八の二 マジで空気

文字数 3,814文字

 一時間以上も待たされるとは思わなかった。不安になったころに、夏奈と横根が並んで出てきた。
 二十三区だろうと朝の澄んだ空気。二人ともプリントされたTシャツにジーンズのラフな格好だ。ちゃんとお泊りセットのカバンも手にしている。このまま帰宅できる。

「くさ! 川田君の服は何日目?」
 夏奈が鼻を指でつまむ。大袈裟ではないみたい。
「犬みたいな匂い。ビルの地下にランドリーあるから洗いなって。シャワーも浴びなよ」

「松本とドーンがいる。これからは五人一緒だ」

 川田が教えたとおりに人の言葉を発する。同時にドーンがガアガアと鳴きながら降りてくる。

「五人って、カラスと見えないお化けも? ははは」
「わ、笑っちゃ駄目だよ。やかんを持っているのが松本君だね?」

 中学一年生ぐらいの横根が位置を推測して俺へと微笑む。だけど俺は浮かぶやかんの右側にいる。それでもやかんを振って挨拶する。
 ……二人の声は異形の俺にも流ちょうに届く。なのに俺の声も姿も二人には届かない。

「目が回るからやめてくれ。川田は、僕もいることを伝えてくれ」
 露泥無をずっと振りぱなしだった。

「自分でしろ。面倒だから俺はもう喋らん」
 川田は地面に寝ころんでしまった。

「ざけんなよ、琥珀のスマホがないんだから、川田がメッセンジャーだろ」
 ドーンが川田の頭に降りてつつく。川田は気にしない。

「ははは、カラスやばすぎ。人に見られるって」
 夏奈がしゃがんで川田の腕を引っ張る。川田はふて寝をやめない。

 思玲と大蔵司はどうした? 折坂さんは来ないのか? こうなるとどうにもならない。砂に異形が文字を書こうが、あっちの世界の二人には落書きにしか見えない。
 ……台湾ビーチでの日焼けを残して人に戻った夏奈は、白い肌に戻ってきた。二十歳になったんだよな。老化の兆しなどあるわけないけど……かわいい横顔。正面から見たいのに。見つめ合いたいのに。

「主はどうした?」雅が台輔に聞く。

「どっちの主? きゅきゅきゅ」
「私とお前の両方だ」
「狼は怖いな、食べないでな、きゅーきゅー。連絡なしだからここで待機。封じられていない式神はそう決まっている。きゅきゅきゅ」
「私は待たない。――松本。思玲様のもとに向かうぞ」

「まだじっとしていよう」
 雅を制する。夏奈と横根がいるなら無理する必要ない。

 ドーンが羽根を使った身振りで二人に何かを伝えようとしている。横根はきょとんとしている。夏奈は笑いながら撮影する。だ、駄目だよと横根が慌てる。
 禁止されなければ三石にでも送信しただろう。それとも……藤川匠。
 そんなはずないと分かっているけど、もしあいつが目の前に現れたら、夏奈は目を輝かせて奴へ歩む。龍であったときに殺されかけた記憶がないのだから。「二人揃って成人しちゃったね」とただただ久しぶりの邂逅。

「収拾がつかない。それに歩行者が目立ち始めた。いつまでも浮かんだやかんでいられないので、僕は変げする」
 いきなり、俺の手もとでやかんが黒いリュックサックに変わる。
「布地の姿だと傷つきそうで不安だ。しっかり守ってくれ」

「なにそれ? 松本哲人のもの?」
 夏奈が気づく。俺へと歩いてくる。目が合うはずない。
「私に貸して。ははは、サブバッグ忘れたからちょうどいいし」
 浮かぶリュックを奪いとる。なんて奴だ。

「ぼ、僕の中に荷物を入れる気か。誰かやめさせろ」
「ハラペコうるさい」

 川田がいきなり起きあがった。その横へ雅が並ぶ。
 二体の異形が目を向ける先に折坂さんが歩いてきた。整えた黒い短髪。半袖の白いポロシャツ。スラックス。格好いいけど異形の気配。

「君達は賑やかだな」

 この人は呆れた笑みを向けてくる。俺は真っ先に聞かなければならない。

「小鬼から聞きました。ここに白虎が現れたそうですね」
 言いながら、盾となるため夏奈のもとへ歩く。彼女は気づきもしない。折坂さんへとにこやかに挨拶するだけ。

「おはよう。社にいるのは今日までだってね」
 折坂さんは夏奈に笑みを返したあと、俺へ目を向ける。
「王思玲ともども好きにしろと伝えただけだ。私達が半島の虎に協力していたら、君はすでにいない」
 人の言葉のままで言う。

