三十七の二 向かいあう二人
文字数 4,752文字
「松本君が乗り気の顔をしているので、老婆心から
麻卦さんが煙草に火をつける。
「偏見だからな。まずひとつ、治験のバイトはするな。ついで、中国の食べ物を口にするな。さらに、香港ガールの幽閉は解かない。そしてもう夜だ、川田を部屋へ戻せ。そんでもう夜だぜ。貪欲な龍を倒すことを考えてくれ」
「川田! さきに部屋戻っていて。大蔵司が一緒に行ってくれる」
俺は勝手に仕切り「ドロシーがいなくて貪に勝てるはずない」
俺は異形になるのが絶対条件だ。生身だと耐久力がなさすぎる。でもリクガメになったら戦えない……。朱雀の資質あるドロシーはすごい鳥になりそうだ。瞬間だけ異形になったときもふわふわ浮いていたし飛べそうだ。……しかもだ。異形だと純度百の白銀弾を撃てない。自分こそが消滅する。
横根には来てほしいけど、もはや戦地へ向かわせない。思玲には頑張ってほしい。夏奈と川田は静かにしていてもらいたい。大蔵司、イウンヒョクもいてくれたら最高だ。
だが貪は臆病なほどに賢い。祓いの者がそろったら顔をださない。
「ニョロ――忍は貪を探ってきて」
まずは動きだせ。俺の有能な式神は即座に姿を消す。ついで黒猫を見下ろす。
「失敗だったら解除できるか?」
「理屈のうえではね。だが二日間のタイムリミットに関しては、試してないのだから不明だ」
四十八時間……。玄武くずれならば、俺もそれに捉われる。だとしても、それをみんなは経験してきた。
「だったら儀式を受けていい。でも上海にも龍狩りを手伝ってもらう。最低限の人数で向かうから、沈大姐かデニーのどちらか、式神は唐か殲だけでいい。俺達はドロシーと――」
「俺は行かない。松本の代わりに瑞希を部屋に呼びたい」
川田が戻ってくるなり言う。
「本当の川田だったら先頭で戦う。横根を守るためにだ」
俺は手負いの獣人を見つめる。
「忘れているからって、いつまでも甘えるな。思いだすまで静かにしていろ」
脇の道を車が通りすぎる。雨の夜。歩行者がいても俺達に注意を向けない。
「……分かった。大蔵司連れていけ」
川田がビルへと歩く。大蔵司が執務室長に了承を得て追いかける。
「お二人とも、貪を一昼夜で倒せるはずないと仰せだ」
露泥無は人の姿に戻り天珠を持っていた。
「だけどデニーと殲が参加する。そちらからは松本とドロシーと思玲が向かう。そう伝えておいた」
心を読む新月のサキトガですら対処できぬスピード。翼竜である殲がいれば貪を追撃できる。しかも結界に包まれて奇襲攻撃も可能……結界破壊癖のドロシーがいる。
「その方向で話が進むなら、横根ちゃんもだすべきかな」
麻卦さんが煙を吐きだしながら言う。「さもないと折坂が怒りそうだ。罰の意味がないとな」
彼女はもう戦わせない。それを反故にする口実ができた。
姑息な俺はうなずく。
「策はあるのか?」
また露泥無である女子が言う。「貪は慎重だ。おそらく明日の夜を待つ」
「策など、ニョロ違った忍が戻らないと立てられないだろ」
苛立つなよ俺。「ドロシーと話し合わないとならない。二人きりで」
ハイリスクでローリターン。デニーの儀式を受けるかどうか。
きっと彼女は目を輝かして「対 ! 対 !」と同意するだろう。……向かいあう玄武と朱雀。どうしてもドロシーを頼ることになる。しかも龍の資質まで持っている。夏奈の代わりにもなれる。
「ドロシーねえ……いまさら死なれても困るし……」
麻卦さんは思案中だ。煙草を投げ捨てて踏みにじる。俺を見る。
