三十四の三 午後四時からのハイキング
文字数 2,383文字
「僕達は自然保護NPOの学生ボランティアです。大峠の登山口に仲間の車があるので、そこまで甘えさせていただけますか?」
昨日も電車で用いた気がする。
奥さんの運転で、赤いベンツが雨あがりの道を進む。電車で食べたきりだから腹が減る。そんなことを訴えていられない。
「私はマスコットガールです。平熱が高いのでご心配なく」
運転席の後ろで思玲が言う。
俺に触れる彼女の肌は燃えている。熱でうるんだ眼球は溶けそうだ。
「横根さんは優しいし強いし素敵ですね」
ドロシーが、人の目には俺との間の意味ありげなスペースへと心の声をかける。
「そのワンピース、すごく似合いますね。私はパンツばかりだからうらやましいです。……またドレスを着たいな。子どものとき以来に」
そう言う彼女の視線は、運転席の人間が視界に入らぬように窓の外だけを向いている。横根はなにも言わない。
太陽が差しこんだ。もう夕立はないだろう。俺が呼ばない限り。
「ハラペコ寝てないだろな? 奴らはなにか企んでいるのか?」
思玲が助手席に聞く。
「究極体は異形の言葉が喋れない」
異形であるおばさんが人の声をだす。
「松本が人のままで流範とロタマモを倒したのは、飛び蛇から連絡がいっているはずだ。ドロシーは結界を見抜いた。僕の存在も不気味だ。さらには思玲が復讐のために、すなわち力を純化するために子どもに戻ったのか半信半疑だろう。慎重になるに決まっている。しかも松本を殺せないから、この車を黒羽扇で破壊できない」
ドロシーがため息をつく。
「日本語は私だけ分からない」
嫌味たらしく広東語で口にする。もはや俺には通じる。
「あなた達、大丈夫ですか?」
運転席の奥さんから怪訝な声がして、ドロシーはさらに不快な顔になる。
「結界が飛んでいた」彼女はぼそりと心の声で言う。「すでにばればれだ」
青空だけが広がっていく。
***
十分ちょっとで到着した駐車場は満車だった。登山者も多いだろうけど、俺達は登山道を進むわけでない。会計係のシノからドロシーが預かった日本円の一部を、露泥無が渡そうとする(常識的な金額だ)。奥さんは受けとらない。
雨あがりの午後四時過ぎ。スマホをリュックサックの外ポケットにしまう。法董に裂かれた穴は仮縫いされている。空を見上げる。すがすがしいくらいだ。
「露泥無は、なんで私達を助けてくれるの?」横根が俺に聞く。
「俺を生かしておくため」
簡潔に答える。昔からの使命を完了させるために。サキトガがまた現れるために。そして沈大姐が登場して、横根の魂がすべて戻る……。
そんなにうまくいくはずがない。そもそも露泥無がいればサキトガは来ないかも。
思玲がトイレから戻ってきた。洗っていない手で、俺の手を握る。
「もう熱がひいた。癒しなど不要だったな」
俺の手のひらを自分の額に押し当てる。おそらくお寺でもらった解熱剤のおかげだ。
「おでこにされただけだが、ドロシーの唇は柔らかだったよな」
笑いかけやがる。
「俺は服にキスされただけ」
横根へ伝わるようにはっきりと答える。
*
ベンツは切りかえしに難儀しながら去っていく。
「ばればれだと気づいていないと、思ってくれたらいいけどな」
女の子に戻った露泥無がストレッチじみたことを始める。
「だけど竹林は賢い。峻計と麗豪は言わずもだ。でも僕と松本はさらに賢い。臨機応変に対処できる。なのに、三人ほど直情的なのがいる。おそらく、よくても乱戦になる」
そして誰か死ぬと言いたいのかよ。スマートな戦いなどしたことない。彼女達に触手が届かぬように願うだけだ。
「急ごう。上海はのんびりしすぎだ」
ドロシーが林に分け入る。道案内の露泥無が急いで先頭に立つ。横根と思玲もついていく。
