四十六の一 過重労働な式神
文字数 5,299文字
「もう一度焔曉に会いたいよお」
竹林が涙声ですがってくる。この聴覚は難問だし苦手だ。
「そう言われてあいつはどうした? ……哲人から命じろ」
「そう頼まれて峻計はどう答えたの?」
信号待ちのタクシーのボンネットに乗ったニョロ子へ、フロントガラス越しにお願いする。
「あきらめな。焔曉の足を斬ったのは松本哲人。奴の足と首をもぐことだけ考えろ」
あまり聞きたくない聴覚が車内に飛び込んだ。
「雅が思玲に会いたいと言っているのか?」
川田の問いかけにニョロ子が首を縦に振る。
「川田はすごいな」俺は感嘆するけど、
「気づかぬほうがおかしい。なので俺が代わりに瑞希を守る」
動きだしたタクシーから降りようとする。
「やめろ間抜けやめろ! こいつは寝ぼけたみたいですね。ドアは壊れていませんよ」
思玲が人の声で騒いだあと「瑞希が安全だと思うならば、雅は自己責任で植物園に来い。そうニョロ蛇に命じろ」
「だって。……ドーンはマジで安全なの?」
思玲から根拠の説明もなくそう言われている。なので雅は横根を守るそうだけど。
「私達よりはるかに安全だ。飛び蛇を送る必要すらない」
「信じるよ。それで雅はなんで思玲に会いたいの?」
「知らぬ。おのれの式神に聞け」
「我が主と二度と会えないかもしれない。同じ群れのよしみだ。私の頼みを聞き、伝令してくれ」
秋田新幹線の屋根から大宮駅の屋根に飛び乗り、腹部の傷を舐める雅。埼玉も不吉なぐらいに青空だ。
聴覚と視覚を残してニョロ子が消える。
「なにも告げずに行きやがったか。主に似てワークホリックな式神だ」
思玲が毒づく。
またニョロ子は俺だけに伝えたようだ。思玲に聞かせるのを避けたのか。
「ボスにだけ見せたが俺でもわかる。雌狼は、思玲が今夜死ぬと思っているのだろ」
川田が感情をこめずに言う。
「松本。右目が痛い。良くないことが起きそうだ」
助手席から振り返ると、川田はあるはずない片目を押さえることなく鼻をほじくっていた。タクシーが植物園正門の前で停まる。
「なので思玲は一人で戦うな。はやく降りろ」
鼻くそがついた手で思玲の肩を押す。
***
もちろん全員で戦うけど、入園料がひとり五百円もする。
「忍びこもう」
「しみったれるな」
こいつらのせいで現実感なき莫大な借金を背負わされた俺は、なにかで預かった大金の一部をリュックサックからだす。
とりあえず左回りする。池の向こうに深い林が見える。……晴れた日曜日の正午前。悲惨な事故がすぐ近くであったとしても、客がいないはずない。シートを手にした家族連れもいる。それでも樹木のが多い。この植物園は、俺が受験に失敗したところの関連施設だからな理由でもなく、単にいままで来たことはない。
平和ないつかドロシーを案内したいな……。横根のずるいずるいがよみがえる。
「川田、サングラスは?」
「なくした。だがスマホとこれはある」
ポケットからはみ出た天宮の護符を指でさす。
「落とすと困るから手に持っていな」
「なおさら危険人物に見えるだろ」
「だったら思玲が持つ?」
俺を守る木札を。
ちょっとだけ間があった。
「今後の私は自分のために戦う。なので用をなさぬ」
太陽の下では顔色の悪さが際立つ彼女が言う。
「悠長にはできない。三人で別れて探す」
思玲個人の戦い。あいつへの私怨……。どうせたどり着く場所はおなじだけど。
「一周三十分と書いてあるから固まって――」
パンフレットを見る俺の前にニョロ子が現れる。
「私は一時 だけ主のもとへ向かう。それを伝えてくれ」
