十二の二 松本哲人対土壁
文字数 4,317文字
桜井夏奈を返せ。
そんな言葉を口にする必要ない。こいつを倒せば夏奈は戻ってくる。この隻腕の人である野良犬を
「……おほ、松本哲人が怒っているぜ」
言うなり、土壁が至近から火焔嶽を振るう。
赤い炎、紫の毒。場所も知らぬ異境の森で、異形である俺は法具で弾く。
身構えろ!
続けざまに炎が放たれる。独鈷杵でかわすが精一杯。……こいつとは何度も戦っている。だから知っている。独鈷杵を投げたところで避けられる。
俺は知っている。
土壁はタフ。土壁は神出鬼没。単純だけど姑息な攻撃。毒と炎。
俺は横にまわりこむ。樹々を盾にする。
俺は知っている。土壁は恥もなく逃げる。だからしがみつけ。距離を縮めろ。逃れさせるな――!
「ちっ」
側面から現れた赤い矢をかろうじて避ける。矢が空中で湾曲し静止する……赤い蛇。例の有能な飛び蛇だ。
願ってもない。助太刀してきたこいつこそ倒す。
「ちっちゃい蛇さんは戦うなよ。姿を隠して攻撃できないあんたじゃ、こいつにやられるだけだ」
土壁は楽しそうだ。蛇は姿を消す。
「松本哲人はボスだ。かなり強いぜ。へ、へ、へ!」
人の手の形をした真紅の穂先。土壁が突きだすたびに、それは握られ広がり毒を放つ。炎を放つ。
単純な攻撃。弾き損ねば死が近づく。でも土壁は俺に死をもたらせない。
俺が野良犬に死をもたらす。
だから土壁は後ずさる。俺達の距離は縮まらない。
離れるな。逃すな。
土壁は逃げてもいい。野犬のように潜んで背後から襲ってもいい。
俺がすることはひとつだけ。夏奈を奪いかえす……。
それだけだろ! だったら接近戦だ!
「土壁!」俺は直線に走る。
「哲人さん」
泥だらけで泣き顔のドロシー。脳みそへダイレクトに視覚が飛びこんできた。
飛び蛇め、残念だが俺に心理攻撃は効かない。
効かないけど。
「火焔嶽!」
土壁が槍を横に振る。炎が横一文字に飛んでくる。こんな技もあったのか。
焼かれようが最短距離。
「ははは」
先ほどの車内で笑う夏奈が視覚で現れる。効果ないんだよ。ドライな俺は惑わされないんだよ。
「火焔嶽!」
毒を飛ばされようが最短距離。回復してくれる大蔵司がいなくても最短距離。
「うは! 楽しいじゃないか。だったら俺も逃げないぜ」
ともに戦ってくれる思玲がいなくても最短距離。
「松本哲人を殺すなときつく言われた。青い光がなんたららしい」
手を握ってくれるドロシーがいなくても最短距離。
すぐそこに夏奈がいるから。
「知ったことか。喰らえ!」
土壁が槍を俺へ突く。片腕だけの攻撃。かわして死角から――
炎の渦が飛んできた。直前で避けられるはずなく、吹っ飛ばされる。樹木にぶつかり地面に落ちる。木は異界の炎に燃えだす。
めちゃくちゃ熱い。こんなこともできるのか……。
「無様だな」
幼い思玲が無表情で見下ろしてくる。縛られた張麗豪でなく俺を。
「……飛び蛇。さすがに怒るぞ」
俺に近づけ。引きちぎってやる。
「松本の言うとおりだ。そいつを視覚に使うな」
土壁がにやけながら寄ってくる。
「楊偉天の持っていた杖を、峻計さんが手にした。知っているよな?」
俺よりずっと背高いこいつには、蚊も虻も蛇も近づかない。獣が人に化した、禍々しすぎる存在だから。
野良犬が人の形と化した、憐れむほどに忌むべき存在。
「あいつはお前の次に倒す」
俺は立ちあがる。
「無理だな。あの杖は峻計さんと相性抜群だ。つまり楊偉天とだ。当然だろ?」
土壁が頭上で槍を回転しだす。
「火焔嶽にな、峻計さんが術をかけてくれた。それだけでこんなに強くなった。松本哲人よりも……大きくなっちまったあの子よりもだ」
土壁の上で毒と炎が混ざり渦となっていく。異なる世界の瘴気に当てられて、樹木の枝葉がただれたように落ちていく。
あんなのは避けられない。でも逃げたら土壁も逃げる。こいつに怯えた魄はもう追えないだろう――。
「お前は魄に運んでもらったのか?」
「影みたいな二体にな。向こうから寄ってきた……。松本と会話は駄目だった」
つまり、土壁だって死に尊ばれている。こいつこそ終わりが近づいている。
そう思いこめ。
仲間はいない。でも俺は逃げない。俺が夏奈を助ける。それこそが導き!
