二十九のニ またも転回点
文字数 4,766文字
「くそくそ!」
転がったままの麻卦さんの手にも冥神の輪が現れる。紺色の扇と交差させる。
白銀と紺色の螺旋。ドロシーの投げた輪が跳ね返される。
「護れ!」
緋色のサテンが現れるなり彼女の周りで旋回しだす。力を失った螺旋の光は霧散する。
冥神の輪は彼女の手に戻る。同時に投げる。
「噠!」
「くそ!」
麻卦さんは手にする輪を輪ではじく。衝撃で本人は転がる。両方の輪も逆方向に転がっていく。ひとつが俺のまえで横になる。
輝かない白銀弾以外に、ドロシーに他の魔道具はないよな。つまりリミッターになるものがない。あっても破壊されるだけか。
「戦うための魔道具に鹿を閉じこめたままだな。割れたらその子も消滅しちゃうだろ。極悪妖怪め」
両手をカニ型にして執務室長へ向ける。
「殺 、殺、殺、殺、殺、殺、殺、殺、殺、殺!」
わお、紅色の壁。破滅的密度あり過ぎ光弾群。俺もいるのに。
「台輔!」大蔵司が叫ぶ。
目の前にピンク色の尾びれが現れる。
「痛いきゅ、でも弱いきゅ」
悲鳴を上げながら、紅色の術を受け止めまくる。
「台輔ちゃんがここにも現れた!」
ドロシーが両手をおろす。
「薄めの術にしてよかった。大蔵司め、また式神を盾にしたな。貴様らは藤川匠か」
「お前に結界が通用しないからだ。……桃子の毒もきかなかったな。化け物め」
そう言って麻卦さんが冥神の輪を拾おうとする。それは意思あるように飛んでいく。ドロシーの手に戻る。
「うまくねえな。こいつは折坂にまた殺されるぞ」
「白虎もいるのだから来ないですよ。こいつらを追いださないかぎり、傍らから離れるはずない」
大蔵司がすり足で移動を始める。ドロシーを挟み撃ちにしようとしている……。
「待てよ! みんな終われ!」
ようやく俺は動きだす。「ドロシーは(俺がお寺で喰らって肋骨を数本折った)弱い術を(大量にだけど)選んだ。その意味を考えてくれ」
「逆さ人封!」
大蔵司は俺の言葉を聞きやしない。しかも初披露の凶悪そうな術名――、しめ縄がうねりながらドロシーへと飛んだ!
でもしめ縄は、師傅の護布にスライサーみたいに切断される。なにも起こさず即座に消滅した。
「大蔵司、勉強しろ。私を閉ざすことは叶わぬ」
ドロシーの肩に護布がおりる。
「弱い“殺”を選んだのは、哲人さんと大蔵司と台輔ちゃんと鹿ちゃんを殺さないためだ。軽いから勝手にいっぱいでちゃっただけだ」
連呼していた覚えもするが、彼女は一人だけをにらむ。
「お、俺は逃げるぜ」
麻卦さんの手に煙草が現れる。「……いや。そしたら折坂が俺にも怒る」
「松本、ここからだしてくれ」
川田が叫んでいる。横たわる横根とともに純白の結界に閉ざされていた。
「千葉ヤンキー、手を離せ」
「ちげーし。離すわけねーし。お前は目がいっている。またチビ天狗になる」
「チビは禁句だ! ピーナッツ女!」
夏奈はドーンであるカラスを必死に抱えていた。つつかれた腕から血がにじんでいる。
みんなが必死にあがこうと、先に進むどころか遠ざかっていく。
これはすべて、誰のせいだ?