駅ホームの片隅で、人の目に見えぬ雅が舌を垂らし片脚で頭をかきながら告げる。ニョロ子相手だからだらしない姿だけど、そのまま視覚で伝えられた。
「瑞希は?」川田が聞き、無視される。「松本が聞いてくれ」
「横根は?」
待ってましたとばかりに視覚が広角になり横へ移動する。課金系動画発信者より有能な撮影技術……電車を待つ彼女が見えた。赤羽駅だ、乗り換えか。
「ニョロ子ありがとう。すこし休む?」
血はあげないけど。
ニョロ子が浮かんだまま首を横に振る。
だったらこの子にしてもらいたいことは……、
・峻計の居場所を探し、先制攻撃する
・藤川匠の居場所を探り、先制攻撃する
・露泥無を探し、とりあえず話を聞く
・雅が来るならば、横根の傍らへチェンジしてもらう
・ドーンの様子を見てもらう
・九郎はどこにいる……は、どうでもいいか
有能な飛び蛇が四匹ぐらい欲しい状況だ。ニョロ子に四匹分働いてもらうしかない。
「よさそうな木を探させろ」
思玲がペットボトルの水を飲みながら言う。
「いや。まずは露泥無を探して。ついでにドーンの状況も」
「和戸はともかく、そっちは難問だな」
幼い思玲が腕を組む。ピンポイントで使える視覚でないか。
「私を勝手に使うな。しかし愛らしい娘だったな。哲人が少女に目覚めず済んでよかった」
たしかに俺はこの子の着替えシーンを視覚で見せられているけど、それよりは峻計の入浴シーンのが悔しいことにうずいた。
「のろい。俺はさきに探す」
川田が歩道をはずれて木々のなかに向かってしまった。一人にさせるのは危険だ。
「でも峻計や藤川を探すのもハードだよね。それもしてもらわないとならないから、がんばって探して」
ニョロ子がウインクして消える。
「見事な酷使だな。式神に対する愛を感じない」
ペンギンを香港まで往復させた思玲が言う。
「式神に逃げられる人に言われたくない」と言いかけてやめる。思玲だけには、そんな言葉をかけてはいけない。それにもうひとつの式神には…………でも、琥珀にはまだ会いそうな気がする。
「いつかたっぷりと休ませてあげるよ」
俺も周囲の目を気にせず、道からはずれて川田を追いかける。
「予想よりは緑が深いな。木霊の気配は皆無。だからここを選んだのか?」
いまさら思玲が聞いてくる。
「近いからなだけ」
「やはり適当か。ここは孤狗狸が祀られている」
「……お稲荷さんのこと?」
「おそらく。基本無害だがハラペコに頼るようで好まぬ」
「その呼び方もやめわあ!」
池の横を抜けて林に入るなり、面前に大男がぬっと現れた。
「松本、どんどん痛くなる。ここはよくない場所だ。俺は帰りたい」
右目があった場所を押さえながら言う。
「川田が言うならば従うべきかもな」
思玲が隣に来て言う。……息が切れている。術を使ったわけでもないのに。ずっと俺より強靭だったのに。だから銀丹もらえば良かったのに。
「思玲がそう思うならば当然そうすべきだ」
俺はきつい言葉をかけないとならない。
「でも魔道具がない思玲はリタイアだ。とても戦えない」
「……やっぱり誰よりもドライだな」
思玲が俺の横をすり抜けて林の奥へ向かう。
「川田も逃げるな。だが人がいる場所で戦うな。その時は自分の死を選べ。真に受けるなよ」
彼女から夏奈やドロシーと同じシャンプーの匂いがした。俺は思玲を追う。川田が俺の背後に続く。やけに貼りついてくる。怯えているみたいで俺まで怖くなる。
「思玲を見習え」
川田と自分を叱咤する。
***
『沈さんは式神に乗って帰ったよ。デニーさんが部屋に来て、ドロシーにニヤニヤべったり。私は空気』
