八の一 子どもだけど純粋ではない
文字数 2,168文字
「君は逃げてきたの?」
カレーの匂いが漂う集落で、ドロシーが尋ねる。俺は妖怪になったからか、香ばしいスパイスを嗅いでも腹が減らない。
「どうだろう」
あいまいに答えておく。夕餉の匂いよりも、頬からの彼女の口紅の香りのが強烈で、しかもいい香りだ。気づかれぬようにこすって消そうと努力する。
「やめなよ。ちょっと強くキスしちゃったから取れない」
ドロシーは気づく。「守りの術もかけてあげたいけど、異形には無理だし、私のは重いし……。ペインティングみたいで、かわいいよ」
集落を抜ける。ドロシーはすぐに手をつなごうとして鬱陶しい。俺を見る目も鬱陶しい。人であった俺には、くだらなそうな目を向けるだけだったのに……。
トカゲや蛇をペットにする人もいるのだから、異形フェチの魔道士がいておかしくないかも。だとして、あのおばさん猫にはどういう態度をとるのだろう――。聞くべきことがあった。
「黒猫はあなた達の式神?」
フサフサが言うには、人でもある不吉な猫。
「私は君達を使役にしない。仲間の式神にもそんなのいない」
きっぱりと答えられるだけだった。
***
大峠のお天狗さんへの林道は記憶よりも荒れていた。夕暮れ近いカラスの声にびくっとするが、ただの鳥同士のあいさつだ。俺こそ異形だから分かるようだ。
振りかえると、俺がたどった道筋が紅色のラインでくっきりと残されていた。
「気配だよ」
ドロシーが俺の手をまた無理やり握り、引き寄せられる。紅色の口もとがこわばる。逆の手には、知らぬうちにタクト棒が握られていた。
「……察するに、式神ランクは四つ星以上でけだもの系。そんなのが、日本といえども里山にいるはずないよね。つまり王姐の式神。こんなランクの奴を……」
俺も感じとる。よく知っている気配だが、さらに凶悪になっている。気配は山へと遠ざかっていく。まだ野放しかよ。
ドロシーが息を深く吐く。俺の手をはなし、リュックをおろす。……あの箱を空高くまで飛ばした棒よりも、もっと強い道具をだそうとしている。リクトに怯えたためにだ。
「武器をだすな。スーリンちゃんはこどもだ! 手負いの獣も子犬だ!」
俺はカタカナで名を叫ぶ。
「よいことを聞いた」と、思玲ならほくそ笑むだろう。なぜか思う。
「子どもに戻り、術の力を純粋にしたというの?」
ドロシーは表情が消えるだけだった。
「だから電話にでずメッセージだけだったんだ。さらには資質ある子犬を異形とした……。妖術士などに堕ちてないよね。私は彼女を信じている」
勘ちがいが深まるだけだ。
させたままのがいいかもしれない。仮に出くわしても、いきなり痛めつけて拉致するはないだろう。話し合いから始めさせよう。
ドロシーは逡巡ののち、なにもださずにリュックを背負いなおす。
「へへ、あれは本来より軽くしてあるけど、そうは言っても邪魔。まだしまっておくね」
「台湾の道士ってどういう連中?」
話題は変えておこう。
「魔道士のことよね? 百歳を超える老人を長にした少数精鋭。人を異形に変える、許されざる一団。――その神社はもうすぐなの?」
林に囲まれているから闇の訪れがはやい。登り坂を早歩きするドロシーの息が荒い。俺は浮かんでいるから平気だ。
「台湾の魔道士は内紛をくり返した」彼女は話を続ける。
「王姐の言葉に偽りがなければ、かの慈悲なき劉昇が死んだらしい。狂鳥 の張麗豪の噂も聞かない。生き延びているのは、忌みすべき楊偉天と雲豹 の王思玲だけかな……。仔細は上層部でも分からないことが多いんだ。だから王姐をとらえる必要がある」
豹に例えられるとは、あの女の子はたいした魔道士だったのかも。……もっと情けない通り名があったような気もするけど、
「思玲と知り合いだったのか?」
思いだそうとすると頭が痛くなる。
「うん。ふたつの結界を操り、螺旋の光を放つ、おそるべき若き魔道士」
そう言って、ドロシーが逆の手に持つタクトを振るう。その先から人魂みたいに、ぼわっと光が灯る。これは、魔法使い映画にでてきた、なんとかの光だ。……あの光よりずっとでかい。どんどん大きくなっていく。俺達まで飲みこまれる――。
「咁都得 !」
ドロシーが異国の言葉を叫ぶ。あわててタクトを逆に振るう。光の勢いはみるみる小さくなり、線香の光ほどにか細くなる。
「大丈夫」
ゆっくりともう一度逆に振り、ランタンほどの光となる……。
思玲が言ったように、この女は術の加減ができないのかも。それに心の声もでかすぎだ。人の言葉を混ぜすぎで混乱するし。昨日みたいに怒鳴りつけられないだけ、まだましだけど。
しかし異形の目で見ても、かなりかわいいよな――。なにかの気配にぞわりとする。
「こ、これも大丈夫。ただの木霊だよ。私は嫌われるたちなんだ」
言葉と裏腹に、彼女の握る手が強まる。
「へへ、光のせいで怒らせちゃったね。この道から離れなければ大丈夫」
妖怪変化の俺を幼い弟のように扱っている。握る手も怯えだけじゃない。俺を守るためだとも気づく。……いつだかもっと強く握りしめられたことがあるような。にび色の雷が渦巻くのを見おろしながら……。
「もうすこし声を抑えてよ」
