四十八の二 力ある者

文字数 6,232文字

 俺はよどんだ湖に沈む。
 暗視能力がチェーンナップされているような。遠くで巨大な化け物を二体の獣人が追うのが、鮮明に見えるし嗅げる。……水の中なのに苦しくない。自律神経的に呼吸していない。
 紅色にかすむ水上を目ざす。平泳ぎが力強すぎる。クロール派だったのに。
 顔をだすなり紫毒がこんにちは。息をとめたままにする。だけど苦しくない。このまま半日泳げるぐらい……。俺の体、縮んでいるよな。

「哲人さん!」
 空から紅色の天女が飛んできた。
「哲人さんが小さいウミガメになった! かわいすぎる! かわいすぎる!」

「ド、ドロシーはきれい……すごく、すごく」

 俺こそ語彙を失ってしまう。小さいウミガメは地底湖に顔だけだして、呆けたように見あげてしまう。
 彼女は中華王朝宮廷のごとき優美な衣装を身にまとい、長い黒髪を金色のアクセサリーで飾りたてていた。丸出しのおでこ。かわいいサイズの品よい鼻。ちょっとだけぷっくりした唇。切れ長のアーモンドアイ。しかも宙に浮かんでいる。

「哲人さんは玄武系になれた。だけど私に向かった異形の力を護符が妨げたのか、私は朱雀が半分だけ」
 空飛ぶ仙女が哀しげな顔になる。
「だけど別の力がまかなっているみたい。だから強いから心配しないで」

 俺は全力で異形になり小柄なウミガメかよ。彼女が手を伸ばし、俺は水面からすくわれる。胸もとに抱えられる。
 全長40センチぐらいになったかな(頭部と尻尾は除く)。甲羅のある体だからドロシーはやや重たそうにするけど……彼女から気品ある植物性の香のかおり。
 汚水地獄からも救われて、ウミガメはその胸にもたれてしまう。ずっと疲れていたんだ、俺。
 ドロシーは乙姫様だ。排水溜まりみたいな地だとしても、尻尾が白髪になるまで抱かれていたい。

「哲人さんは亀なのに温かい。ペットにしたい」

 上の下の朱雀の資質をもつドロシーが俺の甲羅をさする。なのに朱雀へなりきれなかった。それを補っているのは。

「いまのドロシーは朱雀と龍のミックスなんだ。なのに、きれいで温かくて、いい匂いで柔らかくて……」
「へへ……」
「違う。そいつは龍なんかじゃない。べつの化け物だ」

 きつい口調に夢心地から戻される。
 乙姫様が俺を右手だけで抱きなおす。左手に天宮の護符が現れる。
 それが発する光は、結界に隠れる藤川匠さえも照らしだす。奴は羽根のはえた白馬……ペガサスに乗っていた。

「二人だけの愛の時間に浸りすぎた……。片手じゃ奴に勝てない。哲人さんを落とすけどごめんなさい」

 拒絶しろ。

「やめてダメやめて、俺が藤川に狙われる」

 情けない悲鳴とともに、ヒレみたいな両手でドロシーの両胸にしがみつく。

「あっ」ドロシーが声を漏らす。「て、哲人さんこそダメだよ。異形のときに触わらないで」

 そんなことを赤らみながら言われると柔らかさをしんみり感じてきて、俺の下の亀までなんて思っていられない。 
 憤怒に燃えた藤川匠がペガサスとともに突進してきた。結界をぬぐい去り、俺達へ何かを投げる――独鈷杵!

「危ない」
 ドロシーが飛んで逃げるけど、俺こそ知っている。この法具はターゲットを追尾する。
 彼女も気づいた。振りかえり、天宮の護符を向ける。
「噠!」
 紅色のレーザービームが一直線に飛び、独鈷杵が燃えつきて消える。
「……しまった」

 馬のいななき。藤川匠が月神の剣を上段にかまえて飛びおりてきた。亀である俺に憎しみの目を向けている。護符が発動していようと。

君だけは守る

 俺を抱えたドロシーが剣へと背を向ける。
 斬撃は俺にも伝わり、黒い血を吐く彼女とともに地底湖に落ちる。
 天女のようなドロシーが瞬時に溶けていく。束の間の乙姫様。穢れた水に混ざり消えていく……。