「二人は何しているの?」
『術か何かの話だって。人の言葉で喋るから、全然わかんね。哲人は早く帰ってきて』
スマホを切られる。なおも夏奈は中国語が理解できぬようだが、ひとり龍でいた時間が長いからだけで、学習能力の個人差ではないだろう。……デニーめ。アラサー手前の分際で十代に近寄りやがって、通報してやろうか。
冗談だし、彼も夏奈を守ってくれているのだろう。そもそも俺が二人を置いてきた。
それでもリュックサックの外ポケットから天珠をだしタップする。雑音のあとにデニーがでやがった。
『彼女とてザーザー万能でなザーザー使える人は少ザーザーこの天珠は貴重ザーザー返してもザーザー』
「あなたの声だって雑音だらけですよ。それじゃ」
俺の声を聞き取れたか知らないけど天珠を切る。俺からこれを返してほしいようだけど、どうせドロシーには渡したままだろう。……手先が器用で知恵ある異形と通信した天珠。賑やかだった琥珀も九郎もいない。
「やだ、やめてよ。こっちに来ないでよ」
飼い猫らしきが向こう側で騒いでいる。藪を抜けたら、すぐに塀にたどり着いてしまった。その先は民家なので別ルートで戻る。林を歩くのにも慣れてきた。
「そこそこの木ならばあるが、そんなものは必要ない」
歩道に戻ったところで、汗だくの思玲がペットボトルの水を飲む。
「だがそろそろ不審者がいると通報がいきそうだ。お前達はもっとしっかり探せ」
空になったペットボトルを林に捨てやがる。
「俺だと無理かも」
ペットボトルを拾いリュックサックに入れながら答える。いまの俺は座敷わらしではない。
「思玲を呼んでいる木ならばある」
川田がつながった赤トンボを手にしながら言う。
「邪魔者がいて、そこへ連れていけない。しかも腹が減ってきた」
……邪魔者。峻計ではない。強敵ならば、手負いの獣人におやつを探す余裕はないはずだ。
「トンボを食べるなよ。とりあえず歩道を進み、ただの人の真似をしよう」
「こいつがか?」
「松本は言うのが遅い。食ってしまったが、白虎よりはうまい」
口から虫の羽根を吐きだす川田を先頭に歩道を進む。暴力の匂いただよう隻眼の大男。すれ違う父親が震える。子供が泣きだす。お爺さんが腰を抜かす。
「やっぱり林に入ろう」
「このまま進む」
俺の前を行く思玲がきっぱり言う。川田の早歩きに食らいついて歩いている。と思ったら、いきなり立ち止まった川田にぶつかり尻餅をつく。
「硬い体だな……鼻血がでてきた。哲人、チリ紙を持ってないか?」
「あるかもしれないけど、ドロシーの私物だらけだから探せない(ちょっと覗いてはいる)。それにあの玉がふたつあって邪魔だし」
「まだ取ってあったのか? 貧乏性め、割って捨てろ」
「不夜会の所有物だよ。お礼を言って返すのが筋……その木なの?」
川田は道脇の樹木を見上げていた。名称を記した看板もなさげな、ありふれた木。
「杉の木では割り箸も作れぬ」
思玲が鼻を手の甲でこすりながら言う。
「俺は隠れる。お前らでなんとかしろ」
川田が跳躍して、樹上に消える。人の流れが絶えているところでよかった。……でも川田が逃げるなにかが現れる…………前方から日向七実がやってきた。
「あれ? ほんとですか? 不思議なくらいの偶然ですね~」
「なんでお前がいる?」
思玲がにらむ。
「あの橋に花を捧げにきて、悲しいままだったから植物に慰めてもらいに……。デートですか? 松本君は私を着信拒否にしてませんか~」
俺は思わざるを得ない。川田の失った目を疼かせたのは、この人だろうか? この人と偶然に会えるなんてあり得るだろうか?
