五の二 大水青さえ素通りする
文字数 3,573文字
死にかけたというか消えかけたというのに、たしかに体が回復してると感じる。じきに暮れかかりそうで心も落ち着く。
小走りのスーツ姿のおじさんと瞬間目があう。浮かんでいる俺のあたりを二度見する。忙しそうに去っていった。あれが霊感かと、異形になってはじめて知る。
レジ袋をぶら下げた思玲が店からでてくる。
「日本は太陽の沈みを早く感じるぞ。人の明かりに哲人が悶絶する前に、急ぎ戻るとするか」
そうしてもらいたいけど。
「そこで弁当とか売っていますよ」
教えておかないと。昨日から食べてないと、聞こえよがしに言っていた。
「コンビニくらい知っている。あいつらに言った話は方便だ。私は鍛錬しているゆえ、五日ぐらいは水だけで過ごせる」
颯爽と歩きだしやがる。お前はどうでもいいけど、人のときから燃費の悪い川田にジャンボフランクぐらい買ってやりたかった。
*
帰り道の思玲は黙りこむ。質問をぶつける雰囲気でなくなる。
「桜井は大丈夫ですか?」それでも聞いてしまう。
「私など、むしり残しの日かげのドクダミだ。なにも分からぬ。師傅を待て」
道を曲がる車のライトに照らされる。しびれるほどにまぶしくて、体ごとそらす。なんでこんな身になったんだ。はやく暗い場所にひそみたい。
俺の身より桜井だ。
「カラス達に捕まっていないですよね」
「玉がこちらにあるかぎり青龍にはならぬ」
捕らえられた可能性もあるのか。
「この箱を探しているかも。おもてにだしたほうが」
思玲がいきなり振り返る。
「さきほどの大鴉によほど会いたいようだな」
にらみつけられ、
「風よりも速い奴がまっさきに飛んでくる。奴はいわゆる幹部だ。自分らの心配だけしていろ」
また歩きだす。
「それを言うなら、ドーン達こそ大丈夫ですか?」俺はふわふわと尋ねる。
「そいつは誰だ?」思玲はずんずんと歩きつづける。
「和戸のことです。カラスの」
「イングリッシュネームか? 和戸もこじゃれているな。……なるほど。お前は私の結界が心配なのか。たわけが」
これだけ心へダイレクトにののしられると、中国語の悪態の達人になれそうだ。
「そうは言っても、誰かがぶつかったら大騒ぎじゃないですか?」
「お前は人とすれ違うだけだろ。結界もおなじ理屈だ。こっちの世界とは重ならない」
俺もむっとして会話がとだえる。
夕暮れのなか、背高くきれいな彼女への道行く人の視線を感じる。背後に浮かぶ俺は見向きもされない。そんなの半日前まで当たり前だったのに、今はもどかしい。
桜井はどこにいるのか、それを心底知りたい。あそこにいた仲間五人でそろいたい。
「高校の修学旅行で台湾に行っています」
気がふさがりそうだから話題をふる。
「京劇とか故宮博物院とか見ました。……翡翠の白菜、思ったより小さかったな。お婆ちゃんが作る白菜は五倍以上あった」
言ってから、母の実家の山間の集落を、あまやかし放題だった祖母を思いだしてしまう(俺は母方の初孫だった)。
もう一年もご無沙汰している。人間に戻ったらまっさきに顔をださないと。お婆ちゃんの墓参りをしよう。
「哲人は田舎の出身か? 私は都会育ちだ。山奥は嫌いだ」
ずけずけとした物言いが感傷を打ち消してくれる。俺はため息をつき、この世界へと意識を戻す。
*
街に浮かぶ空が暮れなずむ。幸いにも街灯の明かり程度では気にならない。川田のアパートへの分かれ道を過ぎる。
沈黙が続くと不安になる。
「日本は何回目ですか?」
「東京は初めてだ。パスポートを忘れて苦労した」
「……飛行機で来たのですよね」
「当然だろ。魔道士なら泳いで来いとでもいうのか」
密航かよ。どうやれば入出国のセキュリティを突破できるのだ。
「今日はどこかに泊まるのですか?」
「お前達と一緒に外で寝る。着替えもさきほど買った。三日ぐらいは寝ずに済む鍛練も受けている」
そっけない返答に疲れてくる。
思玲が校門前で立ちどまる。夜の信号は光が一直線でつらい。逃れるために彼女の背中まで降りる。鍛えていようがか細い女性の背だ。師傅が来るまでは、ここにすべてを背負い続けるのか。
「俺が見えるのも鍛錬のたまものですか?」
そんなことしか口にだせない。
「持って生まれた資質だ。それくらい気づけ」
思玲しか知らないのだから、魔道士なら誰でも妖怪と話せると思うだろ。間をおいて、彼女は話を続ける。