どくん

 俺のくちばしみたいな口に独鈷杵が現れる。
 藤川はペガサスの背に着地して俺を見下ろしていた。

「降りてこい」
 俺は法具をくわえたままでにらむ。

「僕の手もとから去るのか……。魔女は狂っている。だから魔女なのだけど」
 先ほどの怒りが嘘みたいに、藤川匠の声は憂いを含んでいた。
「松本を守るために、おのれに憑いた異形だけを僕に斬らせた。だが結局は人として無様におぼれ死ぬ」

 こいつだけは倒す。だけど今じゃない。

「俺が助ける」
 俺は亀だ。生きているのなら、ちいさくても彼女を助けられる。

「無理だよ」藤川が剣を向けてくる。

 俺こそ怒りに駆られるな。
 お前の相手などしていられるか。俺であるウミガメは尻尾を向けて水中へ戻る。奴の光に甲羅を削られる。だけど玄武の硬い甲が削られるだけ。俺の心は削られない。

 べつの怒りが地底湖を満たしていた。その主のものである巨大なまなこが二つだけ、俺を追っている。

「邪魔だよ」
 ドロシーを救うのに邪魔だ。ウミガメは努めて冷静に告げる。

「ひ、ひいいい」

 どでかい悲鳴が水流になり鬱陶しい。やっぱり倒すか。

「お、俺が悪かった。何千年でもここに閉じこもるから勘弁してくれ」

 なんだよ。巨大な鬼が、ちっぽけなウミガメなんかに怯えていやがる。

「だったらドロシーを助けろ」
 異形の忌むべく声は、腐敗した水の中こそよく届く。法具をくわえていようと関係ない。

「新たな主が言っていた。あの娘は魔女だ。俺達を悪しきに従える」

 何をグダグダ言ってやがる。
「はやく助けにいけ!」

 ほら見ろ。声を荒げてしまったじゃないか。
 独鈷杵が呼応しだしたじゃないか。

「む、娘は折坂に抱えあげられ生きている。あの獣人とは馴染みだから俺も加勢する。……だけどよ、新たな主になるはずの人が言っていたぜ。
魔女は必ず倒される。何よりも力あるものに。
そのときは、従っちまった俺を、お前が助けてくれよ。お前の責任なんだから」
「はやく行け」
「ひっ」

 夷が起こす濁流に、ちいさなウミガメは流される。それでも夷を追う。やっぱり流される。……なんで亀なんかになった。これでは誰も守れない。これこそ俺の責任だ。
 水中での力強い犬かきが近づいてきた。

「松本はうまそうになったな。だけど怒ると一番怖い。夷をいじめるな」
 川田が俺を抱えながら言う。
「姉御は息しているが意識はない。折坂が藤川の攻撃を必死に防いでいる。追いかけっこが中止になった」

 折坂さんがドロシーを……。ならば託すに決まっている。

「夷もドロシーを守ってくれる。俺達は藤川を倒す」
 人であろうと倒す。奴こそ、人である俺とドロシーに何度も殺意を向けたのだから。

「無理だ。藤川は亀より強く、あの馬は殲みたいに結界を張る。しかも素早い」

「俺と川田が先頭で戦えば、勝てない相手はない」
「わかった。ジャンプするぞ」

 いきなりかよ。願ってもない。獣人に小脇へ挟まれたウミガメは、再び空気が支配する世界へ力強く戻る。
 紅色の光は消えている。それを再び灯させるのは俺だ。そのために、一番の邪魔者を消す。

 虚空から青い光が飛びだした。俺達へと向かってくる。居場所を晒してくれた。

「俺を投げろ!」
 ウミガメが命ずる。

「わかった」
 手負いの獣人が、外野からの遠投ぐらいのいきおいでウミガメをレーザービームする。

「藤川!」

 ウミガメは回転しながら空を飛ぶ。目は回るけど我慢する。くわえた独鈷杵が青い光を弾く反動にも耐える。
 藤川匠は見えない。でも独鈷杵は狙った敵へと向かう。ましてや怒りに満たされた所有者と、なおも一体になっている。

「藤川!」

 かわいすぎるウミガメは、独鈷杵に引きずられて鋭くカーブする。回転ノコギリみたいに奴を守る結界をズタズタにする。
 馬上の藤川匠は月神の剣を掲げていた。青い光があふれるもとで俺を待ちかまえていた。