「つ、ち、か、べ!!!」
一直線に突っこむ。怯め、怯みやがれ!
「そいつは誰だ? 俺は土壁 だ」
隻腕の大男が怯むはずない。槍を回しながら、醜悪な形相で俺を待ちかまえている。直前へたどり着いた俺へと、百九十センチを超えた長躯から禍々しき渦を振り下ろす。
避けられないものは避けない。毒と炎を浴びながら異形の胸へと独鈷杵を、
「おらっ」
蹴りを喰らい数メートルも吹っ飛ぶ。木に激突。内臓まできしんだ。でもだ。
思玲の爪先で潰された金玉のがはるかに痛い!
決意を込めて立ちあがる、のに、
「おら、おら、おらっ」
土壁が槍を乱舞させる。体勢を整えるまえに、毒と炎を浴びまくる。
「げほげほ……」
「おらっ!」
毒にむせる俺へと、槍先が向かってくる。ぎりぎり躱 すけど、かすめた腕から煙が立つ。
「おらっ、おらおらっ、おれっ!」
蹴とばされて地面に転がったところを、火焔嶽で突きまくられる。避けても毒と炎が飛び交う。草が燃える。枯れていく。
吐き気。眩暈。毒がまわってきた。熱傷。体がひりつく。
俺は独鈷杵を投げる。
「うほっ」
槍ではじき飛ばされる……。人でなき反応。身体能力。こんなに強かったのか。勝てないかも。
などと思わない!
「つ、ち、か、べ!!!」
血を吐きながら、踏みつける足にしがみつく。その手に独鈷杵がよみがえる。
俺を貫こうとした槍を法具で弾――弾けない。
「ぐえっ」
悲鳴を上げてしまう。あの気味悪い人の手の刃先が、俺の胸に刺さった。燃えながら毒を吐きながら、俺の心臓を握りつぶそうとする。
――松本君こそ
……いつか見た夏奈のはにかんだ笑み。
――君がこっちの世界に残るのならば、私は身を挺してでも君を守る
……いつか、一緒に、人の世界に帰るのだよな。
「飛び蛇……。ドロシーの笑みを見せろ。見せろったら!」
槍の棹に法具を叩きつけ、へし折る。胸から赤い人の手を抜く。毒そのものを手で握り、土壁の足へ刺そうとする。
「俺の前脚だぜ」
土壁は笑う。避けようともしない。
でも俺の手に独鈷杵はよみがえる。禍々しい人の手を微塵にしながら、それは現れる。法具が土壁の膝を貫く。
「ぐ、ぐあああ」
土壁が絶叫を上げる。俺を蹴飛ばす。俺は血を吐く。全身が毒に冒されている。それでも立ちあがる。土壁はうずくまる。
「火焔嶽!」
しゃがんだままの土壁が叫ぶ。穂先はよみがえらない。
怒る顔。懇願する顔。泣き顔。
飛び蛇が懸命に視覚を飛ばしてくる。俺は完全スルー。見たいのは笑顔だけ。いつかもう一度、実物をこの目で見てやる。
「ほ、法具で破壊した。もう帰ってこない」
俺の手には独鈷杵がある。うずくまる大男へと投げる。
犬であった異形が手でかばう。独鈷杵は手の甲を貫く。土壁の右目に深々と刺さる。
「ぐえっ」
野犬であった人が穴の開いた手で法具を抜こうとする。握った手が燃えだす。
気配。手ではらう。
「キョッ」飛び蛇が地面に叩き伏せられて、姿を隠す。
「蛇さん逃げろ……峻計さんを呼んでくれ。貪でもいい」
土壁の手は法具とともに目に突き刺さっている。怒りの炎で燃やされている。
「助けは不要だ。俺が抜いてやる」
俺の手に独鈷杵はよみがえる。
野犬であった異形と、学生であった異形が見つめあう。
「松本哲人は死ぬ。毒で死ぬ。ホケンジョで死ぬ。ゴミみたいに死ぬ」