「魔道士を名乗る以上は、異形が見えて言葉を交わせる。それぐらいがよいだろう。私など子供の頃は怯えてばかり。娘になってからは、嫌なものがさらに集まりだした。近所の者さえ感づくほどにな。見兼ねたというか見捨てた親が魔道士などに預けたおかげで、禍々しい力を利に変えることができた」
「それが劉師傅なのですね」
「いや。楊偉天だ」
信号が変わり、思玲が歩きだす。
「奴は親身だった。しかし、おのれの好奇ゆえにだ。楊偉天に救われたなどと思わぬし、奴の所業に目をつぶることはできぬ」
俺も横断歩道を渡る。ふいに体が震える。
彼女達の台湾での清算が、日本でおぞましく果たされる
……変な勘が働きやがって。妖怪になんてなるものじゃない。
*
大学校舎は明かりも少ない。正門脇の通用口だけが開いている。思玲が立ちどまる。
「気が散るから、お前はそこで待っていろ」
あらためて歩きだす。パスポートなしで国際便に乗れる彼女なら容易に入れるだろう。
思玲は二言三言守衛と言葉を交わしたのち、愛想笑いで頭をさげて戻ってくる。俺にむすっとした顔を向ける。
「生意気な奴らにチェンジしていた。どうやら、もう入れてもらえないらしい。私は日本語を話せないから方便も使えないしな」
引きさがったというのか? 彼女は信号まで戻っていく。
「ちょっと待ってよ。術を使えばいいだろ」
彼女は振り向くなり、俺をにらみあげる。
「生身のものに術をかけろというのか? 貴様は妖術士か。恥を知れ」
「空港でも使ったのではないですか? そうじゃないと」
「人になどかけぬ。お前にしたのが特例だ」
思玲はまた歩きだす。交差点は赤だから立ちどまる。俺はヘッドライトから目を伏せて、彼女の前にまわりこむ。光を背中に浴びるだけでも不快だ。
「ふざけんなよ! 川田達が待っているだろ! すぐに行くぞ!」
俺の勢いに、彼女は顔をそらす。
「ならば別の入り口を探ろう」
青に変わった横断歩道を渡らず、大学沿いの脇道に進む。
三人のもとへと俺だけでも向かいたいが、仕方なく彼女のあとを追う。俺一人じゃなにもできない。
夜に見る大学は塀に囲まれ威圧感さえある。数人とすれ違うが、思玲は塀に沿って黙々と歩くだけだ。どこまで歩き続けるつもりだ。
また前から人が来る。いや、人ではない。俺と同類でもない。
「目をあわすな」思玲がつぶやく。
その寝間着姿の男性は下を向いて歩いているから、目を合わせようもない。それでもそっぽを向いてすれ違う。
「死んで間もないな」
まばらな街灯の下で思玲が言う。
「ここに思い出があるのだろ。じきに消え去るだろうが、私達みたいなものに関わるとそうはいかなくなる。もうしばらくは振り向くな」
こんな世界、完全にアウトだ。
俺は高く浮かびあがる。
「どうした?」
思玲の声が追いかけてくる。
「あいつらのところに今すぐ行く。みんなで桜井を見つけて、五人で帰る」
夜になるなり幽霊がさまよう世界。こんなところにいられるか。
「護符を使う気か? たしかにそれは激甚だが、結界を外から崩すなど本旨ではない。戻ってこい」
こいつの御託もうんざりだ。塀を越えて、大学に降りたつ。
敷地内でも裏側だから、明かりは非常口の常夜灯ぐらいだ。大きなケヤキが枝の影をひろげている。闇が落ち着く自分に腹がたつ。
背後でどさりと音がする。振り返ると、思玲が横たわっていた。……背後の塀に大きな穴が開いている。外の道が覗ける。穴はみるみる小さくなる。
思玲は胸を上下させて、息をするのもつらそうだ。俺は彼女に寄っていく。
「かまう、な」
思玲は立ちあがろうとして、地べたにしゃがみこむ。
「結界の、応用で、穴を開けた。自然の、摂理に、反した術は、身を削る」
荒い息で言う。壁の穴はもう消えている。たしかにあり得ない術だ。やはり俺達などたちゆかぬ世界だ。
思玲がまたコンクリートにあおむけに寝ころぶ。扇を握ったままの手を顔に乗せ、
「知ってもらいたいことがある。……伝えることから逃れられぬ」
俺は暗闇に横たわる彼女まで降りる。交差点あたりからクラクションが鳴り響く。思玲は眼鏡をずらし、顔の汗を手でぬぐう。地面に手をつき座りなおす。俺にぶつかりかけた大きな青白い蛾がふわりと通り過ぎる。
「私は告げるべきことを隠していた」
思玲は蛾を目で追いながら言う。