 聖なる剣と聖なる法具がぶつかりあう、醜悪で邪悪な音。きな臭さ。

「藤川匠!!!」
「くっ」

 俺の怒りのが強かった。奴の剣を持つ手が後ろに下がる。伝説の大魔導師が亀なんかにだ。

「これは俺達の心!」
「私の思い!」

 ゼ・カン・ユが幻想に見えた。憂いある強き眼差し。悪を討伐する思い――。
 なおも俺を凌駕する強い意志。

 くわえた法具はかすめただけで、ウミガメは素手で(はた)かれ落ちていく。
 たったそれだけで、ウミガメの甲羅は割れ体は溶けていく……またも俺の完敗。

「哲人さん!」

 声が聞こえた。意識を取り戻したドロシーが籠から飛び降りた。ウミガメみたいな平泳ぎで俺を拾ってくれる。……さきほどまでのシャツ姿。彼女は人に戻っている。
 だったら溶けながらでも、黒い血を吐きながらでも、ウミガメだろうと告げないと。

「人間のドロシーが一番好きだ」
「へへ、うれしすぎる。――私は祈ります。過去の罪を抱えたままで祈ります。それでも是非届けてください。私の最愛の人へと。松本哲人を救うために、精霊よ、聖なる力よ、私はすべてのものに頼ります。私の力が削れようとも、この人を立ち上がらせてください」

 胸もとの濡れた珊瑚がかすかに光る。俺の体内のすべてが逆流する。
 ドロシーの俺への祈りはまったく適当でなく、藤川匠から受けた傷が瞬く間に回復していく。

「お前が死にかけた途端、ドロシーは目を覚ました」

 折坂さんが上空に警戒しながら言う……その真下の水面が盛り上がり、ドロシーとウミガメは籠へ流される。

「新たな主さんよお」
 折坂さんを乗せた巨大な顔が、申し訳なさそうに暗黒の空を見上げる。
「川田って獣人に聞いたが、魔女は俺を退治したくないらしい。俺も、もう少し折坂と月に一度の遊戯を続けたい。あんたの配下になるのを撤回させてくれないか?」

「私は魔女でない!」

 ドロシーが怒鳴りながら、籠をよじ登る。錆びた鉄板に転がり落ちて座りこみ、何度も肩で息して、それでも籠の隙間から俺を拾い上げる。俺を抱きしめてくれる。

「大丈夫?」俺は聞くけど、

「全然平気だ。人になって見ても哲人さんはかわいい」
 目を細めて微笑んでくれた。

「藤川よ、お前が赦されることはない」
 折坂さんが剣を手にしたまま空へと告げる。
「だがドロシーは赦された。何よりも彼女のおかげで夷の目が覚めたのだからな」

「藤川匠、殺しあおうぜ」
 川田も水中から顔をだし残忍な声をあげる。

「我が主になるはずだった人よ、立ち去ってくれ。俺はここに残る。腐った俺には、ここがふさわしいかな」
 夷が身をひそめるように潜りながら告げる。おかげでまた巨大な波紋が起きる。

「異形達の声が聞こえているのなら、いつまでも隠れているな」
 ドロシーが天宮の護符を掲げる。
「我が力に、いかなる結界も及ばぬ」

 地底湖が眠りにつけるはずなく紅色に包まれて、藤川匠と天馬も照らされる。

「あの馬に乗って逃げられる。そしたら夏奈が狙われる。禰宜もだ」
 ドロシーの胸に抱っこされたウミガメが折坂さんへ告げる。

 朝卦さんは消滅寸前のイクワルからさえ逃げた。星五個だろうとつまり弱い。実質守れるのは大蔵司だけしかいない。だけど彼女は危うい。

「藤川はそこまで愚かではない」

「過去にこだわり続ける獣人は黙っていろ」
 苛立った声が上空からした。
「無音だっけ? かたよりすぎた力を持つかわいそうな子。魔女さえもあしらえるのに、倒すには至らない子」

 過去にこだわるのはお前だろ? ドロシーを見習え。龍の弟だった人を。もしくは桜井夏奈を。龍だった人を。

「私は呪いを跳ね返した! 私達の愛に勝るものはない。ダーリンが亀であろうとだ!」

「破綻した魔女とは会話したくない」
 まだ藤川は折坂さんを見つめていた。
「ここはあの子の悲しみでゆがんでいる。なので僕につけこまれた。お前達の責任だ。……そして」

