三十八の二 木霊
文字数 3,185文字
俺と思玲だけになる。
「手負いの獣いなくていいの?」
昨夜は防波堤のように子犬を抱えていた。
「私にはこれがある」
俺へとお天宮さんの木札を向けるから、のけぞってしまう。
「この雷木札はみなを守るために持つ。すぐに返してやる」
みんなを守るための護符。俺が持っていたときよりアグレッシヴになっている。
時間を確認する。あっという間だ。十八時三十九分。スマホをリュックの内側に入れる。……箱がむきだしだ。護布で包みたいけど思玲を守ってもらう。
「残る以上は、ぼさっとするな」女の子に叱られる。「おでましだ」
マジで早すぎる。先ほどまで川田がいた場所に、青い毛並みの狼が立っていた。
大人に戻った状態で見ても大きい。サファリパークで餌やりした雄ライオンより、きっと一回り以上でかい。痛覚が戻らないのに、昨夜を思いだして首の後ろが痛くなる。
「主がいなくなっても忠義を残す狼よ。貴様を成敗にきた」
思玲が天宮の護符で自分の肩を叩く。彼女より雅の背丈が高い。体長は彼女二人分ゆうにある。
「その力が未だ未熟の人の子よ。私はお前を殺しに来た」
雅が山道を降りてくる。
「前の主をここまで愚弄されたら、骨すら残せない。その座敷わらしよりさきに片づける」
やはり俺の正体はバレバレだ。だとしても俺は思玲の前に立つ。思玲が舌を打ち俺の前にでる。しかたないので横にならぶ。……この狼はじきに飛びかかる。思玲の生死は一瞬で決まる。いや終わる。
やっぱり彼女の前にでようとするけど、
「これから起きることを他言するな」
思玲が言う。そして森へと告げる。
「木霊よ。お前達こそ私を食べたいのだろ?」
サワサワ……
林の枝葉が揺れだす。雅も林を見る。
サワサワサワサワ
……木霊が興奮しだした。俺の中に恐怖がにじんでくる。
「川田、待て!」遠くからドーンの声。
「川田君、逃げちゃ駄目!」横根の声も。
樹木達がさらに揺れて鳥も虫も鳴けるはずない。雅だけがうなり声をもらす。
「さすがは手負いの獣だな。よくぞ気づいた」
少女が笑う。
「和戸達は逃げられる。――昼と夜の境。逢魔が刻。魔である雅。貴様も囚われた」
林すべてが少女を愛でている。山そのものが、思玲をおのれのものにしようとしている。
「神隠しの巻き添えにするつもりか……。その座敷わらしも」
雅が低くうなる。
空はなおも明るい。林に比べてだ。なにかが起きようとしている。足が震える。
「夏奈……」俺は名前を呼ぶ。「夏奈!」
生きているうちに呼んでやる!
「うるさい、泣くな! もはや誰も来ない」
蒼き狼も林へと吠える。……木霊は森の女王に従わず、少女だけを見つめている。真っ暗な夜だけが近づいている。
少女が笑う。
「雅、お前が決めろ。負けを認めるか、それとも――」
「黙れ」狼が思玲をにらむ。「その前に、お前を食い殺す」
ザワザワザワ、ザワザワザワ
ザワザワザワザワザワザワザワ……
山がさらに落ち着きを失う。もうそこまでいる。
「餌を奪われると、お怒りのようだな」
少女が巨大な狼を笑う。
狼はきびすを返す。少女はさらに笑う。
「逃げるのならお前の負けだ。金輪際私達に関わるな。すべての人に関わるな」
狼が憎しみの目で振りかえる。……こいつらは逃げようとしない。俺は走り去りたい。遠吠えが聞こえた。川田だ。
「蛮勇の獣め」雅が空をにらむ。「頼まれようが、座敷わらしなど救わない」
空へと吠える。
「思玲、帰ろう」俺は少女に言う。「帰らせてください」
なのに思玲は雅へと不敵に笑うだけだ。
「時間切れだ。逃げぬのならば私にひれ伏せ」
腰が抜けそうだ。もうあおるのはやめてくれ。
「私がお前に屈するはずない。道連れとなるのを選ぶ」
