はるか南の序夜
文字数 1,837文字
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穢 れた雪みたいだ。
「これは、じっとりとした夜に降る黒い雪だ」
王思玲 は心でつぶやき、頬の黒羽根をはらう。「私どもにお似合いだ」
室外機の熱風を受けて、無数の鴉の羽根が乱舞する。雑居ビルの屋上までネオンの光は届かない。
今回の四玉の餌食は日本の女子学生か。その友人達が巻き添えになり、四神くずれと化して狩られる。
ただ東京に向かえ。北国だろうが真夏に雪を見られるはずなくても。見るのは黒い血だけだろうと……って、焰暁 め特攻するな。勝てるはずないだろ。見送りたくない――。
屋上が邪を制す光に照らされた。
劉 師傅の剣が大鴉に突き刺さる。異界の炎がかすんでいく。
「使いの鴉は?」
師傅は溶けゆく炎暁を見つめたまま思玲に問う。
「もちろん残存しておりません。竹林 は空に逃れたようです」
あなたが端から抹殺したおかげで、ここには忌むべき力を持つ二人だけです。
「一羽では非力だな」
劉師傅が彼女に顔を向ける。私にすら畏怖を与える眼差し。
「剣技のみで焰暁を仕留めるとは、あの老人は思いもしなかったでしょう」
媚びた物言いになってしまう。「しかし式神だけを送りこむとは……」
臆病な老人と言葉にしたい。
「老師が私を恐れていると言いたいのか?」
師傅は剣先をおろし、まだ息が残る使いの鴉にとどめを刺す。
「今の世に人智を超えたものはほぼ絶えた。人の知が奴らを追い越した。だが老師の智はなおも我々を超越する」
その足もとで、生身の存在に戻りかけた鴉は羽根を残し消える。……もう充分だろと口にしたい。
「奴の奸智はあなたの力に及びません。たとえ龍をこの世に現そうとも」
望み通りの言葉だろ?
「あの老人は今も昔もこの劉昇 など目にない。そもそも四神にすら興じていない。邪念の先は、あの大陸のみ」
師傅が剣で西の方角を示す。その刃さきを飲みこむように、また異形が刺さっていた。
「奴が欲するのは、東の守護を転じて西の攻めに強いること。この島から大陸へ戻る妄念を、その身が潰える前に叶えること。……静かなる竹林よ。楊 老師のあわれな下僕。貴様も焔暁とともに安らぐがいい」
劉師傅が剣をはらう。竹林と呼ばれた大鴉が裂けて落ちる。手先だった鴉達の羽根の中で、骸は溶けて消える。追いやられていた魂が浮かびあがる……。
畏敬すべき男への、つつましい怒りなど吹っ飛ぶ。
「竹林よ。幼き女児であったか」
師傅が中空を抱きしめる。
この方でさえ感情を抑えきれない。思玲も扇を握りしめる。
ただの人には見えぬものが消えるまま、師傅は両手で自分を抱える姿勢となる。寄せていた顔が落ちる。
すぐに立ちあがり、顔を向けてくる。
「大鴉は残り二羽。おぞましき峻計 はおのれのもとを離れさせぬが、速き流範 はすでに北へ飛ばしただろう。お前は奴を抜き去らねばならない」
その一言を待っていた。思玲は強くうなずく。このまま向かってやる。
「思玲、冷静にな。手駒をふたつも差し向けるとは、言伝は真実に違いない。明の時代以来の大物となるかもな。私が老師を屈服させるまでは耐えてくれ」
師傅が剣を緋色の布にくるみながら言う。
「傀儡 祓いはものにできたか?」
師傅は術の教示を意図的に晒した。おびき寄せられて、業をまとわされた奴の配下だけが消えた。
楊偉天 め。齢 百を超えて貴様だけがなぜ生きている。
「生身の者にかける術ゆえ問題ございません」
ぶっつけ本番になろうが、かまうものか。青龍の資質ある娘の名は桜井 夏奈 。そいつの目を覚まさせ、他の連中もろとも守るだけだ。楊偉天からだけでなく。
サイレンが聞こえる。台北 の夜の喧騒を次に聞くのはいつになるだろう。
「ならば行ってくれ。邪魔だてする異形の殺生を許す」
劉師傅は非常階段へと向かう。
魅入られた報いさえ受けろと言われるのか。
知ったことじゃない。別れの抱擁もいらない。私はマイベストを尽くすだけだ。あいつが日本に向かわぬように願うだけだ。
