三十五の五 二人きりの二人

文字数 3,220文字

 股間を蹴られるかも。押し倒して最初に思ったのはそれだった。
 でも思玲は目を閉ざし黙ったまま。半乾きの髪。俺のベッド。
 二人きりの部屋。欲望と理性の境目。
 俺は彼女へと顔を寄せる。
 彼女は間近で目を開ける。

「誰でもよいわけない。一度だけならいいぞ」
 若い思玲が俺の首を抱えるように手をまわしてくる。
「二人だけの秘密として黙っていてやる。だが桜井は勘がいい。川田には匂いでばれそうだ。勘ぐられてもしらを切りとおせ。蛇が戻ってきて視覚で保存されても、あとで再生して見るなよ。性行為中は無防備だ。敵が来るまえに早く済ますぞ。まずはキスしろ。和戸が騒ぎながら戻ってきても無視しろ」

 また思玲が目を閉じる。でも夏奈や川田やニョロ子や白虎や峻計やドーンが脳裏に浮かび、俺の理性が欲情を土俵から押しだした。

「やめよう、いまは、まだ」
 未練を垂れ流しながら体を起こす。

「おじけついたか? 腑抜けの哲人だから予想はしたが、今後頼まれても股を開かないからな」

 なんて奴だ。それでも未練がこびりついている。

「今朝、このベッドで寝ていた人がいる。だからここではできない」
 未練を断ち切るためにはっきりと口にする。

「ドロシーか?」
 思玲が目を広げる。「生き返って早々にやったのか? ……挿入は果たしてない。それくらいはあの娘の態度で分かる。ではどこまで済ました?」

 なんて言い草だ。完膚なきまでに未練を断ち切れた。

「琥珀がいた」そう言って立ちあがる。

「この体が知る最初の男にさせてやったのに、欲がない奴だ。戦いの狭間に男女が二人きりなんて、勘ぐらぬ者はいないのに」
 思玲が横向きになってこちらを向く。
「妖怪博士の香りを、私の体臭で消してしまい申し訳なかった」

 思玲はむすっと言うけど、たしかに俺はこの部屋を出てジムニーに乗るときに思った。
 帰ってこれたら、あの子が寝ていた布団で横になれる。だから頑張れ。戦い続けろと。
 無茶苦茶魔女見習いに徹底的に取りこまれていた……。ドロシーはそんな人じゃない。俺に好意を抱いてくれて、無茶苦茶なまでにそれを態度で示しただけだ。

「ずっと敷いたままだからシーツを代えてから寝るよ。勘ぐられるのには慣れている」
 横になったままの思玲を見下ろす。
「今後の計画をたてよう」
 先ほどの二人はなかったことにしよう。

「計画などあるか。ニョロ蛇に連中を見つけさせて、哲人が端から護符を押しつける。お前ひとりで終わらせられるのだから、私はここで寝ていてもいい」
「お天狗さんの木札はそこまで強くないよ。楊偉天には効かなかった」
「自分から裸になっていいか?」
「はあ?」

 思玲が上半身を起こしTシャツを脱ぐ。背中のホックへ手をまわす。

「やめろやめて。おかしすぎる。思玲こそ術にかかっているのじゃないか?」

 俺の言葉に、彼女は白ブラジャーだけで眉間にしわを寄せる。

「私はお前と違い、つけこまれない。月のものが来ないうちに済ませたいだけだ」
「はあ?」
「生娘のままで月経を迎えると、異形がわらわら集まる。それこそ師傅や楊偉天クラスがそばにいてくれないと、お化けが庭のバナナの実ほどにぎゅうぎゅう状態だ。なので早いところ女になりたい。……切実だぞ」

 思玲はブラジャーだけでにらんでくるけど、さすがにこのシチュエーションで、もはや無理だ。

「もとの身体では誰が最初だったの?」なんて聞けるはずなく途方に暮れてしまう。そんな時間はない。
「正直に言うよ。俺だって思玲と関係を持ちたい。でも今じゃない。みんなのもとに帰ろう。だから服を着て」

