄目だよ」

 祭凱志の式神である大洋獺(ターヤンター)の高屏が追ってきた。こいつは水陸両用の乗り物としては最高だけど。

「気づけ、逃げるぞ」
 思玲は扇をくわえ、ドラゴンボートほどもあるカワウソへクロールする。

「なに? どした?」

 高屏はのんびりとみせかけて戦闘力もある。それでも迫る化け物に勝てるはずない。
 思玲は人の目に見えぬ毛皮によじ登る。遊覧船からどう見えようが気にしてられるか。ずぶ濡れのままで巨大カワウソというか巨大ラッコにしがみつく。
 振り向くと、巨大な気泡が湧きあがっていた。

「陰辜諸だ! 陸へ登れ!」
「まじ、それってやばいやばい」

 思玲を乗せて高屏が跳躍する。人が見ていたら、空飛ぶ眼鏡ガールだが知ったことじゃない。
 勾配ある林に着地する。祭凱志どもが待ちかまえていた。

「もっと奥! 全員逃げろ!」思玲は叫ぶけど、

「……なにあれ?」ミーレは茫然と湖を見ていた。

 思玲も振り向いてしまう。……これが人だっただと? 大嘘に決まっている……弟など思いださない。




次回「追憶の澱み」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み