「香港と上海が犬猿なのは知っているよな? そこと共闘などしたら、あの娘の帰る場所は完璧になくなる。それでもいいならば、ここで二人で話せ。連れてきてやる」
「お願いします。露泥無は覗き見やめてくれよ。川田と一緒にいてフォローを頼む」
「あいつと二人きり? やはり松本が一番に冷淡だ」
***
また降りだした。濡れたベンチに腰掛けられない。雲も厚くなり、満ちる直前の月は見えない。月が見えぬままだろうと、明晩のけだもの祭りは決行されるらしい。
ビニール傘をさしたドロシーがやってきた。無言で俺へもうひとつを突きだす。
「峻計をあと少しで倒せなかった。代わりに貪を今夜倒す」
傘をひろげながら言う。「じきに藤川匠の配下はいなくなる」
ドロシーは向きあって黙ったまま。だから俺が言葉を続ける。
「満月を過ぎたら川田を人に戻す。夏奈から龍の資質をぬぐい去る。そのために、藤川匠を倒す。あらためてお願いするけど、ドロシーに手伝ってもらいたい」
彼女は顔をあげる。奇跡的瞳である切れ長のアーモンドアイ。暗くてよく見えない。
「そしたらゆるしてくれる? また優しくしてくれる? だったら戦うよ、へへっ」
「あれは俺が言い過ぎた。俺こそ悪かった……」
またも頭痛。「ごめん。疲れている」
「だったら私一人で戦う。ニョロ子ちゃんだけ貸して。そして貪にあれをぶつけてやる。……あれは私の手のなかで輝きまくっている」
「上海の前ではニョロ子を忍と呼んでほしい。……貪はドロシーから逃げるよ。でも一番にドロシーを倒したい。怖いから」
龍を倒す者だから。
「ドロシーでも異形になったら白銀を使えないと思う。そしたら貪はやってくる」
ドロシーを殺すために。
「へへ、麻卦は冥神の輪を使えた。たぶん折坂もだ」
彼女はずれた回答をする。
「だから私だって使える。異形になってもだ」
彼女は俺を見上げたままだ。
「でも丸裸になっていいよ。哲人さんが龍を倒すために」
俺は傘を投げ捨てる。ドロシーを抱き寄せる。
「ごめん、ほんとうにごめんね、俺がおかしかった」
ドロシーにうずまりながら言う。俺はなんでこの滅茶苦茶女を嫌いになれた? こいつの暴走の九割九分は俺のためにだろ。俺のために祖国を捨てたドロシー……。
「私こそごめんなさい。もう哲人さんしかいないから、見捨てないでね」
俺が謝る理由を考えようともせず、彼女も傘を手放し俺にうずくまる。二十時近い雨の公園。街の明かり。車の音。
いままでは彼女の容姿に惚れただけだった。だから醒めた。今度はちがう。中身に惹かれた。引きずられた。二度と離すはずない。
だけど告げないとならない。彼女から体を離す。
「上海の儀式を受けようと思う。それで異形になって俺は戦いたい。そして上海と一緒に貪を討伐する」
なんでも受け入れるドロシーに動揺が走った。
「だ、だめだよ。あいつらを信じちゃだめ。だったら協力できない。私は魔道団の裏切り者になる」
お前はすでに見限られているよ。そんな言葉がでそうになる。
「ドロシーのお爺さんと電話した。ドロシーはもう見限られている」
正直に話してしまう。
「でも俺はドロシーを見限らない」
二度と絶対。ずっとずっと。だから誓え。心の底に誓え。未来を思え。将来を描いて願え。
「……私はなにをすればいいの?」
彼女はうつむきながら言う。
二人だけの雨降る夜の公園。思玲と危うく関係を持ちかけた俺。行く当てもないドロシー。なんで俺は彼女とここにいる?