両手と片足と片目を失った土壁がなおも笑う。
「俺は死なないぜ。ずっとずっと生きてきた。これから楽しく生きてやる。仲間を探す。群れをつくる。邪魔する人間を殺す」
「俺は死なないよ。ツチカベだけがお仕舞いだ。もう人も殺せない」
晩まで耐えろよ俺。幾夜かかろうが、月明かりを浴びながら復活してやる。
俺はよろめき足もとから崩れ落ちる、ふりをして、土壁の胸へ法具をおろす。
「ひ、卑怯だな。さすが人間だ」
土壁は法具を抜くこともできない。その体が薄らいでいく。口から黒い液体が垂れ流す。むせる。
それを浴びながら、俺の手に法具はよみがえる。
人の目に見える異形の喉へとおろす。抜けば黒い血があふれだす。
それも浴びながら聞く。
「お前はどこへ行こうとした?」
夏奈を連れてどこへ行く? 貴様らの主はどこにいる?
答えろ。そしたら終わりにしてやる。
野良犬から忌むべき異形。歪んだ性根。人への憎しみ。みんな終わらせてあげるから。
「……どこだと?」
かすれた声。土壁は急速に弱まっていく。
「……そりゃ、どぶ川のコンクリート。もう一度だけ、あの子のところに行きたいな。子犬だった俺に、ご飯をくれて抱っこしてくれた女の子」
「違う。藤川匠はどこにいる?」
「もう一度抱っこしてくれよ。……人なんかじゃなくて、飼い犬になりたかった……」
異形に堕ちた犬が禍々しき人の姿のままで溶けていく。
俺はうつ伏せに倒れる。
俺まで終わるなよ。
這いつくばるなよ。立ち上がれよ。せめてしゃがみ込め。
深山の森。子犬が空へと駆けていく。尻尾を振りながら……。
なんだよ、あれだけ悪事を重ねようと赦されるのかよ。……よかったな、誰かが背負ってくれるのだろ。
だったら、やっぱり、俺は仰向けになる。妖怪でなければとっくに果てていた。痛みを越えた痛みだけが全身に存在している。
土壁は耐えられなかった。だから兄弟のもとに向かった。俺はなおも耐えている。だから夏奈は現れる。きっと現れる。
「げげ、なにがあったの?」
ほら、夏奈の声がした。なのに目を開けられない。
「みんなはどこ? 台湾の山の中で一人? やばいよ。京さーん! 思玲ちゃーん!」
呼んだって誰も来ないよ。握っているのだろ? それに気づけよ。
「……杖。そうだった。でも……青色なんだ」
思玲が驚愕した色。龍の色。
「血を垂らせって言ったよね。二度も無理だし」
夏奈が立ち上がる気配がした。
「みんなどこ? 誰かいますか?」
見えない俺に気づけるはずなく、夏奈が去ろうとする。
「たくみ君、助けて!」
「ま、待てよ」
俺は聞こえない声をかける。立ち上がれない。
それでもなお、俺の手に独鈷杵がよみがえる。
すでに奴らの手に落ちていた杖。罠を仕込まれた魔道具。
俺がすべきことが正しいとは思えないけど。だとしても正しきに変えればいい。霞む目で、独鈷杵を夏奈らしき影へ投げる。
俺の狙ったところに飛ぶわけだから、それは杖を握る指をかすめる。血がにじむ程度に。
次回「青よりも黒く」
そんな言葉を口にする必要ない。こいつを倒せば夏奈は戻ってくる。この隻腕の人である野良犬を
殺せば
いいだけだ。「……おほ、松本哲人が怒っているぜ」
言うなり、土壁が至近から火焔嶽を振るう。
赤い炎、紫の毒。場所も知らぬ異境の森で、異形である俺は法具で弾く。
身構えろ!