それこそ楊偉天も。
私は連中より豆苗ほどに弱い。羽根を踏みながら師傅のあとを追う。二人が去った屋上では、熱風にあおられた黒羽根がいつまでも踊り続けた。
***
その頃、松本哲人 なんて名の変哲でもない俺は、「灰皿を復活させろ」としつこい爺さんに延々と対応していた。コンビニはやめて法律事務所のバイトを探そうと決意しながら。桜井はもう日本に到着したかな、とか思いながら。
明日の午後には人でなくなるなんて思いもしないで。
次回「フォーチュンな生け贄達」
本編スタート
「これは、じっとりとした夜に降る黒い雪だ」
室外機の熱風を受けて、無数の鴉の羽根が乱舞する。雑居ビルの屋上までネオンの光は届かない。
今回の四玉の餌食は日本の女子学生か。その友人達が巻き添えになり、四神くずれと化して狩られる。
ただ東京に向かえ。北国だろうが真夏に雪を見られるはずなくても。見るのは黒い血だけだろうと……って、
屋上が邪を制す光に照らされた。
「使いの鴉は?」
師傅は溶けゆく炎暁を見つめたまま思玲に問う。
「もちろん残存しておりません。
あなたが端から抹殺したおかげで、ここには忌むべき力を持つ二人だけです。
「一羽では非力だな」
劉師傅が彼女に顔を向ける。私にすら畏怖を与える眼差し。
「剣技のみで焰暁を仕留めるとは、あの老人は思いもしなかったでしょう」
媚びた物言いになってしまう。「しかし式神だけを送りこむとは……」
臆病な老人と言葉にしたい。
「老師が私を恐れていると言いたいのか?」
師傅は剣先をおろし、まだ息が残る使いの鴉にとどめを刺す。
「今の世に人智を超えたものはほぼ絶えた。人の知が奴らを追い越した。だが老師の智はなおも我々を超越する」
その足もとで、生身の存在に戻りかけた鴉は羽根を残し消える。……もう充分だろと口にしたい。
「奴の奸智はあなたの力に及びません。たとえ龍をこの世に現そうとも」
望み通りの言葉だろ?
「あの老人は今も昔もこの
師傅が剣で西の方角を示す。その刃さきを飲みこむように、また異形が刺さっていた。
「奴が欲するのは、東の守護を転じて西の攻めに強いること。この島から大陸へ戻る妄念を、その身が潰える前に叶えること。……静かなる竹林よ。
劉師傅が剣をはらう。竹林と呼ばれた大鴉が裂けて落ちる。手先だった鴉達の羽根の中で、骸は溶けて消える。追いやられていた魂が浮かびあがる……。
畏敬すべき男への、つつましい怒りなど吹っ飛ぶ。
「竹林よ。幼き女児であったか」
師傅が中空を抱きしめる。
この方でさえ感情を抑えきれない。思玲も扇を握りしめる。
ただの人には見えぬものが消えるまま、師傅は両手で自分を抱える姿勢となる。寄せていた顔が落ちる。
すぐに立ちあがり、顔を向けてくる。
「大鴉は残り二羽。おぞましき
その一言を待っていた。思玲は強くうなずく。このまま向かってやる。
「思玲、冷静にな。手駒をふたつも差し向けるとは、言伝は真実に違いない。明の時代以来の大物となるかもな。私が老師を屈服させるまでは耐えてくれ」
師傅が剣を緋色の布にくるみながら言う。
「
師傅は術の教示を意図的に晒した。おびき寄せられて、業をまとわされた奴の配下だけが消えた。
「生身の者にかける術ゆえ問題ございません」
ぶっつけ本番になろうが、かまうものか。青龍の資質ある娘の名は
サイレンが聞こえる。
「ならば行ってくれ。邪魔だてする異形の殺生を許す」
劉師傅は非常階段へと向かう。
魅入られた報いさえ受けろと言われるのか。
知ったことじゃない。別れの抱擁もいらない。私はマイベストを尽くすだけだ。あいつが日本に向かわぬように願うだけだ。
それこそ楊偉天も。
私は連中より豆苗ほどに弱い。羽根を踏みながら師傅のあとを追う。二人が去った屋上では、熱風にあおられた黒羽根がいつまでも踊り続けた。
***
その頃、
明日の午後には人でなくなるなんて思いもしないで。
次回「フォーチュンな生け贄達」
本編スタート