俺は口にたまった血を吐きだして、リュックを背負う。竹林達がいるならば、まだ夏奈を呼べない。どんどん夏奈が遠ざかるように感じる。
もう少し頑張ればいいだけだ。口もとをぬぐい、みんなのあとを追う。秋のセミが鳴きだした。
「着信だ」
前を行く思玲が、踏み跡をたどりながら天珠を耳にあてる。
「何用だ……。ケビンか! 貴様の仕業でこんな目になったからな。……あの娘は天珠を使えない。告げたいことは私に言え。お前の感でも雑音だらけだ。琥珀に代われ」
ドロシーが立ちどまる。安堵と不安が織りまざった表情だ。思玲が喋りながら追い越す。
「天珠同士で位置確認できると、ケビンが言っているらしい」
思玲が琥珀に問う。
「そんな機能はつけない。片方を奪われたら筒抜けになる」
露泥無がへとへとの顔で立ちどまり、切り株に座る。すぐに思玲に譲る。
「ケビンは土壁に襲われた」
天珠を切った思玲が言う。
「いきなり現れたリクトが奴の手首を噛み砕いたおかげで助かったようだ。ケビンは若干火傷して毒も受けたらしいが、リクトの先導で琥珀達と合流できた。やはり槍を作ろうとしていたようだ。果たせなかったがな。――和戸が鳴いて誘導するそうだ。林の中ならノープロブレムらしい」
危険だけど、狭い部屋でも切りかえしができるドーンを信じるしかないか。それよりも、火焔嶽のおぞましい毒と炎。
奴はあとさき考えずに槍を振りまわした。いまの俺達は空にも水にも逃げられない。
でもケビンが生き延びたということは、傷を負った土壁は人の手のような槍を使えないのだろう。とりあえず恐怖をひとつ消しておこう。
思玲が立ちあがる。
「人が来たな」
こんな作業道に?
「……多いぞ。横根は連中に見えないから哲人を守れ。ドロシー、傀儡祓いの術を授ける。三十秒でマスターしろ」
深い林のなか、幼い思玲がいきなり七葉扇をひろげる。演武を始める。
峻計にはこれがあった。操った人間に俺達を無傷で捕らえさせる。
杉林の向こうに、赤色のアタックザックが見えた。最初の登山者が現れた。
次回「無心なハイカーたち」
昨日も電車で用いた気がする。
奥さんの運転で、赤いベンツが雨あがりの道を進む。電車で食べたきりだから腹が減る。そんなことを訴えていられない。
「私はマスコットガールです。平熱が高いのでご心配なく」
運転席の後ろで思玲が言う。
俺に触れる彼女の肌は燃えている。熱でうるんだ眼球は溶けそうだ。
「横根さんは優しいし強いし素敵ですね」
ドロシーが、人の目には俺との間の意味ありげなスペースへと心の声をかける。
「そのワンピース、すごく似合いますね。私はパンツばかりだからうらやましいです。……またドレスを着たいな。子どものとき以来に」
そう言う彼女の視線は、運転席の人間が視界に入らぬように窓の外だけを向いている。横根はなにも言わない。
太陽が差しこんだ。もう夕立はないだろう。俺が呼ばない限り。
「ハラペコ寝てないだろな? 奴らはなにか企んでいるのか?」
思玲が助手席に聞く。
「究極体は異形の言葉が喋れない」
異形であるおばさんが人の声をだす。
「松本が人のままで流範とロタマモを倒したのは、飛び蛇から連絡がいっているはずだ。ドロシーは結界を見抜いた。僕の存在も不気味だ。さらには思玲が復讐のために、すなわち力を純化するために子どもに戻ったのか半信半疑だろう。慎重になるに決まっている。しかも松本を殺せないから、この車を黒羽扇で破壊できない」
ドロシーがため息をつく。
「日本語は私だけ分からない」
嫌味たらしく広東語で口にする。もはや俺には通じる。
「あなた達、大丈夫ですか?」
運転席の奥さんから怪訝な声がして、ドロシーはさらに不快な顔になる。
「結界が飛んでいた」彼女はぼそりと心の声で言う。「すでにばればれだ」
青空だけが広がっていく。