「ドロシー武器を捨てろ」
俺のせいだ。俺が責任をとる。「さもないと俺が相手する」
麻卦さんの冥神の輪を拾い、立ちあがる。
いつもの静寂。俺が怒りを迎えたときの、周囲のものの緊張。
ドロシーは俺を懸命に見ていた。
「て、哲人さんもだまされている。そいつは武蔵野大狸。星は五つ。人の姿に化ける。人ほどに物欲であふれ、それを満たすため人の世に紛れる。人をかどわかし食べるとも言われる。だが、その正体を見破れるものは誰もいない」
執務室長が唾をのむ音がした。俺は彼を見る。
……この人を異形と見るのは難しい。金銭欲の権化だし、裏切られもした。それこそが妖怪の所業だ。でも人の本質だ。もっと妖怪じみた連中を、二十年の人生で見かけている。
「おもしろくもない。やっぱり頭がいかれていた」
大蔵司はドロシーに憎悪すら向けていた。
そりゃそうだ。露泥無は人に変げしようと、ちょっとずれた中身を隠せなかった。俺は麻卦さんと香港へ行ったけど、下品で横柄な親父としか見えなかった。出会った人の誰も、怪訝な顔を向けなかった。そもそも異形だった俺は、彼と触れることができなかった。ふわりと滑った。
この人は、人よりも人間臭い魔道士だ。忌むべき力をもって生まれただけで妖怪なんかではない。
だとしても俺はドロシーを信じる。ここにいる者で、俺だけが彼女を信じられる。
神獣との絶望的な戦いを、二人は互いを信じて生き延びた。俺にとって誰よりもドロシーが正しい。
彼女へと目を向けなおす。
「君の祖父も周婆さんも思玲も、麻卦さんと顔を合わせている。雅も露泥無もだ。誰一人そんなことを言わなかった」
「へへ、私しか見抜けないからだ。大蔵司なんか狸に尻尾を振っていた」
「その正体を誰も見破れない。それなのに?」
「……なにを言いたいの?」
それは君が魔女だから? 龍の弟だから?
そんなじゃないと分かっている。俺だけが分かっている。
「俺はいまの君を信じられない。頼むから武器をおろして」
みんな静まるなよ。俺と彼女しかここにいないみたいじゃないか。
「だから?」彼女は蒼白になった。「私だって魔道士だ。正義のためにここにいる。悪をのさばらせぬために、みんなを守るために……守って守られるために、故郷から弾き飛ばされて日本にいる」
俺は彼女を愛しい。いまだって抱きしめたい。こうして二人だけでいると、夏奈よりもずっと好きになったとわかる。でも俺だって守らないとならない。
「ドロシーの正義はねじれている」
だからそう告げる。
「そのままだと破滅する。誰も見向きしてくれなくなる。誰も守れなくなる」
「でも哲人さんは守ってくれる」
なんで笑みを向けられるんだよ。半泣きのロンリードロシー。
「だったら麻卦さんに謝りな。それでドーンも川田もみんな助かる。いまならば、まだゆるしてもらえる。そうですよね?」
「だから、そいつは化けた異形だよ。人なんかじゃない。影添大社は魔物の巣窟だ」
「聞けよ。それは自分のことだろ」
語気を荒げるなよ俺。「ねじれた感情を制御できない、お前こそ人じゃない」
「謝罪なんて必要ねえよ。俺達だって彼女にひどいことをした。互いに水に流すだけだ。大蔵司そうだよな」
しばらくして、麻卦さんがそう言ってくれた。俺から冥神の輪をひとつだけ受けとる。
ドロシーはまだ立ちすくんでいる。輪の片割れを握ったままで。
*
横根が目覚めると十字羯磨は消えた。川田は昼寝しだした。危うくなった現状に関わらぬように。
夏奈はハシボソガラスをずっと抱いている。龍の力がドーンから人が抜けるのを抑えている。そうとしか思えない。
「ドロシーちゃんは悪くない。ここの人も悪くない。悪いのはあいつだけだよ。冷血め」
夏奈が俺をにらむ。本気で怒っている。そういう奴だ。だから好きになった。いまだって二番目に。
