二十の二 楊偉天
文字数 2,853文字
羽音が結界の中にまで聞こえた。真上では、電車二両ほどもある巨大な蜂が透明な結界に毒針を突き立てていた。はじき返されもせずに。
その背から、濡れそぼった小柄な人間が浮かびあがる。俺達を囲む禍々しきドームに杖をおろす。闇空が黒水晶と化し、砕け散っていく。
溶けていく破片とともに、また雨が叩きつける。濁流も押しよせてきた。
俺は浮かびあがり、巨岩の上へと這いずり移動したフサフサのもとへ行く。
「流サレカケタ」
びしょ濡れの露泥無おばさんも岩へとよじ登ってくる。
「究極体ガ一番スバヤイカラネ」
おばさんは俺を抱えるようにして溶ける。完全なる闇と化して露泥無は俺の背にはりつく。
「土着の護符なき妖怪よ」
老人はまず俺に話しかけてきた。「じっとしていなさい」
脳天からの衝撃。……立ったままで体が動かなくなる。全身を押しつけられて苦しいのに、もだえることもできない。
風雨さえ避けていく。目だけが動く。フサフサも立ちすくんでいた。目だけを俺に向けている。
これは使い魔どもにしかけた、跳ねかえしを逆さにした奴。
「老師。お久しゅうございます。ご説明をさせていただければ――」
張麗豪は峻計を両手で抱きよせていた。
「峻計! 麗豪から離れろ」
宙に浮かぶ楊偉天が杖をかかげる。
「……我が主」
峻計が抱えられた手を振り払い、両手を斜め下にひろげる。麗豪はさらに強くあいつを抱きよせる。
老人はあきれたように、あいつらを見る。
「人が魔物と交わり、なおも忘れられぬとはな。お前を大陸に送った意味に気づけぬのか」
楊偉天が静かに杖をおろす。その下を巨大な蜂が足場のように羽ばたく。無数の蜂達は老人の上で傘のように群がり、豪雨に消えぬ羽音をうならせる。
すべてを見ているのに俺は動けない。声も発せられない。逆さに封じられた結界のなかで、苦痛だけが存在する。
「その件は、異形どもがおらぬ場所でお叱りください」
麗豪が対岸の岩に舞い、峻計をおろす。
「四神に関わるものが一堂にそろう好機ゆえ、京に向かわれた老祖師を待たずに儀式を始めようかと。すべては彼女の卓越した読みと感によるものですが」
老人へと弁解の目を向けている。俺はなにもできない。背中で露泥無である闇もかたまっている。あいつらのおぞましい寸劇を見せられるだけだ。
「鏡の導きだ」
楊偉天が巨大な蜂へと降りたつ。
「龍は富士の樹海で足どめさせた。北山の忘れられた社に鎮められた魔獣を使ってな。……あれは強い。龍はあきらめぬ限り延々と戦い続ける」
老人が暗雲を憎々しげに見あげる。
「北山? 京都の? あ、あれを蘇らせたとでも……」
麗豪が動けぬ俺達の前で言葉をつなごうとする。
「異形と交わうものに言われたくない」老人は話を続ける。「いまは三つだけ伝える。まずひとつ、その書を渡しなさい」
俺達など存在していないかのように。
「老師の言いつけだったとしても、私は身を削ぐ苦難の末に手にしました」
麗豪が両手をひろげる。
「死者の書は私に足りぬものをおぎないます。せめて今宵だけでも」
「あの書は誰にふさわしい?」
楊偉天が杖をかかげる。数百匹ほどの蜂達が、慈悲を求める男へと飛ぶ。
うつむく麗豪から渡された書を乗せて、蜂達は老人のもとへ戻る。
老人が死者の書と呼ばれたものを懐にしまう。
「ふたつめは儀式など今はできぬ。この座敷わらしの目を見て、儂の記憶は戻った」
老人が俺を見る。
「この若者は夏奈と呼ばれた青龍の娘と常にいた。さすがの儂でも、こいつに入りこんだかすかな龍の気配に気づけなかったようだ」
……夏奈を匿っていたおかげで、俺のなかのわずかな青い光はさらされなかったのか。俺こそが夏奈に匿われていた。
「分かるか? 今となってもだ!」
老人が誰とでもなく怒鳴る。
「龍に人の心が残っているのは、こいつのせいだ。この若者を殺せば龍は怒り狂う。……ゆえに、しかるべき場所と時間に神殺の結界の中で儀式を執りしきる。――流範と竹林はどうした? 蜂どもよ、聞いてやれ」
老人に従い、蜂達が峻計達を囲む。羽音が増す。巨大な蜂の針から毒汁が垂れる。浴びた下草が枯れて崩れる。俺は歯向かうことも逃げることもできない。
「……思玲を捜索させております。虚勢を張るあの穴熊は戻ってきたようです。流範に飛び蛇を渡しましたので、見つければ即座に伝令が来ます。……飛び蛇はもう一匹おります。そいつは有能で私に懐いてくれます。これだけ伝えればよろしいでしょうか」
峻計が老人をにらむ。
やはりすべてが筒抜けだった。…あいつの老人への憎しみも、隠しようもなく伝わる。
「あの娘など知ったことか。蛇など賢くても蛇だ。……速く力強い流範がここにいないのなら、お前達がこの若者を連れ歩け。まだ丁重にな。――貪よ」
老人が鏡を裏がえす。彫刻された魔物が息を吐きだす。身動きできぬまま、俺は峻計のもとへ転がる。
あいつが俺を無表情に見おろす。フサフサは毒を受けたままで蝋人形のように立っている。
「臥龍窟を逆さにして閉じこめたものを、どうやって運べと」
「三つめだ」老人が麗豪をさえぎる。
「儀式に猫などを使うな! 毒に冒された人間もどきを使うな! 麗豪よ、気位を保て。いまの貴様は、その猫が化した魔物ほどに下劣だ」
楊偉天が忌々しげにフサフサを見る。杖をかかげ、そしておろす。身動きできるようになったフサフサがよろめく。
ふんばって俺を見る。
「こんなのうんざりだ」
土砂降りに当たりながら、ひねくれた笑みを俺に向ける。
「本来ならば儀式など無用だった」楊偉天が杖をかかげる。「どこまでずれていく!」
楊偉天が杖をおろす。早く逃げろ! 俺は声にだせない。
朱色の光がフサフサのふさがりかけた傷に刺さる。
「……なんで私が?」
野良猫だった白人女性が崩れ落ちる。俺は溶けていく狼をおもいだす……。
そんなじゃない!