それだけ伝え、汗ばんだ手のひらを握りかえしてやる。木霊がなんだか知らないけど、そいつらはいまの俺を敵とは見ていない。
次回「悪の一味」
カレーの匂いが漂う集落で、ドロシーが尋ねる。俺は妖怪になったからか、香ばしいスパイスを嗅いでも腹が減らない。
「どうだろう」
あいまいに答えておく。夕餉の匂いよりも、頬からの彼女の口紅の香りのが強烈で、しかもいい香りだ。気づかれぬようにこすって消そうと努力する。
「やめなよ。ちょっと強くキスしちゃったから取れない」
ドロシーは気づく。「守りの術もかけてあげたいけど、異形には無理だし、私のは重いし……。ペインティングみたいで、かわいいよ」
集落を抜ける。ドロシーはすぐに手をつなごうとして鬱陶しい。俺を見る目も鬱陶しい。人であった俺には、くだらなそうな目を向けるだけだったのに……。
トカゲや蛇をペットにする人もいるのだから、異形フェチの魔道士がいておかしくないかも。だとして、あのおばさん猫にはどういう態度をとるのだろう――。聞くべきことがあった。
「黒猫はあなた達の式神?」
フサフサが言うには、人でもある不吉な猫。
「私は君達を使役にしない。仲間の式神にもそんなのいない」
きっぱりと答えられるだけだった。
***
大峠のお天狗さんへの林道は記憶よりも荒れていた。夕暮れ近いカラスの声にびくっとするが、ただの鳥同士のあいさつだ。俺こそ異形だから分かるようだ。
振りかえると、俺がたどった道筋が紅色のラインでくっきりと残されていた。
「気配だよ」
ドロシーが俺の手をまた無理やり握り、引き寄せられる。紅色の口もとがこわばる。逆の手には、知らぬうちにタクト棒が握られていた。
「……察するに、式神ランクは四つ星以上でけだもの系。そんなのが、日本といえども里山にいるはずないよね。つまり王姐の式神。こんなランクの奴を……」
俺も感じとる。よく知っている気配だが、さらに凶悪になっている。気配は山へと遠ざかっていく。まだ野放しかよ。
ドロシーが息を深く吐く。俺の手をはなし、リュックをおろす。……あの箱を空高くまで飛ばした棒よりも、もっと強い道具をだそうとしている。リクトに怯えたためにだ。
「武器をだすな。スーリンちゃんはこどもだ! 手負いの獣も子犬だ!」
俺はカタカナで名を叫ぶ。
「よいことを聞いた」と、思玲ならほくそ笑むだろう。なぜか思う。
「子どもに戻り、術の力を純粋にしたというの?」
ドロシーは表情が消えるだけだった。
「だから電話にでずメッセージだけだったんだ。さらには資質ある子犬を異形とした……。妖術士などに堕ちてないよね。私は彼女を信じている」
勘ちがいが深まるだけだ。
させたままのがいいかもしれない。仮に出くわしても、いきなり痛めつけて拉致するはないだろう。話し合いから始めさせよう。
ドロシーは逡巡ののち、なにもださずにリュックを背負いなおす。
「へへ、あれは本来より軽くしてあるけど、そうは言っても邪魔。まだしまっておくね」
「台湾の道士ってどういう連中?」
話題は変えておこう。
「魔道士のことよね? 百歳を超える老人を長にした少数精鋭。人を異形に変える、許されざる一団。――その神社はもうすぐなの?」
林に囲まれているから闇の訪れがはやい。登り坂を早歩きするドロシーの息が荒い。俺は浮かんでいるから平気だ。
「台湾の魔道士は内紛をくり返した」彼女は話を続ける。
「王姐の言葉に偽りがなければ、かの慈悲なき劉昇が死んだらしい。
豹に例えられるとは、あの女の子はたいした魔道士だったのかも。……もっと情けない通り名があったような気もするけど、
「思玲と知り合いだったのか?」
思いだそうとすると頭が痛くなる。
「うん。ふたつの結界を操り、螺旋の光を放つ、おそるべき若き魔道士」
そう言って、ドロシーが逆の手に持つタクトを振るう。その先から人魂みたいに、ぼわっと光が灯る。これは、魔法使い映画にでてきた、なんとかの光だ。……あの光よりずっとでかい。どんどん大きくなっていく。俺達まで飲みこまれる――。
「
ドロシーが異国の言葉を叫ぶ。あわててタクトを逆に振るう。光の勢いはみるみる小さくなり、線香の光ほどにか細くなる。
「大丈夫」
ゆっくりともう一度逆に振り、ランタンほどの光となる……。
思玲が言ったように、この女は術の加減ができないのかも。それに心の声もでかすぎだ。人の言葉を混ぜすぎで混乱するし。昨日みたいに怒鳴りつけられないだけ、まだましだけど。
しかし異形の目で見ても、かなりかわいいよな――。なにかの気配にぞわりとする。
「こ、これも大丈夫。ただの木霊だよ。私は嫌われるたちなんだ」
言葉と裏腹に、彼女の握る手が強まる。
「へへ、光のせいで怒らせちゃったね。この道から離れなければ大丈夫」
妖怪変化の俺を幼い弟のように扱っている。握る手も怯えだけじゃない。俺を守るためだとも気づく。……いつだかもっと強く握りしめられたことがあるような。にび色の雷が渦巻くのを見おろしながら……。
「もうすこし声を抑えてよ」
それだけ伝え、汗ばんだ手のひらを握りかえしてやる。木霊がなんだか知らないけど、そいつらはいまの俺を敵とは見ていない。
次回「悪の一味」