雅が俺達へと向きをあらためる。
サワ
木霊が俺の頬をなでた……。触れられて、その正体を知る。幾多の歳月をかけて弱さを憎しみへと育くんだ、樹木の精霊のなれの果てだ。さらされるだけだった奴らは、動けるものすべてをうらやみ憎んでいる。
何十年、何千年、樹木の感覚の時空へと連れていかれる。
「そうか。だが私だけは死なない」
思玲が一歩でる。「蒼き狼が森に沈むのを見届けてやるか」
マジでやめて。俺まで森の闇に飲まれる。
「もはや誰も木霊から逃れられるはずない。その前にお前を……」
雅すら怯えている。
「お前の力を見せてみろ。お前の声に従わせたいのならば、木霊達を屈服させろ」
空が暗くなっていく。林中の枝葉だけが揺れている。
「たやすい」
思玲が手にする護符をかかげる。……なにも起きない。少女がぎょっとする。
「……哲人、輝かぬぞ」
天宮の護符は思玲を守らない。木霊がサワサワと集ってくる。
「来ないでくれ!」雅が吠える。「小娘だけを連れていけ!」
森の女あるじの声も木霊達に届かない。思玲はさっきまでの余裕が嘘のように、必死に光らぬ木札を振る。
「逃げよう」
俺は少女の手を引く。雅に背を向けようが、食い殺されるほうがましだ。
「やめろ! 怒らすな!」
思玲が払おうとした手をさらに握りしめる。
――精霊だった人間よ。その子を奪うはゆるさない
――ならば、お前から連れていこう
木霊達が俺へと寄ってくる。……腐葉土が俺の体に這いあがる。枯れ葉がまとわりつく。
俺は樹木達の時空観念で、彼らの滋養となる……。
「お前らの餌は私だろ!」思玲の叫び。「哲人だけは渡さぬ!」
少女が護符をかかげる。林が煌々と照らされる。……俺にまとう木霊達が溶ける。蒼き狼は呆然と見ている。
「……危なかった。哲人みたいな札だな」
思玲から安堵の声がもれる。再びかかげる。
「木霊ども。貴様達にこの男の魂は渡せぬ。我が命もだ!」
少女の高らかな宣言とともに、林が失望したように静まっていく。
……修羅場をくぐり抜けてきたつもりの俺は小便を漏らしていた。助かったと涙がでてくる。目をぬぐうと――
「わあ!」
尻持ちしてしまう。雅が目の前にいた。
「座敷わらしだった者よ。貴様との勝負に許しが必要になった」
雅が憎々しげに俺を見おろす。
「私は今から、このお方の式神だ」
解するのにちょっとだけ時間がかかった。雅はもう俺など見ていない。
「あなた様の力に服従させていただきます。手負いの獣も私を受けいれてくれるでしょう。手始めに、この男と戦うことを命じてください」
蒼い狼が思玲に頭をさげる。
張麗豪に屈しなかった狼がこれだけのことで……。目撃していた俺には分かる。あの男よりはるかに、思玲には奥深い怖さがある。お天宮さんの護符をつかんだ少女には。
「未来永劫、なにがあろうが認めぬ。肝に銘じておけ」
少女が雅をにらむ。
「私の名前は王思玲。お前の名は雅のままでいこう。よろしくな」
思玲が手を伸ばし、蒼き狼の頭をさする。雅が少女の頬を舐める。空を見上げる。
「お仲間が焦っているようです」
空に暗い影が飛んできた。
「哲人、思玲、ヤバいかも」
カラスの影がドーンの声でうろたえる。
「張麗豪に逃げられた。……て言うか、その狼は?」
ドクン
鼓動がうめいた。なによりドロシーの顔を思い浮かべる。俺は山道を駆けおりる。
「雅、しゃがめ」背後で思玲の声がする。「哲人、夜までに戻れ。必ずだぞ」
少女を乗せた狼にあっという間に追い越される。ドーンも空を去っていく。
暗い山道。歩くのさえままならなくなる。でも俺はドロシーだけを思いだす。……誰が麗豪を助けた。峻計? 法董? 鏡を持つ楊偉天?
バシリ!