「見てのとおり逢引きの最中で、ストーカー女を迷惑電話に登録させたのは私だ。この後は鶯谷のホテル街に向かうので、さようなら」
思玲は深く考えることなくすれ違おうとする。
日向七実は立ちふさがる。その眼差しが変わる。
「あなたは顔色が悪いですよ。悪すぎるのに無理している。恋人は気にしてないみたいだけど、医者に行きましょう」
「そんな時間はない」
「あなた達が昨日言ったことを信じるから診てもらってください。……生気がない」
思玲は七実ちゃんを至近で見つめる。
「あなたの言うことを信じるから精神科医に行こうね。病院に閉じこもってね。昔から言われているので、心配は無用だ」
若い男女が立ち止まる俺達を追い越す。ファミリーがすれ違う。七実ちゃんは思玲を見つめ返している。
俺は思うしかない。退場した横根の代わりに、この人は現れたのではないかと。
「わかりました。過分なお世話でした」
だけど彼女は歩きだす。「迷惑な私からあなた達に連絡することはありません。でも助けが必要ならば、いつでもどうぞ。川田君によろしく」
これでいいんだと、俺は彼女の背を無言で見送る。俺達の戦いはじきに終わる。いまさら誰も引きずりこまない。
だけど彼女の肩にかけたバッグから、懐かしき電子音がした。
「あれ?」
日向七実が立ち止まる。ガラケーを取りだす。
人が落ちてきて、居合わせたお婆さん三人連れが悲鳴をあげる。
「こいつが七実か? 瑞希には劣るが、いい女じゃないか」
スマホを手に両足で着地した川田が、彼女を指さしながら俺へと言い、苦々しげの顔の思玲へ向きを変える。
「やっぱりこれは思玲が持て。松本を守ることが自分を守ることにつながる」
天宮の護符を突きだす。
「だったらなおさら川田が持て」
思玲はそれだけ言い腕を組む。
日向七実は呆気にとられている。それでも言う。
「川田君ひさしぶり。瑞希って誰?」
「我が主」
雅の声が頭上からした。
「横根瑞希は私の声が聞こえず姿は見えぬままなのに、『雅はいるの?』とつぶやきました。忌むべき記憶が戻ったようです。やはり私は彼女のもとにいます」
混乱必至のなかで、俺は夏奈の咆哮を思いだす。まったく余計なことを。
次回「獣人お勧めの強き樹木です」
竹林が涙声ですがってくる。この聴覚は難問だし苦手だ。
「そう言われてあいつはどうした? ……哲人から命じろ」
「そう頼まれて峻計はどう答えたの?」
信号待ちのタクシーのボンネットに乗ったニョロ子へ、フロントガラス越しにお願いする。
「あきらめな。焔曉の足を斬ったのは松本哲人。奴の足と首をもぐことだけ考えろ」
あまり聞きたくない聴覚が車内に飛び込んだ。
「雅が思玲に会いたいと言っているのか?」
川田の問いかけにニョロ子が首を縦に振る。
「川田はすごいな」俺は感嘆するけど、
「気づかぬほうがおかしい。なので俺が代わりに瑞希を守る」
動きだしたタクシーから降りようとする。
「やめろ間抜けやめろ! こいつは寝ぼけたみたいですね。ドアは壊れていませんよ」
思玲が人の声で騒いだあと「瑞希が安全だと思うならば、雅は自己責任で植物園に来い。そうニョロ蛇に命じろ」
「だって。……ドーンはマジで安全なの?」
思玲から根拠の説明もなくそう言われている。なので雅は横根を守るそうだけど。
「私達よりはるかに安全だ。飛び蛇を送る必要すらない」
「信じるよ。それで雅はなんで思玲に会いたいの?」
「知らぬ。おのれの式神に聞け」
「我が主と二度と会えないかもしれない。同じ群れのよしみだ。私の頼みを聞き、伝令してくれ」
秋田新幹線の屋根から大宮駅の屋根に飛び乗り、腹部の傷を舐める雅。埼玉も不吉なぐらいに青空だ。
聴覚と視覚を残してニョロ子が消える。
「なにも告げずに行きやがったか。主に似てワークホリックな式神だ」