「じきにあいつらから、人としての心はなくなる」
次回「インプット」
小走りのスーツ姿のおじさんと瞬間目があう。浮かんでいる俺のあたりを二度見する。忙しそうに去っていった。あれが霊感かと、異形になってはじめて知る。
レジ袋をぶら下げた思玲が店からでてくる。
「日本は太陽の沈みを早く感じるぞ。人の明かりに哲人が悶絶する前に、急ぎ戻るとするか」
そうしてもらいたいけど。
「そこで弁当とか売っていますよ」
教えておかないと。昨日から食べてないと、聞こえよがしに言っていた。
「コンビニくらい知っている。あいつらに言った話は方便だ。私は鍛錬しているゆえ、五日ぐらいは水だけで過ごせる」
颯爽と歩きだしやがる。お前はどうでもいいけど、人のときから燃費の悪い川田にジャンボフランクぐらい買ってやりたかった。
*
帰り道の思玲は黙りこむ。質問をぶつける雰囲気でなくなる。
「桜井は大丈夫ですか?」それでも聞いてしまう。
「私など、むしり残しの日かげのドクダミだ。なにも分からぬ。師傅を待て」
道を曲がる車のライトに照らされる。しびれるほどにまぶしくて、体ごとそらす。なんでこんな身になったんだ。はやく暗い場所にひそみたい。
俺の身より桜井だ。
「カラス達に捕まっていないですよね」
「玉がこちらにあるかぎり青龍にはならぬ」
捕らえられた可能性もあるのか。
「この箱を探しているかも。おもてにだしたほうが」
思玲がいきなり振り返る。
「さきほどの大鴉によほど会いたいようだな」
にらみつけられ、
「風よりも速い奴がまっさきに飛んでくる。奴はいわゆる幹部だ。自分らの心配だけしていろ」
また歩きだす。
「それを言うなら、ドーン達こそ大丈夫ですか?」俺はふわふわと尋ねる。
「そいつは誰だ?」思玲はずんずんと歩きつづける。
「和戸のことです。カラスの」
「イングリッシュネームか? 和戸もこじゃれているな。……なるほど。お前は私の結界が心配なのか。たわけが」
これだけ心へダイレクトにののしられると、中国語の悪態の達人になれそうだ。
「そうは言っても、誰かがぶつかったら大騒ぎじゃないですか?」
「お前は人とすれ違うだけだろ。結界もおなじ理屈だ。こっちの世界とは重ならない」
俺もむっとして会話がとだえる。
夕暮れのなか、背高くきれいな彼女への道行く人の視線を感じる。背後に浮かぶ俺は見向きもされない。そんなの半日前まで当たり前だったのに、今はもどかしい。
桜井はどこにいるのか、それを心底知りたい。あそこにいた仲間五人でそろいたい。
「高校の修学旅行で台湾に行っています」
気がふさがりそうだから話題をふる。
「京劇とか故宮博物院とか見ました。……翡翠の白菜、思ったより小さかったな。お婆ちゃんが作る白菜は五倍以上あった」
言ってから、母の実家の山間の集落を、あまやかし放題だった祖母を思いだしてしまう(俺は母方の初孫だった)。
もう一年もご無沙汰している。人間に戻ったらまっさきに顔をださないと。お婆ちゃんの墓参りをしよう。
「哲人は田舎の出身か? 私は都会育ちだ。山奥は嫌いだ」
ずけずけとした物言いが感傷を打ち消してくれる。俺はため息をつき、この世界へと意識を戻す。
*
街に浮かぶ空が暮れなずむ。幸いにも街灯の明かり程度では気にならない。川田のアパートへの分かれ道を過ぎる。
沈黙が続くと不安になる。
「日本は何回目ですか?」
「東京は初めてだ。パスポートを忘れて苦労した」
「……飛行機で来たのですよね」
「当然だろ。魔道士なら泳いで来いとでもいうのか」
密航かよ。どうやれば入出国のセキュリティを突破できるのだ。
「今日はどこかに泊まるのですか?」
「お前達と一緒に外で寝る。着替えもさきほど買った。三日ぐらいは寝ずに済む鍛練も受けている」
そっけない返答に疲れてくる。
思玲が校門前で立ちどまる。夜の信号は光が一直線でつらい。逃れるために彼女の背中まで降りる。鍛えていようがか細い女性の背だ。師傅が来るまでは、ここにすべてを背負い続けるのか。
「俺が見えるのも鍛錬のたまものですか?」
そんなことしか口にだせない。
「持って生まれた資質だ。それくらい気づけ」
思玲しか知らないのだから、魔道士なら誰でも妖怪と話せると思うだろ。間をおいて、彼女は話を続ける。
