二十四の一 スマホとリュックサック

文字数 3,579文字

 シルキーでミルキーな世界。空飛ぶジムニーは目立ち過ぎなので雲のなかを進む。千葉まで三十分だそうだ。ガソリンのメーターは満タンのまま。速度メーターは振り切っている。

 ドロシーは話題が琴線に触れない限り、基本静かだ。うつむいていることもある。今は太ももの上で俺の手を握っている。痛覚なきまま腕の筋肉がこわばりそうなので離そうとすると、なおさら強く握る。たまにつらそうに息を吐く。
 大丈夫? とか声かけるのはやめておく。無理したような明るい声ではしゃぎだすのを知っているから。しかも大声で。疲れ果てているのに。

「悲鳴からして脳天に二発は当てたのに、本当の姿をレベル11で倒せなかった。東京では一発で済ませたのにな」

 琥珀が荷台みたいな後部座席に浮かび悔しがっている。
 二度ほど暴雪の口の中で圧死しかけたが、やはり波動のせいだったのか。

『神獣なんて偉そうな肩書があろうと、人の姿だと耐久力が落ちるってわけだ。あれだけ無差別にぶっ放すのを見たら、今後は町でも怖くて人にならんだろ、チチチ』

 ノイズ混じりのカーラジオから九郎が告げる。……神獣の力が俺の致命傷を全快させた。肉球からの癒しは、ぽかぽかの陽だまりで、俺が受けた治癒の力のなかで断トツにやさしかった……。あんなのが神獣でも聖獣でもあるはずない。

「琥珀ちゃん、スマホのクラウドサービスもロック解除されたよね。私のアカウントにアクセスして」

 ドロシーが後ろに倒した助手席で目をつぶったままで言う。相変わらず唐突だけど、顔色が良いはずない。

「その機能も風の巨人の力を利用しているから、異形専用に制限しているのだろ。無害な連中をだまして脅して……。管理者が率先してルールを破るなよ」
「ルールは破るためにある。それがあの子達の解放につながる」
「民主化運動かよ」

 政治的に危ない話は避けてほしい。ともかく琥珀がドロシーに辟易とするのはいつものことだ。……クラウドサービスとは、白い玉の光の一部を閉じこめたものだよな。内通者であることがばれた琥珀は、峻計に漆黒の光を当てられる直前にそこへ逃れ、生ものと判断されて長いこと閉じこめられた。そこだけルール遵守なら憤慨するのも仕方ないけど。

――君は物の怪系? けだもの系?

 思えば、あのときに電話でやり取りしたのがドロシーだった。彼女とのファーストコンタクトだった。

――私の一存だから内緒にね

 あのときから独断専行していた。声がでかかった。

――じゃあね異形ちゃん、いつか会いたいね。ヘヘ

 保留音でスタンドバイミーが流れた……。カーラジオのボリュームつまみが勝手に動いたぞ。

『おい、あれじゃねーだろな? 俺のなかでだすなよ』
「だから、あれは消えたって! ……本当だよ。IDは『l、o、n、e、l、y、d、o、r、o、t、h、y』」

 ロンリードロシーか。

「変なIDでしょ、へへ。だけど、もう寂しくない。一人じゃない」

 ちょっと重く感じた。でも惑わない。すべてが終わっても青いままの目でいれば、俺は彼女を忘れない。

「入力したよ。パスワードは?」
「rYtt6wq&cZD#S$sq460Oo0p5%j9!!!Q2nnvX0+-|\¥^^¥」
「打てるかよ」
「だったら人でも操作できるようにする。いったん消してから電源ボタンを六十一秒ぴったり長押しして。『自爆しますか?』って表示されるけどそれはダミー。イエスを押してピンコード入力すればOK」
「そんな裏技があったのかい。コードの登録してないし」
「代理店でもある私がしておいた。そのスマホのは、えーと2236ー1579ー6458ー9303ー7564ー5963だけ。五文字目以降を間違えると自爆するからゆっくりね」
「勝手にするなよ。一文字ずつ言えよ」

 しばらくして、俺より明らかに羅列記憶力があるドロシーが、琥珀のスマホを操作しだす。画面からにゅっと現れて彼女がのけぞる。
 懐かしすぎる迷彩柄の小ぶりなリュックサックが、ドロシーの膝の上に落ちる。