思玲が毒づく。
またニョロ子は俺だけに伝えたようだ。思玲に聞かせるのを避けたのか。
「ボスにだけ見せたが俺でもわかる。雌狼は、思玲が今夜死ぬと思っているのだろ」
川田が感情をこめずに言う。
「松本。右目が痛い。良くないことが起きそうだ」
助手席から振り返ると、川田はあるはずない片目を押さえることなく鼻をほじくっていた。タクシーが植物園正門の前で停まる。
「なので思玲は一人で戦うな。はやく降りろ」
鼻くそがついた手で思玲の肩を押す。
***
もちろん全員で戦うけど、入園料がひとり五百円もする。
「忍びこもう」
「しみったれるな」
こいつらのせいで現実感なき莫大な借金を背負わされた俺は、なにかで預かった大金の一部をリュックサックからだす。
とりあえず左回りする。池の向こうに深い林が見える。……晴れた日曜日の正午前。悲惨な事故がすぐ近くであったとしても、客がいないはずない。シートを手にした家族連れもいる。それでも樹木のが多い。この植物園は、俺が受験に失敗したところの関連施設だからな理由でもなく、単にいままで来たことはない。
平和ないつかドロシーを案内したいな……。横根のずるいずるいがよみがえる。
「川田、サングラスは?」
「なくした。だがスマホとこれはある」
ポケットからはみ出た天宮の護符を指でさす。
「落とすと困るから手に持っていな」
「なおさら危険人物に見えるだろ」
「だったら思玲が持つ?」
俺を守る木札を。
ちょっとだけ間があった。
「今後の私は自分のために戦う。なので用をなさぬ」
太陽の下では顔色の悪さが際立つ彼女が言う。
「悠長にはできない。三人で別れて探す」
思玲個人の戦い。あいつへの私怨……。どうせたどり着く場所はおなじだけど。
「一周三十分と書いてあるから固まって――」
パンフレットを見る俺の前にニョロ子が現れる。
「私は
駅ホームの片隅で、人の目に見えぬ雅が舌を垂らし片脚で頭をかきながら告げる。ニョロ子相手だからだらしない姿だけど、そのまま視覚で伝えられた。
「瑞希は?」川田が聞き、無視される。「松本が聞いてくれ」
「横根は?」
待ってましたとばかりに視覚が広角になり横へ移動する。課金系動画発信者より有能な撮影技術……電車を待つ彼女が見えた。赤羽駅だ、乗り換えか。
「ニョロ子ありがとう。すこし休む?」
血はあげないけど。
ニョロ子が浮かんだまま首を横に振る。
だったらこの子にしてもらいたいことは……、
・峻計の居場所を探し、先制攻撃する
・藤川匠の居場所を探り、先制攻撃する
・露泥無を探し、とりあえず話を聞く
・雅が来るならば、横根の傍らへチェンジしてもらう
・ドーンの様子を見てもらう
・九郎はどこにいる……は、どうでもいいか
有能な飛び蛇が四匹ぐらい欲しい状況だ。ニョロ子に四匹分働いてもらうしかない。
「よさそうな木を探させろ」
思玲がペットボトルの水を飲みながら言う。
「いや。まずは露泥無を探して。ついでにドーンの状況も」
「和戸はともかく、そっちは難問だな」
幼い思玲が腕を組む。ピンポイントで使える視覚でないか。
「私を勝手に使うな。しかし愛らしい娘だったな。哲人が少女に目覚めず済んでよかった」
たしかに俺はこの子の着替えシーンを視覚で見せられているけど、それよりは峻計の入浴シーンのが悔しいことにうずいた。
「のろい。俺はさきに探す」
川田が歩道をはずれて木々のなかに向かってしまった。一人にさせるのは危険だ。
「でも峻計や藤川を探すのもハードだよね。それもしてもらわないとならないから、がんばって探して」
ニョロ子がウインクして消える。
「見事な酷使だな。式神に対する愛を感じない」
ペンギンを香港まで往復させた思玲が言う。