「ううん。私が悪い。麻卦さんは人間だ。私がおかしかった。ごめんなさい」
ドロシーはまだ青ざめている。俺と目を合わせようとしない。その手の魔道具は消えていた。
「当然だ」大蔵司は彼女への敵意を隠そうとしない。「執務室長、いつまでこいつらを居させるですか?」
俺達への敵意も。なおも神楽鈴を手にしている。
「そりゃ王思玲を押しつけるまでだ。また電波をゆがませておけ」
執務室長がスマホを切る。「松本君だけちょっと来てくれ。今後についてアドバイスしたい」
祭祀場から出ていく。視線を浴びながら俺も廊下に向かう。
「人の気配が少ないだろ。だけど某庁からの出向をメインに、エリートさん達が働いてくれている。もちろんコネは除外させている。
彼ら彼女らは賢いから、本当の影添いに関わらない。ダミーだけど儲かる仕事を黙々とこなすだけだ。つまり、ここにいるものは、数人を除いて正真正銘の人間だ。宮司も、大蔵司も」
麻卦さんが屋内にある筒型灰皿に煙草の灰を落としながら言う。
「俺も深くは関わりません。忘れろと言われれば忘れます」
「時間がないよな? 含みをきかせた言葉などいらない。俺の話だけ聞け。
松本君は公園で俺を白虎から守ろうとした。ただの人間がだ。正直に言うと、青臭くて反吐がでそうになった。女にはモテるだろうけどな。
――滅多にない美人。まだ若いのにスタイルも悪くない。しかも自分の美貌を鼻にかけない。さらには一途。そんなのに惚れられたら、どんな男も骨抜きになる。心に決めた女さえ捨てるほどにな」
「夏奈のことを言っているのですか? 二人選ぶなんてできない」
「口をはさむなよ。そりゃあっちも中身はあれだが、まだかわいげがある。しかもきっと情熱的だぜ。それこそ一撃でどんな男も溶かす……脱線したじゃないか。
とにかくドロシーって娘はかわいい。あれこそ男を狂わす。連中の言い方を使えば、取り込む。盾にする。でもそうならなかった若い男がいた。その男は極限の状態で、究極美人を切り捨てた。仲間を選んだ。その四人を守るためにだ。
それこそが青臭い。でも、そういうのを俺は大好きだ。そういう人を俺は信じられる。力になりたいと思ってしまう。欲にまみれているだけじゃないからな。それを聞いてほしかった。
もうひとつあった。俺は人間だぜ。松本君が断言すれば、みんな嫌でも信じる。では、もう一人の美人を連れてきてやる。どろんとな」
麻卦さんが煙草の煙に包まれていなくなる。俺は外宮と呼ばれる広間へ戻る。
横根に目線でけしかけられて、ドロシーへ話しかける。ドロシーはよそよそしく笑う。すぐに目をそらす。大蔵司がにらんでいる。川田はまだ寝ている。
ドーンが夏奈の腕のなかで迦楼羅になる。夏奈が怒鳴るとカラスに戻る。その繰り返し。そして迦楼羅のまま。夏奈が抱きしめれば人に見えない姿に戻る。でもそこまで。
横根が俺を見ている。白猫だった横根。陽炎のビルの屋上で、最後まで一緒にあがいた白虎くずれ。
――松本君、もうみんな無理かも
二度と聞きたくないから目を逸らす。
「腹減った。喰い殺すぞ。俺は人間なんかじゃない」
そんな言葉こそ聞きたくない。何もできない俺は耳をふさぐ。川田も俺にすがる目を向けるだけ。
「ドーン君はまだ人だよ」
ドロシーが不意に言う。「だから癒しを授けてみる」
目をつむり、夏奈が抱えた迦楼羅のくちばしに唇を当てる。
「まじ? 哲人が見てるし。ていうか妬いているし、カカカ」
ドーンがカラスに戻る。その頭をドロシーがさする。夏奈がほほ笑む。
俺は二人を見ている。川田がドアへと顔を向ける。
「ひさしぶりだが、哲人とドロシーは死んで生き返ったらしいな」
思玲こそ唐突に入場してきた。
「だが二度と死ぬな」
黒ぶち眼鏡の下のきつい眼差し。白虎に襲われたときとは違うけど、俺のポロシャツと俺のジーンズ。靴は新品。長い髪をストレートにおろして、肌から日焼けが抜けていた。
