二十二の一 どん底からヒートアップ
文字数 3,236文字
0.5-tune
ドロシーが俺を見つめる……切れ長な奥二重、虹彩と瞳孔の色み大きさバランスさえも奇跡的…………やばい……(全裸の)彼女と二人ならば成仏って奴をしてもいい。俺の未練が消えていく。
やばいやばいやばいやばい。霊だか何だかよく分からぬ存在である俺は、自分の頬を叩く。おのれに喝を入れる。
「俺は行かない」
彼女へと宣言する。……彼女を引き留めてはいけないと感じる。俺だけが一人ずっとここにしがみつくだけだ。
お互いに無理強いしてはいけない。ドロシーだってそう感じている。
「……へへ。哲人さんは生き返ってね」
かすれたドロシーが見上げる。さみしげに微笑む。
「私は無理だよ。首を折坂の剣で切られたし。心臓に刃先を降ろされたのが最後の光景だし……だいたい二度も生き返れないよ」
よく分からない状況下での意味不明な会話。無敵に感じた二人だったけど、所詮はこんなものだった。
「ありがとう。大好きだったよ」
俺は消えていくドロシーを抱きしめる。ドロシーは俺にうずくまる。霞んでいく。……一緒にいたのはどれだけだろう? 二万時間ほどに密度ある瞬間だった。最後に一度だけ俺からキスし
「でも……パパとママはどこ? ……私はどこへ行けばいいの?」
その右手が紅色に輝く。紙垂型の木札が握られていた。
「何これ?」
「ドロシー、光を抑えて」
「私じゃない。この護符が勝手に――私、また生き返っちゃうかも」
二人は溶けるほどの光に包まれる。
いや、溶けた。
*******
「ひゃー!」
大柄な人が俺を見て腰を抜かした。異形の声で悲鳴を上げる。
「老大大~!」
人じゃない、鬼だ。そいつはどたどたと薄暗い部屋から出ていく。……埃臭さに混ざった異国の香り。ここはどこだ? 鬼がいるなら地獄か?
俺は立ち上がる。
「老大大?」と隣から声がした。「……ここは魔法陣の上」
ドロシーが座り込んでいた。俺を見上げてくる。見覚えない上下の紅いジャージだけど、たしか全裸だったはず。彼女も目を見開いてふわりと立ちあがる。
「まずいよ、すごくまずい。私まで異形になっちゃった。それよりもだよ、私は香港に帰ってきちゃった。そっちのがずっとまずい。異形だろうと牢に入れられる。とてつもない罰を与えられる」
たしかにドロシーは人でない。霊でもない。状況を把握できない俺は紅色の光を思いだす。それに包まれて……またもや激しく紅色に照らされる。ドロシーの手で天宮の護符が輝いていた。
「逃げよう。さすがに呪符の模写は無理だけど、老大大の作法を盗み見したから、この魔法陣を使えば大丈夫。一緒に帰ろう。そこでずっと四人で過ごそう、へへっ」
彼女が広東語で小声で呪文らしきをつぶやきだす。何を言っているか分からないけど、分かっているのは、そんなところに戻ってはいけない。
なのにドロシーが上唇を舐める。下唇まで舐めて、護符を床へと掲げる。そこには円状に漢字がびっしりと書かれていた。中心にはお天狗さんの木札に描かれていたような判読不可能の呪符がこれでもかと。
そこに暗いホールが開く……
「ドロシーやめろ」
「噠! きゃあ!」
彼女は床へ護符を突き刺しかけて弾き飛ばされる。
「あいかわらず危ない娘だね。人でなくなっているし滅茶苦茶な子だ」
魔法陣からしわくちゃな顔が浮かび上がってきた。
「私に送り返されるか、はやく王思玲を連れてくるかどちらか選びな」
全身を現した周婆さんがふがふがと笑う。入れ歯が落ちる。
*
「約束は守ります。なので見逃してください」
混乱が少しだけ収束したあと、ドロシーが宙に浮かびながら告げる。やっぱり彼女は人ではない。
夢が覚めていく感じ。でも異形のままの俺。じきに思いだす。
勝ち誇り蔑んだ笑み。縦に裂かれた顔。青く輝いた剣。
「あなたが俺達を救ってくれたのですね」
周婆さんへと言う。
「必ずお礼はしますけど日本に帰らせてください。お願いします」