この野良猫は、俺が呼んで俺が助けを求めて、それへと無条件に救いの手をだしてくれただけだ。なのに。
楊偉天が杖をおろす。俺にしがみつく結界が割れる。
「箱は返してもらう」
老人は鏡に話しかける。
「貪よ。すべてを連れてきなさい」
風が俺を吸いこもうとする。俺は地面に足をおろす。大地に命じる。微動だにするものか。
「フサフサを救え」俺は露泥無に命じる。
「む、無理だよ」
背中の闇は俺にしがみついている。
「貫通していない。つまり術は体にとどまっている。だから内側から溶けだす。こんなことを見るためにお目付け役……」
完全なる闇はフサフサから目を背けている。いまの俺には分かる。弱虫め。
「だったら耐えろ」俺はフサフサへと命じる。
陽炎につつまれた屋上でのエンディングシーンのように、老人が起こした風が強まる。
俺は彫刻と化している鏡の魔物をにらむ。ゲヒヒ。風が挑むようにやむ。
「夏奈、すぐに来い」
ここにいない龍にも命じる。
「救うためじゃない。救わせるためだ」
雷がうるさい。砂粒ほどの力がうごめいている。
次回「座敷わらし対異端の魔道士」
その背から、濡れそぼった小柄な人間が浮かびあがる。俺達を囲む禍々しきドームに杖をおろす。闇空が黒水晶と化し、砕け散っていく。
溶けていく破片とともに、また雨が叩きつける。濁流も押しよせてきた。
俺は浮かびあがり、巨岩の上へと這いずり移動したフサフサのもとへ行く。
「流サレカケタ」
びしょ濡れの露泥無おばさんも岩へとよじ登ってくる。
「究極体ガ一番スバヤイカラネ」
おばさんは俺を抱えるようにして溶ける。完全なる闇と化して露泥無は俺の背にはりつく。
「土着の護符なき妖怪よ」
老人はまず俺に話しかけてきた。「じっとしていなさい」
脳天からの衝撃。……立ったままで体が動かなくなる。全身を押しつけられて苦しいのに、もだえることもできない。
風雨さえ避けていく。目だけが動く。フサフサも立ちすくんでいた。目だけを俺に向けている。
これは使い魔どもにしかけた、跳ねかえしを逆さにした奴。
「老師。お久しゅうございます。ご説明をさせていただければ――」
張麗豪は峻計を両手で抱きよせていた。
「峻計! 麗豪から離れろ」
宙に浮かぶ楊偉天が杖をかかげる。
「……我が主」
峻計が抱えられた手を振り払い、両手を斜め下にひろげる。麗豪はさらに強くあいつを抱きよせる。
老人はあきれたように、あいつらを見る。
「人が魔物と交わり、なおも忘れられぬとはな。お前を大陸に送った意味に気づけぬのか」
楊偉天が静かに杖をおろす。その下を巨大な蜂が足場のように羽ばたく。無数の蜂達は老人の上で傘のように群がり、豪雨に消えぬ羽音をうならせる。
すべてを見ているのに俺は動けない。声も発せられない。逆さに封じられた結界のなかで、苦痛だけが存在する。
「その件は、異形どもがおらぬ場所でお叱りください」
麗豪が対岸の岩に舞い、峻計をおろす。
「四神に関わるものが一堂にそろう好機ゆえ、京に向かわれた老祖師を待たずに儀式を始めようかと。すべては彼女の卓越した読みと感によるものですが」
老人へと弁解の目を向けている。俺はなにもできない。背中で露泥無である闇もかたまっている。あいつらのおぞましい寸劇を見せられるだけだ。
「鏡の導きだ」
楊偉天が巨大な蜂へと降りたつ。
「龍は富士の樹海で足どめさせた。北山の忘れられた社に鎮められた魔獣を使ってな。……あれは強い。龍はあきらめぬ限り延々と戦い続ける」
老人が暗雲を憎々しげに見あげる。
「北山? 京都の? あ、あれを蘇らせたとでも……」
麗豪が動けぬ俺達の前で言葉をつなごうとする。
「異形と交わうものに言われたくない」老人は話を続ける。「いまは三つだけ伝える。まずひとつ、その書を渡しなさい」
俺達など存在していないかのように。
「老師の言いつけだったとしても、私は身を削ぐ苦難の末に手にしました」
麗豪が両手をひろげる。