「分かった。お前には金輪際頼まぬ」
 思玲がTシャツを頭からかぶる。名残惜しくなる。
「イウンヒョクにでもお願いするか」

「あの人も同じだと思うよ」
 一瞬一緒にいただけで分かる。
「代わりに(生理の期間中)思玲を守ってくれる。懸命に異形を追い払う」

「ふん。だったら哲人が守ってくれるか?」
「いいよ」

 俺は即答する。夏奈は『たくみ君』。ドロシーへの感情はきれいさっぱりなくなり、俺の悪意もかすれ、仲間としてのリスペクトだけが残った。
 すべて終わったら、若くなった思玲の隣にいてもいい。本来の年上の思玲に戻れたとしても……。
 さもない夢想。さもない口約束。

「あいにくだが私は一人で生きていく。いいや、雅と女子二人で過ごす」
 彼女もベッドから立ち上がる。眼鏡をかけようとして「だがやっぱり哲人に頼ることがあるかもしれない。その際にネクストステップへ進みやすくするためキスぐらいしてくれ」
 俺のまえにずんと立つ。またまた目を閉じる。
「私の中身は二十代半ばだからな、頬や額になどと陳腐なことをするな。生き返ってから歯を磨いているなら、舌を入れたければ入れろ。私は昨夜磨いている」

 刹那にして永遠。
 どんな台詞に導かれようと、ここで唇を重ねることは契りだ。戦いが終わったあとへの誓いだ。
 俺は黙ったまま彼女へと顔を寄せる。

「気が変わった」
 なのにこいつは顔を逸らしやがる。
「その心だけで充分だ。それで今後の戦略だが、まず哲人から申せ。どこかの貉みたいにだらだら話すなよ」

 この女は……。怒りもため息も飲みこむ。

「そのムジナがいるところと同盟すべきだと思う」
 バイクの後部シートで考えたことを告げる。

「上海とか? ボスがやられたのだから、藤川匠は仇敵となった。ともに戦うはあり得る。……だが信じられるか? 大陸の連中は鷹揚に見せてずるい。若い私らなんぞ駆け引きで勝てない。気づけば桜井は龍になり上海へテイクアウトされる」

「それを餌にする」

 俺の言葉に思玲の顔に嫌悪が浮かぶ。彼女より先に俺が言葉を継ぎ足す。

「デニーの儀式で俺が異形になる。そして戦う」

 思玲の顔にさらなる嫌悪がにじみでた。でも彼女は思案する。決断する。

「それでいこう」
 思玲が眼鏡をかける。「では出発だ」

 *

 思玲がユニットバスから手を洗わぬままでてきて、二人は部屋をでて鍵をかける。黙ったままの二人。心の声も交わさない。
 思玲とのひとときは誰にも言わない。俺が守ると約束したことも。
 ……思玲との未来が浮かばない。戦いの終わりが見えてきたら、それは輪郭をなすのだろうか。想像できない。

 二人は通学用白ヘルメットをかぶる。大型すぎるオフロードバイクを二人がかりで道へと向けなおす。思玲が颯爽とまたがり、俺はよたよたとまたがる。
 全身の痛みを束の間忘れていた。骨に異常はないみたいだし頑張れる。半年ほどまえの軽いねん挫で処方された湿布だけ、思玲のバッグに入れてもらってある。

「ドロシーから周婆さんの件を聞いている?」
 出発直前に尋ねる。バイクは結界で包まれることなく影添大社までノンストップだから、以後は喋る機会は少ない。

「老大大? なにも聞いてない」
「思玲が養子になることを条件に、ドロシーに協力したらしい」
「なんだそりゃ? なんで私が香港人にならねばならぬ。しかもあの人の娘? そもそも私に無断で私を売買するな。断固固辞する。略して断固辞だ」

 つまりドロシーは八方ふさがりだ。

「自業自得だね」俺のためにだとしても。

 俺はサイドスタンドを起こす。思玲はエンジンを起動させる。

「腰に手をまわすなよ」
「もちろん」

 でも思玲は出発しない。足がぎりぎり地面に着くかどうかの頼りない二人。思玲はエンジンを止める。

「哲人はどうしてもらいたい?」
「え? ……言える立場じゃないけど、ドロシーを助けてやりたい」

 何度も助けられたから。仲間として大切だから。思玲に気づかされた、それだけの理由。
 小雨混じりの曇り空。日暮里に着くころは夕方だ。

「そうか」と思玲がスイッチを押す。エンジンが再始動する。

 すぐに俺と思玲は風になる。信号で急停車して前屈みになってしまう。小さなヘルメットからはみでた黒髪が、俺の鼻をくすぐった。
 信号が青く灯り、二人はまた風に戻る。




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