肩に衝撃を受けて、山道から林へと転がり落ちる。
……痛くはない。でも肩を深くえぐられた。リュックサックの肩ひもが切れて、反対側の腕にぶら下がる。
『ギギギ、フライングでフライングだ』
……地獄へと誘う声。
『そんでお前は、俺達が殺す切りよい五百人目だ』
羽根をはやした巨大な黒い魔物が、木をへし折りながら俺の前に降りる。
次回「マジにさせてしまった」
「手負いの獣いなくていいの?」
昨夜は防波堤のように子犬を抱えていた。
「私にはこれがある」
俺へとお天宮さんの木札を向けるから、のけぞってしまう。
「この雷木札はみなを守るために持つ。すぐに返してやる」
みんなを守るための護符。俺が持っていたときよりアグレッシヴになっている。
時間を確認する。あっという間だ。十八時三十九分。スマホをリュックの内側に入れる。……箱がむきだしだ。護布で包みたいけど思玲を守ってもらう。
「残る以上は、ぼさっとするな」女の子に叱られる。「おでましだ」
マジで早すぎる。先ほどまで川田がいた場所に、青い毛並みの狼が立っていた。
大人に戻った状態で見ても大きい。サファリパークで餌やりした雄ライオンより、きっと一回り以上でかい。痛覚が戻らないのに、昨夜を思いだして首の後ろが痛くなる。
「主がいなくなっても忠義を残す狼よ。貴様を成敗にきた」
思玲が天宮の護符で自分の肩を叩く。彼女より雅の背丈が高い。体長は彼女二人分ゆうにある。
「その力が未だ未熟の人の子よ。私はお前を殺しに来た」
雅が山道を降りてくる。
「前の主をここまで愚弄されたら、骨すら残せない。その座敷わらしよりさきに片づける」
やはり俺の正体はバレバレだ。だとしても俺は思玲の前に立つ。思玲が舌を打ち俺の前にでる。しかたないので横にならぶ。……この狼はじきに飛びかかる。思玲の生死は一瞬で決まる。いや終わる。
やっぱり彼女の前にでようとするけど、
「これから起きることを他言するな」
思玲が言う。そして森へと告げる。
「木霊よ。お前達こそ私を食べたいのだろ?」
サワサワ……
林の枝葉が揺れだす。雅も林を見る。
サワサワサワサワ
……木霊が興奮しだした。俺の中に恐怖がにじんでくる。
「川田、待て!」遠くからドーンの声。
「川田君、逃げちゃ駄目!」横根の声も。
樹木達がさらに揺れて鳥も虫も鳴けるはずない。雅だけがうなり声をもらす。
「さすがは手負いの獣だな。よくぞ気づいた」
少女が笑う。
「和戸達は逃げられる。――昼と夜の境。逢魔が刻。魔である雅。貴様も囚われた」
林すべてが少女を愛でている。山そのものが、思玲をおのれのものにしようとしている。
「神隠しの巻き添えにするつもりか……。その座敷わらしも」
雅が低くうなる。
空はなおも明るい。林に比べてだ。なにかが起きようとしている。足が震える。
「夏奈……」俺は名前を呼ぶ。「夏奈!」
生きているうちに呼んでやる!
「うるさい、泣くな! もはや誰も来ない」
蒼き狼も林へと吠える。……木霊は森の女王に従わず、少女だけを見つめている。真っ暗な夜だけが近づいている。
少女が笑う。
「雅、お前が決めろ。負けを認めるか、それとも――」
「黙れ」狼が思玲をにらむ。「その前に、お前を食い殺す」
ザワザワザワ、ザワザワザワ
ザワザワザワザワザワザワザワ……
山がさらに落ち着きを失う。もうそこまでいる。
「餌を奪われると、お怒りのようだな」
少女が巨大な狼を笑う。
狼はきびすを返す。少女はさらに笑う。
「逃げるのならお前の負けだ。金輪際私達に関わるな。すべての人に関わるな」
狼が憎しみの目で振りかえる。……こいつらは逃げようとしない。俺は走り去りたい。遠吠えが聞こえた。川田だ。
「蛮勇の獣め」雅が空をにらむ。「頼まれようが、座敷わらしなど救わない」
空へと吠える。
「思玲、帰ろう」俺は少女に言う。「帰らせてください」
なのに思玲は雅へと不敵に笑うだけだ。
「時間切れだ。逃げぬのならば私にひれ伏せ」
腰が抜けそうだ。もうあおるのはやめてくれ。
「私がお前に屈するはずない。道連れとなるのを選ぶ」
