四 大峠のお婆ちゃん

文字数 2,616文字

 夏休みは太陽にすべてが輝いていた。さもない車道さえも。

――事故渋滞だって。お兄さん達、いつになるかしらね
――ただでさえ帰省ラッシュなのにな

 助手席と運転席の会話で、年下のいとこ達が遅くなるのに感づく。俺は後部座席で、小学生なりたての弟をいじめるだけだ。壮信(そうしん)がわざとらしい泣き声をあげる。俺は母親に叱られて反省した振りをする。
 もうじき大峠のおうちだ。じっとなんかしていられない。お婆ちゃんに褒めてもらうために持ってきた、通知表の中身をまた確認する。

「もう山だから、窓を開けるよ」

 クーラーの中になんかいられない。果実が熟した香りを、窓から顔を突きだして吸いこむ。Bチームでゴールを決めたことも教えてあげないとな。同級生の半分はまだCチームなんだよって。

 車は田舎道に入り、急な斜面のコンクリートの道を直登する。お婆ちゃんの家には誰もいなかった。よぼよぼのシベリアンハスキーだけが尻尾を振っていた。

――畑かしら。携帯電話、置きっぱなしだし

「僕が連れてくる!」

 駆けだした俺を、弟が追いかける。

――哲人。考えて動けとジュニアで言われただろ? 婆ちゃんがどの畑にいるか分かっているのか?

 父親は俺をとがめたあとに、鍵が刺しっぱなしだなと小さな運搬車を始動させる。俺と壮信は荷台に飛びこむ。

――南の畑はやめたから、東の山かも

 生まれ育った我が家へと荷物を運ぶ母親を置いて、おんぼろ車は軽油の匂いをまき散らしながら田舎道を進む。

――こんにちは、松本といいます。早苗さんは見かけましたか?

 本来は人なつこい父親が運転する運搬車は農道へと入っていく。

 *

――おばあちゃーん!

 荷台にとまったゴマダラカミキリに気をとられて、弟にさきを越された。壮信が祖母に貼りつく。……俺はもう小学三年生だ。こいつみたいにべたべたするのはみっともない。

「壮信、おおきくなったね。哲人もひさしぶりだ」
 お婆ちゃんは俺へと……、僕へとにっこりと笑みを向ける。野良着で手ぬぐいを頭に巻いた、いつものお婆ちゃんだ。
「おまんとうに食わせるために、スモモを採りにきてただよ」

 ここは土と果物の匂いで満ちている。そのまんま、お婆ちゃんの匂いだ。父親がお婆ちゃんの手伝いをして、僕達もその真似事をする。

――もう出荷はしないのですね。こんなにおいしいのに、もったいない

 スモモの皮を爪でむきながら、父がお婆ちゃんに言う。

「ずっと腰が痛くてね。人を雇うのも気をつかうし。こんなに熟したら、もうさすがに無理ずら。おれはまだ七十手前というのに、すっかり婆さんになっちまってね」

 父親が収穫したスモモや農作業具を車に積む。腰が痛くて座席におろせないと、お婆ちゃんがぼやく。

「じゃあ、一緒に歩いて帰ろう!」
「ほうだね。壮信はどうする?」

 弟は軽油の匂いとともに帰った。僕はお婆ちゃんと二人で急な下り道を降りていく。


 お婆ちゃんの家に戻ったら通知表を見せることを約束して、サッカークラブでの活躍を自慢して、これはアブラゼミ、これはツクツクホウシと鳴き声を教えてあげて、これは……、

「これはオケラずら。木じゃなくて土の中だ。婆ちゃんはまだまだ耳はいいからな」
 お婆ちゃんが笑うと銀歯が見える。
「哲人の話をいっぱい聞くためにな」

「僕、お天狗さんにクワガタをとりにいきたい」
 あそこの木を揺らせば、いっぱい降ってくる。

「ゆっくり帰ると言ってあるから、ちょっくら寄るか」
 お婆ちゃんは僕のお願いをほとんどきいてくれる。
「そしたらあとで、みんなで墓参りに行ってこうし。哲人の爺ちゃんも、哲人の一番上のおじちゃんも喜んでくれるら」

 僕は二人とも記憶に残っていない。

「お婆ちゃんは行かないの?」
「おれは腰が痛いからね」

 お婆ちゃんが腰をとんとんと叩く。家に帰ったら、肩たたきだけでなく腰たたきもやってあげよう。

 *

 ガタガタに舗装された道までいったん降りて、べつの林道を登る。両脇が畑でなくなり、道は木陰におおわれる。ひんやりとした山の空気がそこまで来ている。鳥がきれいな声で鳴いているけど、カラスの声しか分からない。
 十分ぐらい登りかえして、ふるびた木造りの社にたどり着く。看板もなにもない。ここから先は未舗装だ。

「僕の家のそばにもお天狗さんがあるよ。二月二十二日にお父さんと一緒に登った」
 寒くて停電が起きて真っ暗で、すぐに直って金札をもらったことを教える。

「てーっ。ここは、へえお祭りさえないのにね」

 お婆ちゃんが賽銭箱の前に座り、タオルで汗を拭く。僕は脇にある蛇口から水筒に水を足す。天然水だからおいしい。

「哲人が勉強とサッカーに頑張ったから、山の神さんにお札をもらうじゃん」
 お婆ちゃんが立ちあがる。賽銭箱の前で手をあわせて、切れそうにぶら下がった鈴の向こうに手を突っこむ。蜘蛛の巣とともに、ふるびた木札を取りだす。
「おれが二十歳ぐらいのときかな。ここの神さんがくれると言ってくれた。いりませんって言ったら、いつでも持ちにこいだとよ。孫にやるぶんにはいいずら」

 お婆ちゃんがお札を僕に突きだす。筆箱にちょうど入るぐらいの雷型のお札だ。
 ……なんだか怖くて、僕は受けとれない。急に山の中に二人きりなのを感じる。帰りたくなって、お婆ちゃんの目を覗きこむ。

「てっ。やっぱり哲人もいらないのけ。じゃあ、もうちっと置かしてもらうじゃん」
 お婆ちゃんは木札を神社に戻し、手をあわせる。
「哲人もおがみな」

 僕もお婆ちゃんの横に行き、両手をあわせる。

「婆ちゃんは、哲人を守ってくださいとお願いしたんだ」お婆ちゃんが笑う。「哲人はなにをお願いした?」

「サッカーがもっと上手になるように」
 そうだ、クワガタの木を蹴っとばさないと。「それと、オオクワガタも捕まえられるように」

 お札のことなんかすぐに忘れた。あの稲妻に似せた形は紙垂と呼ばれ、木で作られたそれが、聖域のアグレッシヴな護符なんて知るはずもなかった。夢うつつに思う。

「おおきいクワガタでもなんでも、いっぱい捕まえな」

 お婆ちゃんが野良着のポケットからスーパーのビニール袋を取りだす。さすがお婆ちゃん。僕の必要とするものは、なんでも用意してくれていた。



 腰の痛みは外科的なものではなかったから、畑にいるお婆ちゃんを見たのは、この夏が最後だったかもしれない。お婆ちゃんは最後まで頑張ったから、病室には何度も何度も見舞いに行ったけど――。




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