 いきなり藤川匠の強い感情が俺を襲う。

「頬の傷は浅いのに血がとまらない。……これはすべて松本の仕業だ。僕よりも強かった貴様の責任だ」
 藤川匠が俺へと手のひらを向けた。そう感じる。
「松本は、魔女もフロレ・エスタスも何もかも配下にする気か? それこそ無理だ。破滅が待っている。なので、ここからは貴様を成敗することを宿命(さだめ)とする」

 俺の口から独鈷杵が消えた。それは藤川匠のもとへ戻る。そう感じる。

「姉御も俺もドーンも、進んでボスの配下になった。みんな人に戻るためだ」

 川田の言葉がしばし沈黙をもたらす。

いつか私も人の世界に帰して

 俺は初めて通じあった声を思いだす。

「残念だけど川田は人に戻れない。幻想を持たせたのは松本の罪だ」
 藤川がなおも語りだす。
「夷。この中でお前が一番の弱者だ。媚びる相手を間違えたな。……カブト、撤退しよう」

 ペガサスがいななく。藤川匠ごと白い煙に包まれていなくなる。

「麻卦と同じか。設定したポイントに瞬間移動できるのかな」
 俺を抱えたドロシーがつぶやく。
「きれいな天馬だった。……欲しいな。主がいなくなれば手に入るかも」

 邪悪な者の願望。
 俺の甲羅の内側がぞわりと凍えた。だけどそんなはずはない。彼女は巨大で醜悪な鬼を傷つけることなく、ある意味従えた。俺への祈りは横根を超えた。鮮烈でなく羽毛に包まれたかのようだった。
 この人は魔女でない。白魔女でもない。その正反対の、むしろ聖女の具現だ。スイッチが入るとアグレッシブになるだけだ。誰にもある欲望を忠実に口にするだけだ。

「冷や汗まみれだった。法具を投げられると思った」
 巨大な夷が腐敗した半身を再び浮かばせる。汗をかけたのか。

「藤川は怒りが足りなかった。むしろ慈みを感じた。受け入れるはずないが」
 折坂さんがその頭上で言う。

「邪魔者も消えたし遊びを再開しようぜ」
 その隣で川田が笑う。
「本気でやりあう三つ巴は楽しいな。夜通し戦おうぜ」

 川田は満月の夜に閉じこもることに同意どころか待ちわびだしたけど……それでいいのだろうか。
 人に戻りたいという、川田のかすかな言葉こそを叶えてあげるべきでは。藤川の呪詛みたいな負け惜しみにも負けず……やっぱり満月を終えてからかな。
 それより俺はいつまでウミガメなのだ? 俺こそ早く人間に戻りたい。

「一番弱いらしい俺が夜に獣人二人が相手だと、さすがに食い殺されそうだ。――麗しき魔女よ。公平な戦いを提案してくれないか?」

 リュックサックを背負いなおしたドロシーが、不快になりかけた表情をかき消す。

「だから夷ちゃん、私は魔女でないよ。それでね、そしたら川田君と組めばいい。剣を持った折坂に対抗できるから誰も深手を負わない。しかも私が祈ってあげるから、すぐに回復だ。おでこの目だって、傷つけた者ならば治せる」

 ウミガメは彼女の優しい笑みを間近で見上げる。ドロシーは魔女なんかでない。気まぐれみたいに見せる慈愛だとしても、何度でも確信させる控えめな笑顔。
 なのに彼女の手に七葉扇が現れる。

「だからあなた達は明日の朝までここにいて。私と哲人さんだけが牢を抜ける」

 彼女が扇を振るう。同時にワイヤーがきしみ、俺達を乗せた籠が上昇しだす。加速していく……。これはPKの術だ。本人も加減できない奴だ。
 腐水まみれのドロシーが、俺を顔の前まで持ち上げる。企みの笑み。

「へへ、誰もいない隙に内宮へ忍び込もう。そして陰辜諸の杖を借りよう。……かわいいな。哲人さんはずっとこの姿でもいい。怒っても怖くない。優しくなければ躾けちゃう」
 俺の鼻先にキスをして「その前に一緒にシャワーを浴びようか? へへ」

 この人は魔女なんかでないはずなのに……。
 二人だけを乗せた籠は、下降時よりもはるかにスピードアップして、闇の中を上昇していく。




次章「4.5-tune」
次回「鉄壁な朱雀」
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