続けざまに炎が放たれる。独鈷杵でかわすが精一杯。……こいつとは何度も戦っている。だから知っている。独鈷杵を投げたところで避けられる。
俺は知っている。
土壁はタフ。土壁は神出鬼没。単純だけど姑息な攻撃。毒と炎。
俺は横にまわりこむ。樹々を盾にする。
俺は知っている。土壁は恥もなく逃げる。だからしがみつけ。距離を縮めろ。逃れさせるな――!
「ちっ」
側面から現れた赤い矢をかろうじて避ける。矢が空中で湾曲し静止する……赤い蛇。例の有能な飛び蛇だ。
願ってもない。助太刀してきたこいつこそ倒す。
「ちっちゃい蛇さんは戦うなよ。姿を隠して攻撃できないあんたじゃ、こいつにやられるだけだ」
土壁は楽しそうだ。蛇は姿を消す。
「松本哲人はボスだ。かなり強いぜ。へ、へ、へ!」
人の手の形をした真紅の穂先。土壁が突きだすたびに、それは握られ広がり毒を放つ。炎を放つ。
単純な攻撃。弾き損ねば死が近づく。でも土壁は俺に死をもたらせない。
俺が野良犬に死をもたらす。
だから土壁は後ずさる。俺達の距離は縮まらない。
離れるな。逃すな。
土壁は逃げてもいい。野犬のように潜んで背後から襲ってもいい。
俺がすることはひとつだけ。夏奈を奪いかえす……。
それだけだろ! だったら接近戦だ!
「土壁!」俺は直線に走る。
「哲人さん」
泥だらけで泣き顔のドロシー。脳みそへダイレクトに視覚が飛びこんできた。
飛び蛇め、残念だが俺に心理攻撃は効かない。
効かないけど。
「火焔嶽!」
土壁が槍を横に振る。炎が横一文字に飛んでくる。こんな技もあったのか。
焼かれようが最短距離。
「ははは」
先ほどの車内で笑う夏奈が視覚で現れる。効果ないんだよ。ドライな俺は惑わされないんだよ。
「火焔嶽!」
毒を飛ばされようが最短距離。回復してくれる大蔵司がいなくても最短距離。
「うは! 楽しいじゃないか。だったら俺も逃げないぜ」
ともに戦ってくれる思玲がいなくても最短距離。
「松本哲人を殺すなときつく言われた。青い光がなんたららしい」
手を握ってくれるドロシーがいなくても最短距離。
すぐそこに夏奈がいるから。
「知ったことか。喰らえ!」
土壁が槍を俺へ突く。片腕だけの攻撃。かわして死角から――
炎の渦が飛んできた。直前で避けられるはずなく、吹っ飛ばされる。樹木にぶつかり地面に落ちる。木は異界の炎に燃えだす。
めちゃくちゃ熱い。こんなこともできるのか……。
「無様だな」
幼い思玲が無表情で見下ろしてくる。縛られた張麗豪でなく俺を。
「……飛び蛇。さすがに怒るぞ」
俺に近づけ。引きちぎってやる。
「松本の言うとおりだ。そいつを視覚に使うな」
土壁がにやけながら寄ってくる。
「楊偉天の持っていた杖を、峻計さんが手にした。知っているよな?」
俺よりずっと背高いこいつには、蚊も虻も蛇も近づかない。獣が人に化した、禍々しすぎる存在だから。
野良犬が人の形と化した、憐れむほどに忌むべき存在。
「あいつはお前の次に倒す」
俺は立ちあがる。
「無理だな。あの杖は峻計さんと相性抜群だ。つまり楊偉天とだ。当然だろ?」
土壁が頭上で槍を回転しだす。
「火焔嶽にな、峻計さんが術をかけてくれた。それだけでこんなに強くなった。松本哲人よりも……大きくなっちまったあの子よりもだ」
土壁の上で毒と炎が混ざり渦となっていく。異なる世界の瘴気に当てられて、樹木の枝葉がただれたように落ちていく。
あんなのは避けられない。でも逃げたら土壁も逃げる。こいつに怯えた魄はもう追えないだろう――。
「お前は魄に運んでもらったのか?」
「影みたいな二体にな。向こうから寄ってきた……。松本と会話は駄目だった」
つまり、土壁だって死に尊ばれている。こいつこそ終わりが近づいている。
そう思いこめ。
仲間はいない。でも俺は逃げない。俺が夏奈を助ける。それこそが導き!