「死者の書は私に足りぬものをおぎないます。せめて今宵だけでも」
「あの書は誰にふさわしい?」
楊偉天が杖をかかげる。数百匹ほどの蜂達が、慈悲を求める男へと飛ぶ。
うつむく麗豪から渡された書を乗せて、蜂達は老人のもとへ戻る。
老人が死者の書と呼ばれたものを懐にしまう。
「ふたつめは儀式など今はできぬ。この座敷わらしの目を見て、儂の記憶は戻った」
老人が俺を見る。
「この若者は夏奈と呼ばれた青龍の娘と常にいた。さすがの儂でも、こいつに入りこんだかすかな龍の気配に気づけなかったようだ」
……夏奈を匿っていたおかげで、俺のなかのわずかな青い光はさらされなかったのか。俺こそが夏奈に匿われていた。
「分かるか? 今となってもだ!」
老人が誰とでもなく怒鳴る。
「龍に人の心が残っているのは、こいつのせいだ。この若者を殺せば龍は怒り狂う。……ゆえに、しかるべき場所と時間に神殺の結界の中で儀式を執りしきる。――流範と竹林はどうした? 蜂どもよ、聞いてやれ」
老人に従い、蜂達が峻計達を囲む。羽音が増す。巨大な蜂の針から毒汁が垂れる。浴びた下草が枯れて崩れる。俺は歯向かうことも逃げることもできない。
「……思玲を捜索させております。虚勢を張るあの穴熊は戻ってきたようです。流範に飛び蛇を渡しましたので、見つければ即座に伝令が来ます。……飛び蛇はもう一匹おります。そいつは有能で私に懐いてくれます。これだけ伝えればよろしいでしょうか」
峻計が老人をにらむ。
やはりすべてが筒抜けだった。…あいつの老人への憎しみも、隠しようもなく伝わる。
「あの娘など知ったことか。蛇など賢くても蛇だ。……速く力強い流範がここにいないのなら、お前達がこの若者を連れ歩け。まだ丁重にな。――貪よ」
老人が鏡を裏がえす。彫刻された魔物が息を吐きだす。身動きできぬまま、俺は峻計のもとへ転がる。
あいつが俺を無表情に見おろす。フサフサは毒を受けたままで蝋人形のように立っている。
「臥龍窟を逆さにして閉じこめたものを、どうやって運べと」
「三つめだ」老人が麗豪をさえぎる。
「儀式に猫などを使うな! 毒に冒された人間もどきを使うな! 麗豪よ、気位を保て。いまの貴様は、その猫が化した魔物ほどに下劣だ」
楊偉天が忌々しげにフサフサを見る。杖をかかげ、そしておろす。身動きできるようになったフサフサがよろめく。
ふんばって俺を見る。
「こんなのうんざりだ」
土砂降りに当たりながら、ひねくれた笑みを俺に向ける。
「本来ならば儀式など無用だった」楊偉天が杖をかかげる。「どこまでずれていく!」
楊偉天が杖をおろす。早く逃げろ! 俺は声にだせない。
朱色の光がフサフサのふさがりかけた傷に刺さる。
「……なんで私が?」
野良猫だった白人女性が崩れ落ちる。俺は溶けていく狼をおもいだす……。
そんなじゃない!
この野良猫は、俺が呼んで俺が助けを求めて、それへと無条件に救いの手をだしてくれただけだ。なのに。
楊偉天が杖をおろす。俺にしがみつく結界が割れる。
「箱は返してもらう」
老人は鏡に話しかける。
「貪よ。すべてを連れてきなさい」
風が俺を吸いこもうとする。俺は地面に足をおろす。大地に命じる。微動だにするものか。
「フサフサを救え」俺は露泥無に命じる。
「む、無理だよ」
背中の闇は俺にしがみついている。
「貫通していない。つまり術は体にとどまっている。だから内側から溶けだす。こんなことを見るためにお目付け役……」
完全なる闇はフサフサから目を背けている。いまの俺には分かる。弱虫め。
「だったら耐えろ」俺はフサフサへと命じる。
陽炎につつまれた屋上でのエンディングシーンのように、老人が起こした風が強まる。
俺は彫刻と化している鏡の魔物をにらむ。ゲヒヒ。風が挑むようにやむ。
「夏奈、すぐに来い」
ここにいない龍にも命じる。
「救うためじゃない。救わせるためだ」
雷がうるさい。砂粒ほどの力がうごめいている。
次回「座敷わらし対異端の魔道士」