なんでドロシーは俺なんかとここにいるのだろう。
「俺は玄武だよね。ドロシーは(上の下の)朱雀らしい。俺が異形になるには、対極に位置する人が必要。これはドロシーに功績を与え」
「好 ! 好 !」
彼女は目を輝かす。「哲人さんと一緒に異形になるんだ。素敵なアトラクション……。十四時茶会にバレなければいいだけだ。朱雀でも鴉でもなんでもなってやる。へへへ」
***
ドロシーはアフリカツインを運転したがったが、やはり足が届かずあきらめた。
「後ろに乗るか?」
黒色のフルフェイス(入手経路は聞かない)を脇に抱えた思玲が、もらい煙草を吸いながら言う。
ドロシーは俺をちらり見て、首を横に振る。思玲はヘルメットをかぶる。
見送りは、くわえ煙草の大蔵司だけだった。思玲の捨てた吸い殻をポケットに入れる。影添大社前ではモラルがいいのか。
「大蔵司に頼みがある」
俺は誰にも聞かれぬ小声で、人の言葉で彼女へ話しかける。ドロシーが俺を見ている。
「もし俺が弱い亀や蛇になったら、ユンボに封印してほしい」
それならば戦える気がする。
彼女は煙草をくわえたまま俺を見つめる。
「すごい覚悟だね。松本のそういうところは嫌いじゃない。でも工事現場で働くより、もう少し使えそうなものがここにある」
にっかり笑い、
「すでに川田から飛行機に封印しろと頼まれ済だけど断り済」
知らぬ間になんて奴だ。彼女は、この話はおしまいって感じにメンバーへ数歩あゆむ。
「麻卦さんより伝言。今回の件に私達は一切関与していない。上海不夜会の独断によるもの。だけど今度こそ逃がすな終わらせろ。俺は倒し方を知らないから不夜会に任せる。だってさ」
そう言って、ドロシーへリュックを投げる。手前に落ちる。
「つまり私も関与していない。心遣いありがとう」
ドロシーが大蔵司をにらみながら拾う。片方の肩にだけかける。
「ドロシーに言っておく。東京だから香港ぐらい人だらけだ。いちいち嫌悪しないように。あんな事故が起きたあとだから、目立たずひっそりと行動しよう」
無敵状態の露泥無であるおばさんもやってきた。北へと手を合わせる。
「僕はチベット出身だからね。異形だろうと信心がある。犠牲になった人を弔う心もだ」
俺も手を合わせる。俺をまねてドロシーも。大蔵司も。思玲はエンジンをふかしている。褐色肌の若い男はホールで踊っている。
六本木ヒルズの全景は飛び込むなり消える。ニョロ子はすぐに偵察へ戻ったようだけど、……あの龍は人の姿で遊んでいやがるのか。満月前に。まさに邪悪だ。
「お迎えがきたよ」
大蔵司の声とともにタクシーが停まる。ドアが開く。
「私も手伝いたかったけど、頑張れよ」
「もちろんだ」
半日前に術をだしまくった思玲が言う。顔色は見えない。
露泥無が助手席に座る。ドロシーに続いて俺も乗り込む。左手の小指を絡めてくる。最後に、ジーンズと水色の長袖シャツに着替えた横根が乗りドアが閉まる。緊張した彼女は存在感ないほどにずっと無言だった。
横根は戦わなくていい。そんな言葉を吐いてきたのに手のひら返しの俺。また彼女は右手で珊瑚のペンダントを握りしめる。左手には彼女が血を何度も上塗りした小さな杖。
「横根はいるだけでいい。もう魂を削るなよ」
俺が話しかけても彼女は蒼白な顔でうなずくだけだ。……本来の姿に戻ったのに、横根はなんでここにいるのだろう? レジェンドである龍を倒しに向かわされるのだろう?