その年齢の幼さが消えずに残っている。それなのに背高いから凛とした美しさを備えている。それだけであるはずない。おのれに課した責任。それが彼女を気高くさえ見せる。
続いて麻卦室長も入場する。
「韓流スターはキム老人と会いたくないようで出ていった。上野界隈なんぞで遊んでばかりの奴は、こっちから契約解除してやりたかった。私的に虎狩りを続けるだろ」
そう言って俺を見る。
「特例の特例の特例で、君達を特別に会わせてやる。影に添う肩書が宰相である俺の独断でな」
折坂さんが入ってきた。保育園児ぐらいの女の子を、両手で大事そうに抱えている。和装姿の七五三みたいなその子は、夏奈の胸もとのカラスを一瞥する。次いで横根を見て、顔を曇らせる。
「麻卦と折坂。まずはその娘のため捧げるぞ」
心の声で告げる。
次回「無音禰宜」
転がったままの麻卦さんの手にも冥神の輪が現れる。紺色の扇と交差させる。
白銀と紺色の螺旋。ドロシーの投げた輪が跳ね返される。
「護れ!」
緋色のサテンが現れるなり彼女の周りで旋回しだす。力を失った螺旋の光は霧散する。
冥神の輪は彼女の手に戻る。同時に投げる。
「噠!」
「くそ!」
麻卦さんは手にする輪を輪ではじく。衝撃で本人は転がる。両方の輪も逆方向に転がっていく。ひとつが俺のまえで横になる。
輝かない白銀弾以外に、ドロシーに他の魔道具はないよな。つまりリミッターになるものがない。あっても破壊されるだけか。
「戦うための魔道具に鹿を閉じこめたままだな。割れたらその子も消滅しちゃうだろ。極悪妖怪め」
両手をカニ型にして執務室長へ向ける。
「
わお、紅色の壁。破滅的密度あり過ぎ光弾群。俺もいるのに。
「台輔!」大蔵司が叫ぶ。
目の前にピンク色の尾びれが現れる。
「痛いきゅ、でも弱いきゅ」
悲鳴を上げながら、紅色の術を受け止めまくる。
「台輔ちゃんがここにも現れた!」
ドロシーが両手をおろす。
「薄めの術にしてよかった。大蔵司め、また式神を盾にしたな。貴様らは藤川匠か」
「お前に結界が通用しないからだ。……桃子の毒もきかなかったな。化け物め」
そう言って麻卦さんが冥神の輪を拾おうとする。それは意思あるように飛んでいく。ドロシーの手に戻る。
「うまくねえな。こいつは折坂にまた殺されるぞ」
「白虎もいるのだから来ないですよ。こいつらを追いださないかぎり、傍らから離れるはずない」
大蔵司がすり足で移動を始める。ドロシーを挟み撃ちにしようとしている……。
「待てよ! みんな終われ!」
ようやく俺は動きだす。「ドロシーは(俺がお寺で喰らって肋骨を数本折った)弱い術を(大量にだけど)選んだ。その意味を考えてくれ」
「逆さ人封!」
大蔵司は俺の言葉を聞きやしない。しかも初披露の凶悪そうな術名――、しめ縄がうねりながらドロシーへと飛んだ!
でもしめ縄は、師傅の護布にスライサーみたいに切断される。なにも起こさず即座に消滅した。
「大蔵司、勉強しろ。私を閉ざすことは叶わぬ」
ドロシーの肩に護布がおりる。
「弱い“殺”を選んだのは、哲人さんと大蔵司と台輔ちゃんと鹿ちゃんを殺さないためだ。軽いから勝手にいっぱいでちゃっただけだ」
連呼していた覚えもするが、彼女は一人だけをにらむ。
「お、俺は逃げるぜ」
麻卦さんの手に煙草が現れる。「……いや。そしたら折坂が俺にも怒る」
「松本、ここからだしてくれ」
川田が叫んでいる。横たわる横根とともに純白の結界に閉ざされていた。
「千葉ヤンキー、手を離せ」
「ちげーし。離すわけねーし。お前は目がいっている。またチビ天狗になる」
「チビは禁句だ! ピーナッツ女!」
夏奈はドーンであるカラスを必死に抱えていた。つつかれた腕から血がにじんでいる。
みんなが必死にあがこうと、先に進むどころか遠ざかっていく。
これはすべて、誰のせいだ?