「式神に逃げられる人に言われたくない」と言いかけてやめる。思玲だけには、そんな言葉をかけてはいけない。それにもうひとつの式神には…………でも、琥珀にはまだ会いそうな気がする。
「いつかたっぷりと休ませてあげるよ」
俺も周囲の目を気にせず、道からはずれて川田を追いかける。
「予想よりは緑が深いな。木霊の気配は皆無。だからここを選んだのか?」
いまさら思玲が聞いてくる。
「近いからなだけ」
「やはり適当か。ここは孤狗狸が祀られている」
「……お稲荷さんのこと?」
「おそらく。基本無害だがハラペコに頼るようで好まぬ」
「その呼び方もやめわあ!」
池の横を抜けて林に入るなり、面前に大男がぬっと現れた。
「松本、どんどん痛くなる。ここはよくない場所だ。俺は帰りたい」
右目があった場所を押さえながら言う。
「川田が言うならば従うべきかもな」
思玲が隣に来て言う。……息が切れている。術を使ったわけでもないのに。ずっと俺より強靭だったのに。だから銀丹もらえば良かったのに。
「思玲がそう思うならば当然そうすべきだ」
俺はきつい言葉をかけないとならない。
「でも魔道具がない思玲はリタイアだ。とても戦えない」
「……やっぱり誰よりもドライだな」
思玲が俺の横をすり抜けて林の奥へ向かう。
「川田も逃げるな。だが人がいる場所で戦うな。その時は自分の死を選べ。真に受けるなよ」
彼女から夏奈やドロシーと同じシャンプーの匂いがした。俺は思玲を追う。川田が俺の背後に続く。やけに貼りついてくる。怯えているみたいで俺まで怖くなる。
「思玲を見習え」
川田と自分を叱咤する。
***
『沈さんは式神に乗って帰ったよ。デニーさんが部屋に来て、ドロシーにニヤニヤべったり。私は空気』
「二人は何しているの?」
『術か何かの話だって。人の言葉で喋るから、全然わかんね。哲人は早く帰ってきて』
スマホを切られる。なおも夏奈は中国語が理解できぬようだが、ひとり龍でいた時間が長いからだけで、学習能力の個人差ではないだろう。……デニーめ。アラサー手前の分際で十代に近寄りやがって、通報してやろうか。
冗談だし、彼も夏奈を守ってくれているのだろう。そもそも俺が二人を置いてきた。
それでもリュックサックの外ポケットから天珠をだしタップする。雑音のあとにデニーがでやがった。
『彼女とてザーザー万能でなザーザー使える人は少ザーザーこの天珠は貴重ザーザー返してもザーザー』
「あなたの声だって雑音だらけですよ。それじゃ」
俺の声を聞き取れたか知らないけど天珠を切る。俺からこれを返してほしいようだけど、どうせドロシーには渡したままだろう。……手先が器用で知恵ある異形と通信した天珠。賑やかだった琥珀も九郎もいない。
「やだ、やめてよ。こっちに来ないでよ」
飼い猫らしきが向こう側で騒いでいる。藪を抜けたら、すぐに塀にたどり着いてしまった。その先は民家なので別ルートで戻る。林を歩くのにも慣れてきた。
「そこそこの木ならばあるが、そんなものは必要ない」
歩道に戻ったところで、汗だくの思玲がペットボトルの水を飲む。
「だがそろそろ不審者がいると通報がいきそうだ。お前達はもっとしっかり探せ」
空になったペットボトルを林に捨てやがる。
「俺だと無理かも」
ペットボトルを拾いリュックサックに入れながら答える。いまの俺は座敷わらしではない。
「思玲を呼んでいる木ならばある」
川田がつながった赤トンボを手にしながら言う。
「邪魔者がいて、そこへ連れていけない。しかも腹が減ってきた」
……邪魔者。峻計ではない。強敵ならば、手負いの獣人におやつを探す余裕はないはずだ。
「トンボを食べるなよ。とりあえず歩道を進み、ただの人の真似をしよう」
「こいつがか?」
「松本は言うのが遅い。食ってしまったが、白虎よりはうまい」