その杖を窓から投げ捨てれば逃げだせる。だけど彼女はしない。
敬礼の真似をした大蔵司に見送られて発車する。思玲が操縦するバイクが、クラクションを軽く鳴らす。
いまから龍退治をするなんて実感がない。ましてや異形になるなんて。
「そこは遠いの?」ドロシーが心の声で尋ねてくる。
「いいや」と俺が指を絡めたままで答える。
ワイパーが間隔をあけて左右に動く。
彼女の小指にだけ意識が傾く。こうしてずっとつながっていたい。そうすれば彼女を信じられる。守りたくなる。だけど隣に震えだしそうな横根がいる。タクシーは、彼女が住んでいた大宮よりずっと手前で停まる。
「……貪の肝」横根が心の声でぽつり言う。「誰が食べるの?」
「もう不要かも」
言いながら思う。もし横根の魂が削れたならば、彼女が食べるべきかも。毒らしいけど、影添大社の告刀だって似たようなものだった。
「食い殺す気か? それならば松本達だけでも可能性はある。だが何より至難だ」
露泥無であるおばさんが人の声で言う。運転手が顔を向ける。
「独り言です。おほほ」
土曜の夜。川口市まであっという間だ。
次回「老兵は死なず。口うるさいのみ」
偏見
を言わせてもらおう。偏見をな」麻卦さんが煙草に火をつける。
「偏見だからな。まずひとつ、治験のバイトはするな。ついで、中国の食べ物を口にするな。さらに、香港ガールの幽閉は解かない。そしてもう夜だ、川田を部屋へ戻せ。そんでもう夜だぜ。貪欲な龍を倒すことを考えてくれ」
「川田! さきに部屋戻っていて。大蔵司が一緒に行ってくれる」
俺は勝手に仕切り「ドロシーがいなくて貪に勝てるはずない」
俺は異形になるのが絶対条件だ。生身だと耐久力がなさすぎる。でもリクガメになったら戦えない……。朱雀の資質あるドロシーはすごい鳥になりそうだ。瞬間だけ異形になったときもふわふわ浮いていたし飛べそうだ。……しかもだ。異形だと純度百の白銀弾を撃てない。自分こそが消滅する。
横根には来てほしいけど、もはや戦地へ向かわせない。思玲には頑張ってほしい。夏奈と川田は静かにしていてもらいたい。大蔵司、イウンヒョクもいてくれたら最高だ。
だが貪は臆病なほどに賢い。祓いの者がそろったら顔をださない。
「ニョロ――忍は貪を探ってきて」
まずは動きだせ。俺の有能な式神は即座に姿を消す。ついで黒猫を見下ろす。
「失敗だったら解除できるか?」
「理屈のうえではね。だが二日間のタイムリミットに関しては、試してないのだから不明だ」
四十八時間……。玄武くずれならば、俺もそれに捉われる。だとしても、それをみんなは経験してきた。
「だったら儀式を受けていい。でも上海にも龍狩りを手伝ってもらう。最低限の人数で向かうから、沈大姐かデニーのどちらか、式神は唐か殲だけでいい。俺達はドロシーと――」
「俺は行かない。松本の代わりに瑞希を部屋に呼びたい」
川田が戻ってくるなり言う。
「本当の川田だったら先頭で戦う。横根を守るためにだ」
俺は手負いの獣人を見つめる。
「忘れているからって、いつまでも甘えるな。思いだすまで静かにしていろ」
脇の道を車が通りすぎる。雨の夜。歩行者がいても俺達に注意を向けない。
「……分かった。大蔵司連れていけ」
川田がビルへと歩く。大蔵司が執務室長に了承を得て追いかける。
「お二人とも、貪を一昼夜で倒せるはずないと仰せだ」
露泥無は人の姿に戻り天珠を持っていた。
「だけどデニーと殲が参加する。そちらからは松本とドロシーと思玲が向かう。そう伝えておいた」
心を読む新月のサキトガですら対処できぬスピード。翼竜である殲がいれば貪を追撃できる。しかも結界に包まれて奇襲攻撃も可能……結界破壊癖のドロシーがいる。
「その方向で話が進むなら、横根ちゃんもだすべきかな」
麻卦さんが煙を吐きだしながら言う。「さもないと折坂が怒りそうだ。罰の意味がないとな」
彼女はもう戦わせない。それを反故にする口実ができた。
姑息な俺はうなずく。