雅が俺達へと向きをあらためる。
サワ
木霊が俺の頬をなでた……。触れられて、その正体を知る。幾多の歳月をかけて弱さを憎しみへと育くんだ、樹木の精霊のなれの果てだ。さらされるだけだった奴らは、動けるものすべてをうらやみ憎んでいる。
何十年、何千年、樹木の感覚の時空へと連れていかれる。
「そうか。だが私だけは死なない」
思玲が一歩でる。「蒼き狼が森に沈むのを見届けてやるか」
マジでやめて。俺まで森の闇に飲まれる。
「もはや誰も木霊から逃れられるはずない。その前にお前を……」
雅すら怯えている。
「お前の力を見せてみろ。お前の声に従わせたいのならば、木霊達を屈服させろ」
空が暗くなっていく。林中の枝葉だけが揺れている。
「たやすい」
思玲が手にする護符をかかげる。……なにも起きない。少女がぎょっとする。
「……哲人、輝かぬぞ」
天宮の護符は思玲を守らない。木霊がサワサワと集ってくる。
「来ないでくれ!」雅が吠える。「小娘だけを連れていけ!」
森の女あるじの声も木霊達に届かない。思玲はさっきまでの余裕が嘘のように、必死に光らぬ木札を振る。
「逃げよう」
俺は少女の手を引く。雅に背を向けようが、食い殺されるほうがましだ。
「やめろ! 怒らすな!」
思玲が払おうとした手をさらに握りしめる。
――精霊だった人間よ。その子を奪うはゆるさない
――ならば、お前から連れていこう
木霊達が俺へと寄ってくる。……腐葉土が俺の体に這いあがる。枯れ葉がまとわりつく。
俺は樹木達の時空観念で、彼らの滋養となる……。
「お前らの餌は私だろ!」思玲の叫び。「哲人だけは渡さぬ!」
少女が護符をかかげる。林が煌々と照らされる。……俺にまとう木霊達が溶ける。蒼き狼は呆然と見ている。
「……危なかった。哲人みたいな札だな」
思玲から安堵の声がもれる。再びかかげる。
「木霊ども。貴様達にこの男の魂は渡せぬ。我が命もだ!」
少女の高らかな宣言とともに、林が失望したように静まっていく。
……修羅場をくぐり抜けてきたつもりの俺は小便を漏らしていた。助かったと涙がでてくる。目をぬぐうと――
「わあ!」
尻持ちしてしまう。雅が目の前にいた。
「座敷わらしだった者よ。貴様との勝負に許しが必要になった」
雅が憎々しげに俺を見おろす。
「私は今から、このお方の式神だ」
解するのにちょっとだけ時間がかかった。雅はもう俺など見ていない。
「あなた様の力に服従させていただきます。手負いの獣も私を受けいれてくれるでしょう。手始めに、この男と戦うことを命じてください」
蒼い狼が思玲に頭をさげる。
張麗豪に屈しなかった狼がこれだけのことで……。目撃していた俺には分かる。あの男よりはるかに、思玲には奥深い怖さがある。お天宮さんの護符をつかんだ少女には。
「未来永劫、なにがあろうが認めぬ。肝に銘じておけ」
少女が雅をにらむ。
「私の名前は王思玲。お前の名は雅のままでいこう。よろしくな」
思玲が手を伸ばし、蒼き狼の頭をさする。雅が少女の頬を舐める。空を見上げる。
「お仲間が焦っているようです」
空に暗い影が飛んできた。
「哲人、思玲、ヤバいかも」
カラスの影がドーンの声でうろたえる。
「張麗豪に逃げられた。……て言うか、その狼は?」
ドクン
鼓動がうめいた。なによりドロシーの顔を思い浮かべる。俺は山道を駆けおりる。
「雅、しゃがめ」背後で思玲の声がする。「哲人、夜までに戻れ。必ずだぞ」
少女を乗せた狼にあっという間に追い越される。ドーンも空を去っていく。
暗い山道。歩くのさえままならなくなる。でも俺はドロシーだけを思いだす。……誰が麗豪を助けた。峻計? 法董? 鏡を持つ楊偉天?
バシリ!
肩に衝撃を受けて、山道から林へと転がり落ちる。
……痛くはない。でも肩を深くえぐられた。リュックサックの肩ひもが切れて、反対側の腕にぶら下がる。
『ギギギ、フライングでフライングだ』
……地獄へと誘う声。
『そんでお前は、俺達が殺す切りよい五百人目だ』
羽根をはやした巨大な黒い魔物が、木をへし折りながら俺の前に降りる。
次回「マジにさせてしまった」