口から虫の羽根を吐きだす川田を先頭に歩道を進む。暴力の匂いただよう隻眼の大男。すれ違う父親が震える。子供が泣きだす。お爺さんが腰を抜かす。
「やっぱり林に入ろう」
「このまま進む」
俺の前を行く思玲がきっぱり言う。川田の早歩きに食らいついて歩いている。と思ったら、いきなり立ち止まった川田にぶつかり尻餅をつく。
「硬い体だな……鼻血がでてきた。哲人、チリ紙を持ってないか?」
「あるかもしれないけど、ドロシーの私物だらけだから探せない(ちょっと覗いてはいる)。それにあの玉がふたつあって邪魔だし」
「まだ取ってあったのか? 貧乏性め、割って捨てろ」
「不夜会の所有物だよ。お礼を言って返すのが筋……その木なの?」
川田は道脇の樹木を見上げていた。名称を記した看板もなさげな、ありふれた木。
「杉の木では割り箸も作れぬ」
思玲が鼻を手の甲でこすりながら言う。
「俺は隠れる。お前らでなんとかしろ」
川田が跳躍して、樹上に消える。人の流れが絶えているところでよかった。……でも川田が逃げるなにかが現れる…………前方から日向七実がやってきた。
「あれ? ほんとですか? 不思議なくらいの偶然ですね~」
「なんでお前がいる?」
思玲がにらむ。
「あの橋に花を捧げにきて、悲しいままだったから植物に慰めてもらいに……。デートですか? 松本君は私を着信拒否にしてませんか~」
俺は思わざるを得ない。川田の失った目を疼かせたのは、この人だろうか? この人と偶然に会えるなんてあり得るだろうか?
「見てのとおり逢引きの最中で、ストーカー女を迷惑電話に登録させたのは私だ。この後は鶯谷のホテル街に向かうので、さようなら」
思玲は深く考えることなくすれ違おうとする。
日向七実は立ちふさがる。その眼差しが変わる。
「あなたは顔色が悪いですよ。悪すぎるのに無理している。恋人は気にしてないみたいだけど、医者に行きましょう」
「そんな時間はない」
「あなた達が昨日言ったことを信じるから診てもらってください。……生気がない」
思玲は七実ちゃんを至近で見つめる。
「あなたの言うことを信じるから精神科医に行こうね。病院に閉じこもってね。昔から言われているので、心配は無用だ」
若い男女が立ち止まる俺達を追い越す。ファミリーがすれ違う。七実ちゃんは思玲を見つめ返している。
俺は思うしかない。退場した横根の代わりに、この人は現れたのではないかと。
「わかりました。過分なお世話でした」
だけど彼女は歩きだす。「迷惑な私からあなた達に連絡することはありません。でも助けが必要ならば、いつでもどうぞ。川田君によろしく」
これでいいんだと、俺は彼女の背を無言で見送る。俺達の戦いはじきに終わる。いまさら誰も引きずりこまない。
だけど彼女の肩にかけたバッグから、懐かしき電子音がした。
「あれ?」
日向七実が立ち止まる。ガラケーを取りだす。
人が落ちてきて、居合わせたお婆さん三人連れが悲鳴をあげる。
「こいつが七実か? 瑞希には劣るが、いい女じゃないか」
スマホを手に両足で着地した川田が、彼女を指さしながら俺へと言い、苦々しげの顔の思玲へ向きを変える。
「やっぱりこれは思玲が持て。松本を守ることが自分を守ることにつながる」
天宮の護符を突きだす。
「だったらなおさら川田が持て」
思玲はそれだけ言い腕を組む。
日向七実は呆気にとられている。それでも言う。
「川田君ひさしぶり。瑞希って誰?」
「我が主」
雅の声が頭上からした。
「横根瑞希は私の声が聞こえず姿は見えぬままなのに、『雅はいるの?』とつぶやきました。忌むべき記憶が戻ったようです。やはり私は彼女のもとにいます」
混乱必至のなかで、俺は夏奈の咆哮を思いだす。まったく余計なことを。
次回「獣人お勧めの強き樹木です」