「策はあるのか?」
また露泥無である女子が言う。「貪は慎重だ。おそらく明日の夜を待つ」
「策など、ニョロ違った忍が戻らないと立てられないだろ」
苛立つなよ俺。「ドロシーと話し合わないとならない。二人きりで」
ハイリスクでローリターン。デニーの儀式を受けるかどうか。
きっと彼女は目を輝かして「
「ドロシーねえ……いまさら死なれても困るし……」
麻卦さんは思案中だ。煙草を投げ捨てて踏みにじる。俺を見る。
「香港と上海が犬猿なのは知っているよな? そこと共闘などしたら、あの娘の帰る場所は完璧になくなる。それでもいいならば、ここで二人で話せ。連れてきてやる」
「お願いします。露泥無は覗き見やめてくれよ。川田と一緒にいてフォローを頼む」
「あいつと二人きり? やはり松本が一番に冷淡だ」
***
また降りだした。濡れたベンチに腰掛けられない。雲も厚くなり、満ちる直前の月は見えない。月が見えぬままだろうと、明晩のけだもの祭りは決行されるらしい。
ビニール傘をさしたドロシーがやってきた。無言で俺へもうひとつを突きだす。
「峻計をあと少しで倒せなかった。代わりに貪を今夜倒す」
傘をひろげながら言う。「じきに藤川匠の配下はいなくなる」
ドロシーは向きあって黙ったまま。だから俺が言葉を続ける。
「満月を過ぎたら川田を人に戻す。夏奈から龍の資質をぬぐい去る。そのために、藤川匠を倒す。あらためてお願いするけど、ドロシーに手伝ってもらいたい」
彼女は顔をあげる。奇跡的瞳である切れ長のアーモンドアイ。暗くてよく見えない。
「そしたらゆるしてくれる? また優しくしてくれる? だったら戦うよ、へへっ」
「あれは俺が言い過ぎた。俺こそ悪かった……」
またも頭痛。「ごめん。疲れている」
「だったら私一人で戦う。ニョロ子ちゃんだけ貸して。そして貪にあれをぶつけてやる。……あれは私の手のなかで輝きまくっている」
「上海の前ではニョロ子を忍と呼んでほしい。……貪はドロシーから逃げるよ。でも一番にドロシーを倒したい。怖いから」
龍を倒す者だから。
「ドロシーでも異形になったら白銀を使えないと思う。そしたら貪はやってくる」
ドロシーを殺すために。
「へへ、麻卦は冥神の輪を使えた。たぶん折坂もだ」
彼女はずれた回答をする。
「だから私だって使える。異形になってもだ」
彼女は俺を見上げたままだ。
「でも丸裸になっていいよ。哲人さんが龍を倒すために」
俺は傘を投げ捨てる。ドロシーを抱き寄せる。
「ごめん、ほんとうにごめんね、俺がおかしかった」
ドロシーにうずまりながら言う。俺はなんでこの滅茶苦茶女を嫌いになれた? こいつの暴走の九割九分は俺のためにだろ。俺のために祖国を捨てたドロシー……。
「私こそごめんなさい。もう哲人さんしかいないから、見捨てないでね」
俺が謝る理由を考えようともせず、彼女も傘を手放し俺にうずくまる。二十時近い雨の公園。街の明かり。車の音。
いままでは彼女の容姿に惚れただけだった。だから醒めた。今度はちがう。中身に惹かれた。引きずられた。二度と離すはずない。
だけど告げないとならない。彼女から体を離す。
「上海の儀式を受けようと思う。それで異形になって俺は戦いたい。そして上海と一緒に貪を討伐する」
なんでも受け入れるドロシーに動揺が走った。
「だ、だめだよ。あいつらを信じちゃだめ。だったら協力できない。私は魔道団の裏切り者になる」
お前はすでに見限られているよ。そんな言葉がでそうになる。
「ドロシーのお爺さんと電話した。ドロシーはもう見限られている」
正直に話してしまう。
「でも俺はドロシーを見限らない」
二度と絶対。ずっとずっと。だから誓え。心の底に誓え。未来を思え。将来を描いて願え。
「……私はなにをすればいいの?」
彼女はうつむきながら言う。
二人だけの雨降る夜の公園。思玲と危うく関係を持ちかけた俺。行く当てもないドロシー。なんで俺は彼女とここにいる?
