五の一 夢物語にようこそ

文字数 2,879文字

 遊び尽くした遠い夏の日。昼寝なんかしようものなら、汗まみれで目が覚めた。その頃と同じように、俺はものうげに目を開ける。

「お婆ちゃんとか言っていたぞ」
 女の子が覗きこんでいた。
「それよりもだ。私が二度回避したら、白い光はあきらめて外へと向かった。『瑞希ちゃんだ』と、和戸が飛んでいった。座敷わらしになって早々にすまぬが箱を守っていてくれ。私はお調子者の鴉を連れ戻す」

 中国語が伝わる……。心への声だ。
 スーリンは手にした扇をすこし見つめたあと、玄関から日差しへと消えていく。彼女はすでにおとなの服を脱ぎ、お気に入りのライトイエローのワンピースに着替えていた。
 俺はぼんやりしたまま上半身を持ちあげる。

「思玲、だせ! 連れていけ! 俺にも喰わせろ!」

 ユニットバスから吠え声混じりに、誰かがわめいている。
「リクト?」と、おそるおそる声をかける。

「うまそうな化け物の匂いだと思ったら、松本かよ。お前は喰わないからな」

 どうコメントしていいか分からないけど、とりあえず子犬は、俺のことを名字で呼んでいた。

「そうだ! 思玲がいないうちに九郎を喰おうぜ。呼びつけようぜ」

 あの片側の目がつぶれた不憫な子犬は、こんないやしいことばかり言っていたのか。……待てよ。リクトの声が聞こえるってことは。
 俺は立ちあがる。子どもの目線だ。トレパンから日焼けした足が見える。屋内なのにトレシューを履いている。上着は、懐かしいな、ジュニア時代の練習着だ――。
 ゾワッと体中に鳥肌が立つ。この気配はなんだ。なんで感じとれるんだ?

「狩りの時間だ」
 リクトが吠えるのをやめた。ユニットバスのドアノブが下がる。ジャンプしたのかよ。外からの気配も怖いが、こいつもヤバい。俺は飛ぶように玄関わきのドアへと進む。両手でノブをあげる。
「……松本、邪魔してないよな」

 ノブを下げる力が内側から加わる。くわえてぶら下がっているな。

「ま、待てよ。まだ待って!」
 外の気配より、こいつのが恐ろしい。俺はノブを必死に上に引っぱる。

「お前達だけで倒せるかよ!」
 ノブをおろす力が強まる。鼻息の音がここまで伝わる。
「俺は見ているだけなんてしないからな!」

 吠えた拍子に床に落ちたのか、下げようとする力が急に途絶える。反動で、ノブを起点に俺の体がふわりと浮かぶ。俺はすでに人でないと、部屋を見おろしながら確信できた。
 玄関先が騒がしくなる。開いたドアから、

「ヤバい、ヤバい」

 ドーンの声でカラスが飛びこんできた。ついでスーリンが転がりこむ。

「リクトが人に戻ったときのために、川田の服を持ってきてある。それをはやくだせ!」
 女の子が真っ赤な顔であえぐように言う。

 女の子を押し倒すように、全裸の女性が俺の部屋に押し入ってきた。……巨漢で豊満で銀髪の白人だ。俺は凍りついて凝視してしまう。その白人中年女性も宙に浮かぶ俺を見る。

「哲人、どうしてくれるのさ。なんとかしてくれよ」

 またしても心への声だ。しかも俺の名前を知っている……。もしかして、これが瑞希ちゃん? 想像していたのと極めて違う。

「とにかく服を着ろ! 人になった貴様の全裸など、誰も見たくない」
 女性の下で女の子がもがきながら叫ぶ。

「フサフサ、マジで隠せよ」
 カラスが狭い部屋を器用に旋回して、浮かぶ俺の頭に着地する。
「それが人のルールだ!」
 そっぽを向いて言う。

「ドーン、大丈夫か! はやく俺をだせ」

 リクトが幼い声で鳴き声混じりに怒鳴る。……この展開はなんだ? 妖怪になった自分を客観視する暇さえない。

 ***

 白人女性は身長が180センチ以上ある。スーリンばりに目つきが悪い。均整のとれた力士みたいな体格で、はるかに小さい俺達をにらみまわす。
 ドーンは、こいつのことをフサフサと呼んだよな。