「ドロシー武器を捨てろ」
俺のせいだ。俺が責任をとる。「さもないと俺が相手する」
麻卦さんの冥神の輪を拾い、立ちあがる。
いつもの静寂。俺が怒りを迎えたときの、周囲のものの緊張。
ドロシーは俺を懸命に見ていた。
「て、哲人さんもだまされている。そいつは武蔵野大狸。星は五つ。人の姿に化ける。人ほどに物欲であふれ、それを満たすため人の世に紛れる。人をかどわかし食べるとも言われる。だが、その正体を見破れるものは誰もいない」
執務室長が唾をのむ音がした。俺は彼を見る。
……この人を異形と見るのは難しい。金銭欲の権化だし、裏切られもした。それこそが妖怪の所業だ。でも人の本質だ。もっと妖怪じみた連中を、二十年の人生で見かけている。
「おもしろくもない。やっぱり頭がいかれていた」
大蔵司はドロシーに憎悪すら向けていた。
そりゃそうだ。露泥無は人に変げしようと、ちょっとずれた中身を隠せなかった。俺は麻卦さんと香港へ行ったけど、下品で横柄な親父としか見えなかった。出会った人の誰も、怪訝な顔を向けなかった。そもそも異形だった俺は、彼と触れることができなかった。ふわりと滑った。
この人は、人よりも人間臭い魔道士だ。忌むべき力をもって生まれただけで妖怪なんかではない。
だとしても俺はドロシーを信じる。ここにいる者で、俺だけが彼女を信じられる。
神獣との絶望的な戦いを、二人は互いを信じて生き延びた。俺にとって誰よりもドロシーが正しい。
彼女へと目を向けなおす。
「君の祖父も周婆さんも思玲も、麻卦さんと顔を合わせている。雅も露泥無もだ。誰一人そんなことを言わなかった」
「へへ、私しか見抜けないからだ。大蔵司なんか狸に尻尾を振っていた」
「その正体を誰も見破れない。それなのに?」
「……なにを言いたいの?」
それは君が魔女だから? 龍の弟だから?
そんなじゃないと分かっている。俺だけが分かっている。
「俺はいまの君を信じられない。頼むから武器をおろして」
みんな静まるなよ。俺と彼女しかここにいないみたいじゃないか。
「だから?」彼女は蒼白になった。「私だって魔道士だ。正義のためにここにいる。悪をのさばらせぬために、みんなを守るために……守って守られるために、故郷から弾き飛ばされて日本にいる」
俺は彼女を愛しい。いまだって抱きしめたい。こうして二人だけでいると、夏奈よりもずっと好きになったとわかる。でも俺だって守らないとならない。
「ドロシーの正義はねじれている」
だからそう告げる。
「そのままだと破滅する。誰も見向きしてくれなくなる。誰も守れなくなる」
「でも哲人さんは守ってくれる」
なんで笑みを向けられるんだよ。半泣きのロンリードロシー。
「だったら麻卦さんに謝りな。それでドーンも川田もみんな助かる。いまならば、まだゆるしてもらえる。そうですよね?」
「だから、そいつは化けた異形だよ。人なんかじゃない。影添大社は魔物の巣窟だ」
「聞けよ。それは自分のことだろ」
語気を荒げるなよ俺。「ねじれた感情を制御できない、お前こそ人じゃない」
「謝罪なんて必要ねえよ。俺達だって彼女にひどいことをした。互いに水に流すだけだ。大蔵司そうだよな」
しばらくして、麻卦さんがそう言ってくれた。俺から冥神の輪をひとつだけ受けとる。
ドロシーはまだ立ちすくんでいる。輪の片割れを握ったままで。
*
横根が目覚めると十字羯磨は消えた。川田は昼寝しだした。危うくなった現状に関わらぬように。
夏奈はハシボソガラスをずっと抱いている。龍の力がドーンから人が抜けるのを抑えている。そうとしか思えない。
「ドロシーちゃんは悪くない。ここの人も悪くない。悪いのはあいつだけだよ。冷血め」
夏奈が俺をにらむ。本気で怒っている。そういう奴だ。だから好きになった。いまだって二番目に。
「ううん。私が悪い。麻卦さんは人間だ。私がおかしかった。ごめんなさい」
ドロシーはまだ青ざめている。俺と目を合わせようとしない。その手の魔道具は消えていた。
「当然だ」大蔵司は彼女への敵意を隠そうとしない。「執務室長、いつまでこいつらを居させるですか?」
俺達への敵意も。なおも神楽鈴を手にしている。
「そりゃ王思玲を押しつけるまでだ。また電波をゆがませておけ」