なんでドロシーは俺なんかとここにいるのだろう。
「俺は玄武だよね。ドロシーは(上の下の)朱雀らしい。俺が異形になるには、対極に位置する人が必要。これはドロシーに功績を与え」
「
彼女は目を輝かす。「哲人さんと一緒に異形になるんだ。素敵なアトラクション……。十四時茶会にバレなければいいだけだ。朱雀でも鴉でもなんでもなってやる。へへへ」
***
ドロシーはアフリカツインを運転したがったが、やはり足が届かずあきらめた。
「後ろに乗るか?」
黒色のフルフェイス(入手経路は聞かない)を脇に抱えた思玲が、もらい煙草を吸いながら言う。
ドロシーは俺をちらり見て、首を横に振る。思玲はヘルメットをかぶる。
見送りは、くわえ煙草の大蔵司だけだった。思玲の捨てた吸い殻をポケットに入れる。影添大社前ではモラルがいいのか。
「大蔵司に頼みがある」
俺は誰にも聞かれぬ小声で、人の言葉で彼女へ話しかける。ドロシーが俺を見ている。
「もし俺が弱い亀や蛇になったら、ユンボに封印してほしい」
それならば戦える気がする。
彼女は煙草をくわえたまま俺を見つめる。
「すごい覚悟だね。松本のそういうところは嫌いじゃない。でも工事現場で働くより、もう少し使えそうなものがここにある」
にっかり笑い、
「すでに川田から飛行機に封印しろと頼まれ済だけど断り済」
知らぬ間になんて奴だ。彼女は、この話はおしまいって感じにメンバーへ数歩あゆむ。
「麻卦さんより伝言。今回の件に私達は一切関与していない。上海不夜会の独断によるもの。だけど今度こそ逃がすな終わらせろ。俺は倒し方を知らないから不夜会に任せる。だってさ」
そう言って、ドロシーへリュックを投げる。手前に落ちる。
「つまり私も関与していない。心遣いありがとう」
ドロシーが大蔵司をにらみながら拾う。片方の肩にだけかける。
「ドロシーに言っておく。東京だから香港ぐらい人だらけだ。いちいち嫌悪しないように。あんな事故が起きたあとだから、目立たずひっそりと行動しよう」
無敵状態の露泥無であるおばさんもやってきた。北へと手を合わせる。
「僕はチベット出身だからね。異形だろうと信心がある。犠牲になった人を弔う心もだ」
俺も手を合わせる。俺をまねてドロシーも。大蔵司も。思玲はエンジンをふかしている。褐色肌の若い男はホールで踊っている。
六本木ヒルズの全景は飛び込むなり消える。ニョロ子はすぐに偵察へ戻ったようだけど、……あの龍は人の姿で遊んでいやがるのか。満月前に。まさに邪悪だ。
「お迎えがきたよ」
大蔵司の声とともにタクシーが停まる。ドアが開く。
「私も手伝いたかったけど、頑張れよ」
「もちろんだ」
半日前に術をだしまくった思玲が言う。顔色は見えない。
露泥無が助手席に座る。ドロシーに続いて俺も乗り込む。左手の小指を絡めてくる。最後に、ジーンズと水色の長袖シャツに着替えた横根が乗りドアが閉まる。緊張した彼女は存在感ないほどにずっと無言だった。
横根は戦わなくていい。そんな言葉を吐いてきたのに手のひら返しの俺。また彼女は右手で珊瑚のペンダントを握りしめる。左手には彼女が血を何度も上塗りした小さな杖。
「横根はいるだけでいい。もう魂を削るなよ」
俺が話しかけても彼女は蒼白な顔でうなずくだけだ。……本来の姿に戻ったのに、横根はなんでここにいるのだろう? レジェンドである龍を倒しに向かわされるのだろう?
その杖を窓から投げ捨てれば逃げだせる。だけど彼女はしない。
敬礼の真似をした大蔵司に見送られて発車する。思玲が操縦するバイクが、クラクションを軽く鳴らす。
いまから龍退治をするなんて実感がない。ましてや異形になるなんて。
「そこは遠いの?」ドロシーが心の声で尋ねてくる。
「いいや」と俺が指を絡めたままで答える。
ワイパーが間隔をあけて左右に動く。
彼女の小指にだけ意識が傾く。こうしてずっとつながっていたい。そうすれば彼女を信じられる。守りたくなる。だけど隣に震えだしそうな横根がいる。タクシーは、彼女が住んでいた大宮よりずっと手前で停まる。
「……貪の肝」横根が心の声でぽつり言う。「誰が食べるの?」
「もう不要かも」
言いながら思う。もし横根の魂が削れたならば、彼女が食べるべきかも。毒らしいけど、影添大社の告刀だって似たようなものだった。
「食い殺す気か? それならば松本達だけでも可能性はある。だが何より至難だ」
露泥無であるおばさんが人の声で言う。運転手が顔を向ける。
「独り言です。おほほ」
土曜の夜。川口市まであっという間だ。
次回「老兵は死なず。口うるさいのみ」