やるべきことを急激に思いだしていく。
「引きずりだしたのは私じゃないよ。だいたいお前は、私がわざわざ潜り込んでやったのに拒否しただろ。お前など知らないね」
そんなことがあったような気もするが、この人は見るからに駆け引きしない系だ。また俺は見捨てられるかも。……扇を仰ぐだけで鬼をどこぞに送ったよな。たぶんそれはあそこだ。あれがいわゆる冥界だ。
「だったらお爺ちゃんが?」ドロシーが聞く。
「いくつになろうが梁勲に行き来などできるはずない。しかし眩しい護符だね。眩しいだけ。心だけで魂がない。王思玲にこそ似合いそうだ」
しわくちゃなのにかくしゃくな婆さんは、ドロシーが握ったままのお天宮さんの護符を見つめている。
「その札の仕業さ。その神さんがあんたらを呼び戻した」
俺も紅色に光る護符を見る。俺を護るためにお祖母ちゃんが……。
「老大大は閻魔雀蜂を貸してください。……これから私はどんな異形にも触れられるんだ、へへ」
ドロシーは喜んでいるけど、俺はその名の異形と戦ったことがあるけど、九郎でも六時間かかったよな。
「あれはのろいよ。あんたのじいじが大鷲の雛を使っていただろ。それを呼びな」
「あの子は私と一緒に死んじゃいました」
「いつ?」
「たぶん、ついさっきです」
「何で?」
「白銀でです」
「だったら呼び寄せられるかもな」
周婆さんが魔法陣へとぶつぶつ唱えだした。風軍をも生き返らせる――その時間さえ惜しい。いまは何日だ? 俺が殺されてからどれくらい時が過ぎた?
それよりもドロシーをどうする? 俺は峰へとたどり着くどころか遠ざかっている。
にゅっと蛇が魔法陣から顔を出した。十四時茶会で婆さんの首元にいた飛び蛇ぽい。主へと首を左右に振る。
「この子は私の血だけで育てたから、冥界に向かえるどころか自由に泳げる。同体みたいになっちまったから、私がくたばれば一緒に死ぬがね。この子が言うには、雛の大鷲はいないようだ。つまり死んでないだろ」
「そんなはずないです。溶けるのを見ました」
「日本に戻れば分かる。急ごう。魔道団の飛行機を奪ってもいい」
俺が会話を止めさせる。周婆さんがあらためて俺を見る。
「梓群が手にする札はあんたのものだね。あんたを呼び戻すためにこの子を利用した。日本は神さんまで卑劣だ。――そこで待っていな」
周婆さんがふわふわと部屋から出ていく。蛇が後を追う。
俺とドロシーだけになる……。人でなくなったドロシー。それがお天宮さんの意志であるならば、赦せるはずない。そんなことをお祖母ちゃんが望むはずない。
「人でなくなっても五感は変わらないんだね。六感もちょっと研ぎ澄まされたぐらい。……やっぱりけだもの系ぽいな」
ドロシーは平気なようだけど、そんなの今だけだ。苦しみ悲しみだすに決まっている(たぶん)。……彼女を川田と一緒に人へ戻す。心に強く刻む。
「素敵な気だ。あんたまでお気に入りになるまえに追いだそう」
また魔法陣から周婆さんが現れた。
「孫が死んだりお化けになったのを、梁勲に気づかせぬようにする。なので、この部屋からださずに済ますよ。念のためこれを持っていきな。梓群なら得体のしれない存在になろうとつかめるだろ」
早口でまくし立てる婆さんの手に衣服があった。彼女が魔法陣の真上に浮かぶ。
「チャイナドレスと下着?」
ドロシーが受け取りながら聞く。
「私のお古だよ。梓群ならあり得そうだからくれてやる。ほれ、とっとと手を取り合って刺せ。札が連れ戻してくれる」
そう言うなり周婆さんが呟きだす。その手に金色の扇が現れる。
暗い部屋の気配が変わる。どんよりと、どんよりと……。
ドロシーが握る護符がさらに光りだす。
「て、哲人さん急ごう。老大大ありがとうございます」
ドロシーが俺へと降りてくる。左手で俺の右手を握る。
「噠!」
右手で護符を魔法陣の中心を突く……。
「やめろ。冥界に戻らない」
俺は叫ぶけど、二人は溶けるほどの光に包まれる。