「つ、ち、か、べ!!!」
一直線に突っこむ。怯め、怯みやがれ!
「そいつは誰だ? 俺は
隻腕の大男が怯むはずない。槍を回しながら、醜悪な形相で俺を待ちかまえている。直前へたどり着いた俺へと、百九十センチを超えた長躯から禍々しき渦を振り下ろす。
避けられないものは避けない。毒と炎を浴びながら異形の胸へと独鈷杵を、
「おらっ」
蹴りを喰らい数メートルも吹っ飛ぶ。木に激突。内臓まできしんだ。でもだ。
思玲の爪先で潰された金玉のがはるかに痛い!
決意を込めて立ちあがる、のに、
「おら、おら、おらっ」
土壁が槍を乱舞させる。体勢を整えるまえに、毒と炎を浴びまくる。
「げほげほ……」
「おらっ!」
毒にむせる俺へと、槍先が向かってくる。ぎりぎり
「おらっ、おらおらっ、おれっ!」
蹴とばされて地面に転がったところを、火焔嶽で突きまくられる。避けても毒と炎が飛び交う。草が燃える。枯れていく。
吐き気。眩暈。毒がまわってきた。熱傷。体がひりつく。
俺は独鈷杵を投げる。
「うほっ」
槍ではじき飛ばされる……。人でなき反応。身体能力。こんなに強かったのか。勝てないかも。
などと思わない!
「つ、ち、か、べ!!!」
血を吐きながら、踏みつける足にしがみつく。その手に独鈷杵がよみがえる。
俺を貫こうとした槍を法具で弾――弾けない。
「ぐえっ」
悲鳴を上げてしまう。あの気味悪い人の手の刃先が、俺の胸に刺さった。燃えながら毒を吐きながら、俺の心臓を握りつぶそうとする。
――松本君こそ
……いつか見た夏奈のはにかんだ笑み。
――君がこっちの世界に残るのならば、私は身を挺してでも君を守る
……いつか、一緒に、人の世界に帰るのだよな。
「飛び蛇……。ドロシーの笑みを見せろ。見せろったら!」
槍の棹に法具を叩きつけ、へし折る。胸から赤い人の手を抜く。毒そのものを手で握り、土壁の足へ刺そうとする。
「俺の前脚だぜ」
土壁は笑う。避けようともしない。
でも俺の手に独鈷杵はよみがえる。禍々しい人の手を微塵にしながら、それは現れる。法具が土壁の膝を貫く。
「ぐ、ぐあああ」
土壁が絶叫を上げる。俺を蹴飛ばす。俺は血を吐く。全身が毒に冒されている。それでも立ちあがる。土壁はうずくまる。
「火焔嶽!」
しゃがんだままの土壁が叫ぶ。穂先はよみがえらない。
怒る顔。懇願する顔。泣き顔。
飛び蛇が懸命に視覚を飛ばしてくる。俺は完全スルー。見たいのは笑顔だけ。いつかもう一度、実物をこの目で見てやる。
「ほ、法具で破壊した。もう帰ってこない」
俺の手には独鈷杵がある。うずくまる大男へと投げる。
犬であった異形が手でかばう。独鈷杵は手の甲を貫く。土壁の右目に深々と刺さる。
「ぐえっ」
野犬であった人が穴の開いた手で法具を抜こうとする。握った手が燃えだす。
気配。手ではらう。
「キョッ」飛び蛇が地面に叩き伏せられて、姿を隠す。
「蛇さん逃げろ……峻計さんを呼んでくれ。貪でもいい」
土壁の手は法具とともに目に突き刺さっている。怒りの炎で燃やされている。
「助けは不要だ。俺が抜いてやる」
俺の手に独鈷杵はよみがえる。