「魔道士を名乗る以上は、異形が見えて言葉を交わせる。それぐらいがよいだろう。私など子供の頃は怯えてばかり。娘になってからは、嫌なものがさらに集まりだした。近所の者さえ感づくほどにな。見兼ねたというか見捨てた親が魔道士などに預けたおかげで、禍々しい力を利に変えることができた」
「それが劉師傅なのですね」
「いや。楊偉天だ」
信号が変わり、思玲が歩きだす。
「奴は親身だった。しかし、おのれの好奇ゆえにだ。楊偉天に救われたなどと思わぬし、奴の所業に目をつぶることはできぬ」
俺も横断歩道を渡る。ふいに体が震える。
彼女達の台湾での清算が、日本でおぞましく果たされる
……変な勘が働きやがって。妖怪になんてなるものじゃない。
*
大学校舎は明かりも少ない。正門脇の通用口だけが開いている。思玲が立ちどまる。
「気が散るから、お前はそこで待っていろ」
あらためて歩きだす。パスポートなしで国際便に乗れる彼女なら容易に入れるだろう。
思玲は二言三言守衛と言葉を交わしたのち、愛想笑いで頭をさげて戻ってくる。俺にむすっとした顔を向ける。
「生意気な奴らにチェンジしていた。どうやら、もう入れてもらえないらしい。私は日本語を話せないから方便も使えないしな」
引きさがったというのか? 彼女は信号まで戻っていく。
「ちょっと待ってよ。術を使えばいいだろ」
彼女は振り向くなり、俺をにらみあげる。
「生身のものに術をかけろというのか? 貴様は妖術士か。恥を知れ」
「空港でも使ったのではないですか? そうじゃないと」
「人になどかけぬ。お前にしたのが特例だ」
思玲はまた歩きだす。交差点は赤だから立ちどまる。俺はヘッドライトから目を伏せて、彼女の前にまわりこむ。光を背中に浴びるだけでも不快だ。
「ふざけんなよ! 川田達が待っているだろ! すぐに行くぞ!」
俺の勢いに、彼女は顔をそらす。
「ならば別の入り口を探ろう」
青に変わった横断歩道を渡らず、大学沿いの脇道に進む。
三人のもとへと俺だけでも向かいたいが、仕方なく彼女のあとを追う。俺一人じゃなにもできない。
夜に見る大学は塀に囲まれ威圧感さえある。数人とすれ違うが、思玲は塀に沿って黙々と歩くだけだ。どこまで歩き続けるつもりだ。
また前から人が来る。いや、人ではない。俺と同類でもない。
「目をあわすな」思玲がつぶやく。
その寝間着姿の男性は下を向いて歩いているから、目を合わせようもない。それでもそっぽを向いてすれ違う。
「死んで間もないな」
まばらな街灯の下で思玲が言う。
「ここに思い出があるのだろ。じきに消え去るだろうが、私達みたいなものに関わるとそうはいかなくなる。もうしばらくは振り向くな」
こんな世界、完全にアウトだ。
俺は高く浮かびあがる。
「どうした?」
思玲の声が追いかけてくる。
「あいつらのところに今すぐ行く。みんなで桜井を見つけて、五人で帰る」
夜になるなり幽霊がさまよう世界。こんなところにいられるか。
「護符を使う気か? たしかにそれは激甚だが、結界を外から崩すなど本旨ではない。戻ってこい」
こいつの御託もうんざりだ。塀を越えて、大学に降りたつ。
敷地内でも裏側だから、明かりは非常口の常夜灯ぐらいだ。大きなケヤキが枝の影をひろげている。闇が落ち着く自分に腹がたつ。
背後でどさりと音がする。振り返ると、思玲が横たわっていた。……背後の塀に大きな穴が開いている。外の道が覗ける。穴はみるみる小さくなる。
思玲は胸を上下させて、息をするのもつらそうだ。俺は彼女に寄っていく。
「かまう、な」
思玲は立ちあがろうとして、地べたにしゃがみこむ。
「結界の、応用で、穴を開けた。自然の、摂理に、反した術は、身を削る」
荒い息で言う。壁の穴はもう消えている。たしかにあり得ない術だ。やはり俺達などたちゆかぬ世界だ。
思玲がまたコンクリートにあおむけに寝ころぶ。扇を握ったままの手を顔に乗せ、
「知ってもらいたいことがある。……伝えることから逃れられぬ」
俺は暗闇に横たわる彼女まで降りる。交差点あたりからクラクションが鳴り響く。思玲は眼鏡をずらし、顔の汗を手でぬぐう。地面に手をつき座りなおす。俺にぶつかりかけた大きな青白い蛾がふわりと通り過ぎる。
「私は告げるべきことを隠していた」
思玲は蛾を目で追いながら言う。
「じきにあいつらから、人としての心はなくなる」
次回「インプット」