***
十分ちょっとで到着した駐車場は満車だった。登山者も多いだろうけど、俺達は登山道を進むわけでない。会計係のシノからドロシーが預かった日本円の一部を、露泥無が渡そうとする(常識的な金額だ)。奥さんは受けとらない。
雨あがりの午後四時過ぎ。スマホをリュックサックの外ポケットにしまう。法董に裂かれた穴は仮縫いされている。空を見上げる。すがすがしいくらいだ。
「露泥無は、なんで私達を助けてくれるの?」横根が俺に聞く。
「俺を生かしておくため」
簡潔に答える。昔からの使命を完了させるために。サキトガがまた現れるために。そして沈大姐が登場して、横根の魂がすべて戻る……。
そんなにうまくいくはずがない。そもそも露泥無がいればサキトガは来ないかも。
思玲がトイレから戻ってきた。洗っていない手で、俺の手を握る。
「もう熱がひいた。癒しなど不要だったな」
俺の手のひらを自分の額に押し当てる。おそらくお寺でもらった解熱剤のおかげだ。
「おでこにされただけだが、ドロシーの唇は柔らかだったよな」
笑いかけやがる。
「俺は服にキスされただけ」
横根へ伝わるようにはっきりと答える。
*
ベンツは切りかえしに難儀しながら去っていく。
「ばればれだと気づいていないと、思ってくれたらいいけどな」
女の子に戻った露泥無がストレッチじみたことを始める。
「だけど竹林は賢い。峻計と麗豪は言わずもだ。でも僕と松本はさらに賢い。臨機応変に対処できる。なのに、三人ほど直情的なのがいる。おそらく、よくても乱戦になる」
そして誰か死ぬと言いたいのかよ。スマートな戦いなどしたことない。彼女達に触手が届かぬように願うだけだ。
「急ごう。上海はのんびりしすぎだ」
ドロシーが林に分け入る。道案内の露泥無が急いで先頭に立つ。横根と思玲もついていく。
俺は口にたまった血を吐きだして、リュックを背負う。竹林達がいるならば、まだ夏奈を呼べない。どんどん夏奈が遠ざかるように感じる。
もう少し頑張ればいいだけだ。口もとをぬぐい、みんなのあとを追う。秋のセミが鳴きだした。
「着信だ」
前を行く思玲が、踏み跡をたどりながら天珠を耳にあてる。
「何用だ……。ケビンか! 貴様の仕業でこんな目になったからな。……あの娘は天珠を使えない。告げたいことは私に言え。お前の感でも雑音だらけだ。琥珀に代われ」
ドロシーが立ちどまる。安堵と不安が織りまざった表情だ。思玲が喋りながら追い越す。
「天珠同士で位置確認できると、ケビンが言っているらしい」
思玲が琥珀に問う。
「そんな機能はつけない。片方を奪われたら筒抜けになる」
露泥無がへとへとの顔で立ちどまり、切り株に座る。すぐに思玲に譲る。
「ケビンは土壁に襲われた」
天珠を切った思玲が言う。
「いきなり現れたリクトが奴の手首を噛み砕いたおかげで助かったようだ。ケビンは若干火傷して毒も受けたらしいが、リクトの先導で琥珀達と合流できた。やはり槍を作ろうとしていたようだ。果たせなかったがな。――和戸が鳴いて誘導するそうだ。林の中ならノープロブレムらしい」
危険だけど、狭い部屋でも切りかえしができるドーンを信じるしかないか。それよりも、火焔嶽のおぞましい毒と炎。
奴はあとさき考えずに槍を振りまわした。いまの俺達は空にも水にも逃げられない。
でもケビンが生き延びたということは、傷を負った土壁は人の手のような槍を使えないのだろう。とりあえず恐怖をひとつ消しておこう。
思玲が立ちあがる。
「人が来たな」
こんな作業道に?
「……多いぞ。横根は連中に見えないから哲人を守れ。ドロシー、傀儡祓いの術を授ける。三十秒でマスターしろ」
深い林のなか、幼い思玲がいきなり七葉扇をひろげる。演武を始める。
峻計にはこれがあった。操った人間に俺達を無傷で捕らえさせる。
杉林の向こうに、赤色のアタックザックが見えた。最初の登山者が現れた。
次回「無心なハイカーたち」