執務室長がスマホを切る。「松本君だけちょっと来てくれ。今後についてアドバイスしたい」
祭祀場から出ていく。視線を浴びながら俺も廊下に向かう。
「人の気配が少ないだろ。だけど某庁からの出向をメインに、エリートさん達が働いてくれている。もちろんコネは除外させている。
彼ら彼女らは賢いから、本当の影添いに関わらない。ダミーだけど儲かる仕事を黙々とこなすだけだ。つまり、ここにいるものは、数人を除いて正真正銘の人間だ。宮司も、大蔵司も」
麻卦さんが屋内にある筒型灰皿に煙草の灰を落としながら言う。
「俺も深くは関わりません。忘れろと言われれば忘れます」
「時間がないよな? 含みをきかせた言葉などいらない。俺の話だけ聞け。
松本君は公園で俺を白虎から守ろうとした。ただの人間がだ。正直に言うと、青臭くて反吐がでそうになった。女にはモテるだろうけどな。
――滅多にない美人。まだ若いのにスタイルも悪くない。しかも自分の美貌を鼻にかけない。さらには一途。そんなのに惚れられたら、どんな男も骨抜きになる。心に決めた女さえ捨てるほどにな」
「夏奈のことを言っているのですか? 二人選ぶなんてできない」
「口をはさむなよ。そりゃあっちも中身はあれだが、まだかわいげがある。しかもきっと情熱的だぜ。それこそ一撃でどんな男も溶かす……脱線したじゃないか。
とにかくドロシーって娘はかわいい。あれこそ男を狂わす。連中の言い方を使えば、取り込む。盾にする。でもそうならなかった若い男がいた。その男は極限の状態で、究極美人を切り捨てた。仲間を選んだ。その四人を守るためにだ。
それこそが青臭い。でも、そういうのを俺は大好きだ。そういう人を俺は信じられる。力になりたいと思ってしまう。欲にまみれているだけじゃないからな。それを聞いてほしかった。
もうひとつあった。俺は人間だぜ。松本君が断言すれば、みんな嫌でも信じる。では、もう一人の美人を連れてきてやる。どろんとな」
麻卦さんが煙草の煙に包まれていなくなる。俺は外宮と呼ばれる広間へ戻る。
横根に目線でけしかけられて、ドロシーへ話しかける。ドロシーはよそよそしく笑う。すぐに目をそらす。大蔵司がにらんでいる。川田はまだ寝ている。
ドーンが夏奈の腕のなかで迦楼羅になる。夏奈が怒鳴るとカラスに戻る。その繰り返し。そして迦楼羅のまま。夏奈が抱きしめれば人に見えない姿に戻る。でもそこまで。
横根が俺を見ている。白猫だった横根。陽炎のビルの屋上で、最後まで一緒にあがいた白虎くずれ。
――松本君、もうみんな無理かも
二度と聞きたくないから目を逸らす。
「腹減った。喰い殺すぞ。俺は人間なんかじゃない」
そんな言葉こそ聞きたくない。何もできない俺は耳をふさぐ。川田も俺にすがる目を向けるだけ。
「ドーン君はまだ人だよ」
ドロシーが不意に言う。「だから癒しを授けてみる」
目をつむり、夏奈が抱えた迦楼羅のくちばしに唇を当てる。
「まじ? 哲人が見てるし。ていうか妬いているし、カカカ」
ドーンがカラスに戻る。その頭をドロシーがさする。夏奈がほほ笑む。
俺は二人を見ている。川田がドアへと顔を向ける。
「ひさしぶりだが、哲人とドロシーは死んで生き返ったらしいな」
思玲こそ唐突に入場してきた。
「だが二度と死ぬな」
黒ぶち眼鏡の下のきつい眼差し。白虎に襲われたときとは違うけど、俺のポロシャツと俺のジーンズ。靴は新品。長い髪をストレートにおろして、肌から日焼けが抜けていた。
その年齢の幼さが消えずに残っている。それなのに背高いから凛とした美しさを備えている。それだけであるはずない。おのれに課した責任。それが彼女を気高くさえ見せる。
続いて麻卦室長も入場する。
「韓流スターはキム老人と会いたくないようで出ていった。上野界隈なんぞで遊んでばかりの奴は、こっちから契約解除してやりたかった。私的に虎狩りを続けるだろ」
そう言って俺を見る。
「特例の特例の特例で、君達を特別に会わせてやる。影に添う肩書が宰相である俺の独断でな」
折坂さんが入ってきた。保育園児ぐらいの女の子を、両手で大事そうに抱えている。和装姿の七五三みたいなその子は、夏奈の胸もとのカラスを一瞥する。次いで横根を見て、顔を曇らせる。
「麻卦と折坂。まずはその娘のため捧げるぞ」
心の声で告げる。
次回「無音禰宜」