 怒りが湧かない。背筋が凍えただけだ。俺達へ場違いな復讐心を持つ巨大な白虎を傍観した。それを淡々と言えるなんて、やっぱりこの人は異形だ。

「え? ま、松本君と話しているのですか? それってどういう意味ですか?」

 横根の顔色が変わる。その肩を川田が乱暴につかむ。「さがれ」と後ろに押す。
 
「カカカ、引き渡したと同じじゃね?」
 ドーンが俺の前でホバリングする。「て言うか思玲は?」

 大和獣人相手にも怯まないのがドーンの尊敬すべきところだ。でも折坂さんはカラスの問いかけをスルーする。

「桜井君にそのカバンは似合わないな」
 彼女へと笑うだけ。

「そうっすか? 松本君って妖怪のものっぽいけど」
 夏奈が笑いかえす。俺と目が合うはずない。

「しばらく借りていな。カップ麺を食べたくなったらやかんになってくれる」
 折坂さんが背を向ける。
「屋上から女性四人が旅立つ。桜井君と横根君は向かうように。狼は来るな。台輔もだ。ヘリはそのまま桃子を使う」

「それは断りましたけど……松本君は? ドーン君と川田君は?」
 横根が折坂さんへと歩こうとして、

「だめだ」
 川田にがしりと抱きかかえられる。

「わあ、川田君やばいって」
 夏奈が目を丸くする。俺には話しかけない。
「折坂さん。台湾人が何か言っていたけど、私は家に帰りますよ。お化けより親のが怖くなってきた」

 じゃあ松本君またね。なんて言葉をかけてくれない。
 俺達から離れてはいけない。そんな言葉さえかけられない。

「わ、私も夏奈ちゃんの家に行きます。みんなで行きます」
 川田に抱かれた横根は、嫌そうで臭そうな顔をしている。体格差があり過ぎて逃げられない。

「さすがに男は泊められないよ。カラスも、お化けも、ははは」

 だったら俺達はどこへ向かう? 男三人は固まっていればどこでもいい。横根にしても……だけども。

「夏奈は永遠に標的だ」

 俺は聞こえない声をかける。見えない手で夏奈の手を握ろうとする。強い感情。一瞬だけど触れ合えた。

「……いまの何?」
 夏奈の顔が青ざめる。折坂さんのもとへ駆け寄る。

「王思玲の言葉を伝える。――台湾に行くだけだ。今日中に帰れる」
 折坂さんは夏奈を無視して歩きだす。
「強い異形どもだらけだから、私が来た。横根君にもたしかに伝えた」

「ま、待ってください」
 横根が川田の腕を引きはがそうとしながら言う。
「松本君、どうしたらいいの?」
 見えない俺の聞こえない声を待っている。

「俺達だってどうすりゃいいわけ?」
 ドーンが折坂さんの背中に声かけるけど、彼は答えずに遠ざかっていく。

「分かった。台湾プチ旅行だ」
 夏奈が折坂さんを追いかける。思慮なきアクションだ。

「ま、待ってよ。どうすればいいの? 思玲を呼んでよ」
 横根はうろたえるだけ。

「僕まで連れていく気か。降ろしてくれ。それよりもとの姿に戻してくれ。何度も言うが、これは上海不夜会に対する絶縁状だ」
 夏奈の背中でリュックサックが騒いでいる。

「……どうしたらいい?」
 混乱のなかで、一番に親しかった友へ聞いてしまう。

「龍は好きにさせて、松本のすみかに行こう。俺は一度行っているから覚えている」

 たしかに二人で歩いて様子を見に行ったことがあるけど……そんな回答は欲しくない。

「主が心配だ」
 雅が俺を見上げる。「だが思玲様に代わり私も横根を守る。心ひろき我が主はそれを望む。私には分かる」

 横根を守る? 彼女は狙われる存在ではない……。峻計がいる。俺達全員に憎悪を向けてもおかしくない。
 それよりも今直面していることは、笑みを向けることもなく夏奈が遠ざかっていくこと。

「俺達も台湾へ行こう」
 三人に告げる。「折坂さんお願いします」

「俺と瑞希とドーンは行かない」
 川田が横根を抱いたままで言う。「松本だけ行け」

「そういうことだ」
 折坂さんが振り返る。
「横根はどっちでもいい。来たいと騒ぐならば、松本哲人は呼んでくれとのことだ。他は不要(プヤウ)だそうだ」
 また歩きだす。私見なき完璧なまでのメッセンジャー。

「カッ、あの二人だけならば、そりゃ哲人にいてほしいよな」
 ドーンが俺の頭に降りる。
「横笛は置いていけよ」

 心はあまり揺れなかった。夏奈を守るとか、粗暴系の女魔道士と女陰陽士だけでは心配とかは建前で、夏奈の横にいれる。どうせ空気であろうと。
 こっちの世界に来るかどうかは、夏奈が決断することだ。

 俺はシャツの中に手を入れる。四玉の箱と独鈷杵は持っていく。
「横根、これをよろしく」聞こえない声をかけながら、笛を浮かばせる。

「ドーン君のだね。やっぱり松本君は向かうのだね」

 俺と目を合わせられぬ不安げな眼差し。それでも笛を受けとり、カバンから紙垂型の木札をだす。……天宮の護符。俺を守る護符。

「ありがとう」と手を伸ばす。力がかかったのを感じて、横根が手を離す。

「カカッ、お土産よろしくな。ふるびた木箱。割れてない玉が入っている奴」

 そう言って、ドーンが空へと浮かぶ。朝日が漆黒を朱色に照らす。
 俺は折坂さんと夏奈を追いかける。……しかし台湾だと? いまさら俺は肝心なことを思いだす。
 思玲の案に従ったら、ろくなことが起きない。




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