フサフサにお礼。おおきな毛むくじゃらの猫

 どたばたの状況が一段落して、あの手紙にそんな一節があったことを思いだす。この外国人女性は、俺のシャツを破ったあの猫なのか?

「四玉の光は囲んだものしか照らさぬはずだ。お前が光を呼んだのか?」
 女の子が女性をにらみかえす。

「はあ?」
 野良猫らしき女性は全裸のまま小馬鹿にした顔になる。
「その言い分はやめておくれ。私こそ迷惑をこうむった立場だよ。細かいことは哲人に聞いてくれ」

 俺は混乱した頭でなおも考える。あの箱を開けたおかげで俺は座敷わらしになり、ドーンはカラスとなり、猫は猫にならず人と化した……。なんだそりゃ? 考えていられるか。

「とりあえず服を着てください」

 女の子と二人がかりで、フサフサと呼ばれる中年白人女性に男物のタンクトップと短パンを着させる。

「毛のない体で歩けるかい」

 フサフサは協力的だ。でも服がピチピチ……。胸にさらしを巻いてから再度上着を着せる。なにかで必要になるかもと、ひとり暮らしの際に持たされたが、こんな使い道になるとは母も思わなかっただろう。
 この人があの野良猫とは。想像していた世界とちがう。

「出だしから悪いじゃんね。俺はもう手がないから哲人に任せるしかねーし」

 カラスがドーンの声で笑う。こいつは俺の頭上から逃げて、机のスタンドにとまろうとしてそれを倒して、結局テーブルにおりた。ドーンがカラスになると聞いていたが、もっと漫画的なかわいいというかユーモラスな鳥になると思いこんでいた。リアルな本当のカラスかよ。

「はやく、そいつを追いだせ!」

 リクトは心の声より吠え声がでかい。さすがに通報されるぞ。ようやく体を隠したフサフサが、すくっと立ちあがる。

「人間を散々見てきたから、歩き方だって分かるさ。でも、なんで私が人になってしまうのだい。この季節はすっきりとしていい感じだけどね」
 俺に笑いかけてくる。
「人間の哲人は薄情だったね。私はあいつに食われたかもしれないのに」

 ……誰のことを言っているのか分かる。やっぱりあの野良猫か。

「あの片腕の男は何者ですか?」俺は尋ねる。

「ご丁寧な口調はやめておくれ。あれはツチカベだよ。久しぶりに見かけたら、あいつも人間になっていやがった。人型の異形にね」

 部屋が静まる。そいつは誰だ?

「峻計の仕業か。あの野良犬もここに来るのか?」スーリンが尋ねる。

「ふん。哲人のマーキングが、あれだけ残っていればね」
 フサフサが自分の頬を指でつつきながら言う。ドロシーのキスマークのことだな。

「あれはないよな。駅からつながっているのが、俺ですら感じたぜ」
 ドーンも追随する。

「あの娘はたしかに才能あるが、昔から術の加減を調整できぬ」
 そう言うと、女の子が巨漢の女性を見あげる。
「分かっているだろうがお前は異形と化した。白玉がお前を選んだのか、お前が光を呼んだのかは知らぬが」

「難しいことは抜きにして、はやく猫に戻しておくれ。この年までようやく生きたのに、あんまりだ」

 フサフサが俺にすがってくる。俺は天井に逃れる。

「まだ待て。お前が戻るのは、瑞希達五人と一緒のときだ。それより哲人」
 スーリンが俺を見上げる。
「そろそろ落ち着いただろ。本来の記憶は戻ったか?」




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