いや、また溶けた。
次回「六界のどこか」
ドロシーが俺を見つめる……切れ長な奥二重、虹彩と瞳孔の色み大きさバランスさえも奇跡的…………やばい……(全裸の)彼女と二人ならば成仏って奴をしてもいい。俺の未練が消えていく。
やばいやばいやばいやばい。霊だか何だかよく分からぬ存在である俺は、自分の頬を叩く。おのれに喝を入れる。
「俺は行かない」
彼女へと宣言する。……彼女を引き留めてはいけないと感じる。俺だけが一人ずっとここにしがみつくだけだ。
お互いに無理強いしてはいけない。ドロシーだってそう感じている。
「……へへ。哲人さんは生き返ってね」
かすれたドロシーが見上げる。さみしげに微笑む。
「私は無理だよ。首を折坂の剣で切られたし。心臓に刃先を降ろされたのが最後の光景だし……だいたい二度も生き返れないよ」
よく分からない状況下での意味不明な会話。無敵に感じた二人だったけど、所詮はこんなものだった。
「ありがとう。大好きだったよ」
俺は消えていくドロシーを抱きしめる。ドロシーは俺にうずくまる。霞んでいく。……一緒にいたのはどれだけだろう? 二万時間ほどに密度ある瞬間だった。最後に一度だけ俺からキスし
「でも……パパとママはどこ? ……私はどこへ行けばいいの?」
その右手が紅色に輝く。紙垂型の木札が握られていた。
「何これ?」
「ドロシー、光を抑えて」
「私じゃない。この護符が勝手に――私、また生き返っちゃうかも」
二人は溶けるほどの光に包まれる。
いや、溶けた。
*******
「ひゃー!」
大柄な人が俺を見て腰を抜かした。異形の声で悲鳴を上げる。
「老大大~!」
人じゃない、鬼だ。そいつはどたどたと薄暗い部屋から出ていく。……埃臭さに混ざった異国の香り。ここはどこだ? 鬼がいるなら地獄か?
俺は立ち上がる。
「老大大?」と隣から声がした。「……ここは魔法陣の上」
ドロシーが座り込んでいた。俺を見上げてくる。見覚えない上下の紅いジャージだけど、たしか全裸だったはず。彼女も目を見開いてふわりと立ちあがる。
「まずいよ、すごくまずい。私まで異形になっちゃった。それよりもだよ、私は香港に帰ってきちゃった。そっちのがずっとまずい。異形だろうと牢に入れられる。とてつもない罰を与えられる」
たしかにドロシーは人でない。霊でもない。状況を把握できない俺は紅色の光を思いだす。それに包まれて……またもや激しく紅色に照らされる。ドロシーの手で天宮の護符が輝いていた。
「逃げよう。さすがに呪符の模写は無理だけど、老大大の作法を盗み見したから、この魔法陣を使えば大丈夫。一緒に帰ろう。そこでずっと四人で過ごそう、へへっ」
彼女が広東語で小声で呪文らしきをつぶやきだす。何を言っているか分からないけど、分かっているのは、そんなところに戻ってはいけない。
なのにドロシーが上唇を舐める。下唇まで舐めて、護符を床へと掲げる。そこには円状に漢字がびっしりと書かれていた。中心にはお天狗さんの木札に描かれていたような判読不可能の呪符がこれでもかと。
そこに暗いホールが開く……
「ドロシーやめろ」
「噠! きゃあ!」
彼女は床へ護符を突き刺しかけて弾き飛ばされる。
「あいかわらず危ない娘だね。人でなくなっているし滅茶苦茶な子だ」
魔法陣からしわくちゃな顔が浮かび上がってきた。
「私に送り返されるか、はやく王思玲を連れてくるかどちらか選びな」
全身を現した周婆さんがふがふがと笑う。入れ歯が落ちる。
*
「約束は守ります。なので見逃してください」
混乱が少しだけ収束したあと、ドロシーが宙に浮かびながら告げる。やっぱり彼女は人ではない。
夢が覚めていく感じ。でも異形のままの俺。じきに思いだす。
勝ち誇り蔑んだ笑み。縦に裂かれた顔。青く輝いた剣。
「あなたが俺達を救ってくれたのですね」
周婆さんへと言う。
「必ずお礼はしますけど日本に帰らせてください。お願いします」
やるべきことを急激に思いだしていく。