「没収される前に、ここに隠しておいた。最低限のお出かけセットを入れてある。これもだった」

 彼女は外ポケットから鍵をとりだす。法董の輪で横に分断された、俺の部屋の鍵だ。ドアは異形の姿でも入れるように開けたままだけど、彼女の手から受けとる。

「四玉の箱が入っているはずないけど、はい」

 ドロシーは当然のようにリュックサックも俺へと渡す。この中には指揮棒も軽機関銃もない。もっと怖いものも、彼女の手からなくなった。

 *

『多摩川を越えたぽい。ここからは念のため都心を避けて武蔵野線に沿って進む。それでも二十分で到着だ。お前らだけ寝るんじゃねえぞ』

 カーラジオが教えてくれる。しかし乗り心地の悪い車というかペンギンだ。空中なのにガタガタ揺れる。

老公(ダーリン)、おなかすいた。シャワー浴びたい。トイレにも行きたい。着替えたい」

 おのれの要望に忠実なわがままドロシーが言いだす。我慢してよハニー、と言えばいいのだろうか。
 人の世界にタイトなチャイナドレスは避けるべきかも。下着も履くべきだ。俺にしても、ぼろきれに近づいたドロシーの父のシャツから着替えるべきだよな。あらたな傷は腹部にでっかい穴。おそらく背中にも。

老公(旦那様)? 香港十代は彼氏にも“老公”を使うのか?』

 九郎であるジムニーがラジオ経由で言う。
 ドロシーが赤面した。

「ネットで読んだ小説の真似しただけ。でも、もう使わない」
 人と接することできないロンリードロシーがうつむく。

「かわいいと思うよ。日本人の俺の心にはダーリンってニュアンスで伝わる」

 ドロシーが目を輝かした。
「だったらdarlingにする。ダーリン、へへ、ダーリン」
 英語を心で伝えながら俺へと寄りかかる。

『俺のなかでいちゃつくな。(つが)っていやがるし(交際することの鳥類系の言い回し。ドーンから聞いている)、桜井が怒るぞ、知らねーぞ。二股三角に戻れ』
 デリカシーなきジムニーが騒ぐ。

「仕方ないよ」と琥珀が言う。「そりゃくっつくだろ。導きだよ。――九郎、哲人の部屋に寄ろうぜ。たしかにこいつら猫のよだれ臭い。川田が卒倒する」

『しかし、そいつを選ぶかよ。たった今、こいつの所業を見ただろ。外見だけ。中身は壊れている』
「九郎。それくらいにして」

 またドロシーがうつむいてしまうから。
 俺は修繕されて綺麗になったリュックサックに手を差しこんでみる。やはりトラップは発動しなかった。
 ジムニーはUターンして、多摩川を再び超える。最低限の寄り道は仕方ない。この服装のままでは人の世界に戻ったと言えないし。

「哲人さんの部屋か。二度目だ」
 ドロシーがはにかむ。「違った。ダーリンの部屋。今度は二人きり」

 あのときに、“楊聡民の杖”にドロシーの血を染み込ませた。そして横根へと持たせた――。その名称は違う杖だった。いまは峻計がもつ、俺を殺した杖のことだ。

「横根は杖を持ったまま?」

「杖? そうだけど、あれは棒だろ」
 琥珀が答える。「仰々しく呼ぶな、恥ずかしい。誰が言いだした?」
『我らの主に決まってら、チチチ』
「……あれを青くしたのはおそらく峻計。もうひとつの杖を使ってだ」

「……楊聡民の杖」
 どちらも楊偉天の息子が作った杖。

「そう。いまは瑞希ちゃんの血でつながっている。毎日リストカットしているけど傷跡はのこらない」

 想像させるなよ。かなり辛い。

「私の血が消えたら罠が復活した。大蔵司が棒へ吸われそうになったのに残念」
 ドロシーが苦々しくつぶやく。
「仕方ないから私が魔道士避けの罠を消した。もう誰が触っても大丈夫」

「簡単な作業だったんだ」
 思玲は閉じこめられたのに。

「子どものときに台湾で昇おじちゃんに見せてもらった。……あの人ももういないのか」
「劉師傅のこと?」
「うん。やさしかった……。沈大姐は四玉の箱の罠を消そうとしてやめた。私は失敗を恐れず試してみた。でも、あの杖は邪だ。私はいらない」

 峻計も見ただけで魔道士の術を掠めた。同じぐらい薄気味悪さを感じたなんて口にするはずない。

「失敗するとどうなっていたの?」
「もちろん吸われたか死んでいた」
「……やっぱりドロシーはすごいね」
「へへ。哲人さんに褒められるとうれしい」
 
『到着したぞ。琥珀も一緒にいけ』
 カーラジオが言う。速すぎ。『さもないと、こいつら午前からやり始めるぜ、チチチ』

 品のないジムニーだ。何も起こすはずないけど、ドロシーがマツダスタジアムの外野席ぐらい真っ赤になったじゃないか。かわいすぎる。気味悪いはずがない。

「新しい彼女を欲望の目で見つめるなよ。たしかに僕も降りるべきだな。どうせレベル11も使えないし」

 明け透けな小鬼も乗ったジムニーが高度を下げて雲を抜ける。東京近郊の景色がいきなり広がる。




次回「新しい彼女をさっそく部屋に連れこむ」
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