野犬であった異形と、学生であった異形が見つめあう。
「松本哲人は死ぬ。毒で死ぬ。ホケンジョで死ぬ。ゴミみたいに死ぬ」
両手と片足と片目を失った土壁がなおも笑う。
「俺は死なないぜ。ずっとずっと生きてきた。これから楽しく生きてやる。仲間を探す。群れをつくる。邪魔する人間を殺す」
「俺は死なないよ。ツチカベだけがお仕舞いだ。もう人も殺せない」
晩まで耐えろよ俺。幾夜かかろうが、月明かりを浴びながら復活してやる。
俺はよろめき足もとから崩れ落ちる、ふりをして、土壁の胸へ法具をおろす。
「ひ、卑怯だな。さすが人間だ」
土壁は法具を抜くこともできない。その体が薄らいでいく。口から黒い液体が垂れ流す。むせる。
それを浴びながら、俺の手に法具はよみがえる。
人の目に見える異形の喉へとおろす。抜けば黒い血があふれだす。
それも浴びながら聞く。
「お前はどこへ行こうとした?」
夏奈を連れてどこへ行く? 貴様らの主はどこにいる?
答えろ。そしたら終わりにしてやる。
野良犬から忌むべき異形。歪んだ性根。人への憎しみ。みんな終わらせてあげるから。
「……どこだと?」
かすれた声。土壁は急速に弱まっていく。
「……そりゃ、どぶ川のコンクリート。もう一度だけ、あの子のところに行きたいな。子犬だった俺に、ご飯をくれて抱っこしてくれた女の子」
「違う。藤川匠はどこにいる?」
「もう一度抱っこしてくれよ。……人なんかじゃなくて、飼い犬になりたかった……」
異形に堕ちた犬が禍々しき人の姿のままで溶けていく。
俺はうつ伏せに倒れる。
俺まで終わるなよ。
這いつくばるなよ。立ち上がれよ。せめてしゃがみ込め。
深山の森。子犬が空へと駆けていく。尻尾を振りながら……。
なんだよ、あれだけ悪事を重ねようと赦されるのかよ。……よかったな、誰かが背負ってくれるのだろ。
だったら、やっぱり、俺は仰向けになる。妖怪でなければとっくに果てていた。痛みを越えた痛みだけが全身に存在している。
土壁は耐えられなかった。だから兄弟のもとに向かった。俺はなおも耐えている。だから夏奈は現れる。きっと現れる。
「げげ、なにがあったの?」
ほら、夏奈の声がした。なのに目を開けられない。
「みんなはどこ? 台湾の山の中で一人? やばいよ。京さーん! 思玲ちゃーん!」
呼んだって誰も来ないよ。握っているのだろ? それに気づけよ。
「……杖。そうだった。でも……青色なんだ」
思玲が驚愕した色。龍の色。
「血を垂らせって言ったよね。二度も無理だし」
夏奈が立ち上がる気配がした。
「みんなどこ? 誰かいますか?」
見えない俺に気づけるはずなく、夏奈が去ろうとする。
「たくみ君、助けて!」
「ま、待てよ」
俺は聞こえない声をかける。立ち上がれない。
それでもなお、俺の手に独鈷杵がよみがえる。
すでに奴らの手に落ちていた杖。罠を仕込まれた魔道具。
俺がすべきことが正しいとは思えないけど。だとしても正しきに変えればいい。霞む目で、独鈷杵を夏奈らしき影へ投げる。
俺の狙ったところに飛ぶわけだから、それは杖を握る指をかすめる。血がにじむ程度に。
次回「青よりも黒く」