「引きずりだしたのは私じゃないよ。だいたいお前は、私がわざわざ潜り込んでやったのに拒否しただろ。お前など知らないね」
そんなことがあったような気もするが、この人は見るからに駆け引きしない系だ。また俺は見捨てられるかも。……扇を仰ぐだけで鬼をどこぞに送ったよな。たぶんそれはあそこだ。あれがいわゆる冥界だ。
「だったらお爺ちゃんが?」ドロシーが聞く。
「いくつになろうが梁勲に行き来などできるはずない。しかし眩しい護符だね。眩しいだけ。心だけで魂がない。王思玲にこそ似合いそうだ」
しわくちゃなのにかくしゃくな婆さんは、ドロシーが握ったままのお天宮さんの護符を見つめている。
「その札の仕業さ。その神さんがあんたらを呼び戻した」
俺も紅色に光る護符を見る。俺を護るためにお祖母ちゃんが……。
「老大大は閻魔雀蜂を貸してください。……これから私はどんな異形にも触れられるんだ、へへ」
ドロシーは喜んでいるけど、俺はその名の異形と戦ったことがあるけど、九郎でも六時間かかったよな。
「あれはのろいよ。あんたのじいじが大鷲の雛を使っていただろ。それを呼びな」
「あの子は私と一緒に死んじゃいました」
「いつ?」
「たぶん、ついさっきです」
「何で?」
「白銀でです」
「だったら呼び寄せられるかもな」
周婆さんが魔法陣へとぶつぶつ唱えだした。風軍をも生き返らせる――その時間さえ惜しい。いまは何日だ? 俺が殺されてからどれくらい時が過ぎた?
それよりもドロシーをどうする? 俺は峰へとたどり着くどころか遠ざかっている。
にゅっと蛇が魔法陣から顔を出した。十四時茶会で婆さんの首元にいた飛び蛇ぽい。主へと首を左右に振る。
「この子は私の血だけで育てたから、冥界に向かえるどころか自由に泳げる。同体みたいになっちまったから、私がくたばれば一緒に死ぬがね。この子が言うには、雛の大鷲はいないようだ。つまり死んでないだろ」
「そんなはずないです。溶けるのを見ました」
「日本に戻れば分かる。急ごう。魔道団の飛行機を奪ってもいい」
俺が会話を止めさせる。周婆さんがあらためて俺を見る。
「梓群が手にする札はあんたのものだね。あんたを呼び戻すためにこの子を利用した。日本は神さんまで卑劣だ。――そこで待っていな」
周婆さんがふわふわと部屋から出ていく。蛇が後を追う。
俺とドロシーだけになる……。人でなくなったドロシー。それがお天宮さんの意志であるならば、赦せるはずない。そんなことをお祖母ちゃんが望むはずない。
「人でなくなっても五感は変わらないんだね。六感もちょっと研ぎ澄まされたぐらい。……やっぱりけだもの系ぽいな」
ドロシーは平気なようだけど、そんなの今だけだ。苦しみ悲しみだすに決まっている(たぶん)。……彼女を川田と一緒に人へ戻す。心に強く刻む。
「素敵な気だ。あんたまでお気に入りになるまえに追いだそう」
また魔法陣から周婆さんが現れた。
「孫が死んだりお化けになったのを、梁勲に気づかせぬようにする。なので、この部屋からださずに済ますよ。念のためこれを持っていきな。梓群なら得体のしれない存在になろうとつかめるだろ」
早口でまくし立てる婆さんの手に衣服があった。彼女が魔法陣の真上に浮かぶ。
「チャイナドレスと下着?」
ドロシーが受け取りながら聞く。
「私のお古だよ。梓群ならあり得そうだからくれてやる。ほれ、とっとと手を取り合って刺せ。札が連れ戻してくれる」
そう言うなり周婆さんが呟きだす。その手に金色の扇が現れる。
暗い部屋の気配が変わる。どんよりと、どんよりと……。
ドロシーが握る護符がさらに光りだす。
「て、哲人さん急ごう。老大大ありがとうございます」
ドロシーが俺へと降りてくる。左手で俺の右手を握る。
「噠!」
右手で護符を魔法陣の中心を突く……。
「やめろ。冥界に戻らない」
俺は叫ぶけど、二人は溶けるほどの光に包まれる。
いや、また溶けた。
次回「六界のどこか」