三十三の三 奈落へ誘う声
文字数 2,088文字
「やめろ。聞くな」
俺は手を握りかえす。
「平気だ」ドロシーが無理して笑う。「私は強いから」
あさましい妖魔はどこだ? 見つけられるはずない。
『彩華は祓いの力をかすかに持って生まれた。偉大なる父に背き、一般人である兆勝と結ばれる。一人娘を連れてイングランドに移住した。なんのためだっけ?』
「だから?」
ドロシーは涙目になっていた。
「すべて私のせいだ。知っているから私は平気だ」
俺が彼女の過去を知る必要はない。いまはサキトガの声を止めさせるだけ。だけどお堂の闇からの誘う声は途絶えない。
『兆勝こそ災難だったよな。人ではない力をもつ娘を、人間からかばったのだからな。そして、それは新天地でも』
「だから、その汚らわしい声をとめろ」
彼女の手が力なく離れる。昔から、なんでお寺ってのは静かすぎるのだ。
「サキトガめ、俺をまどわせ! 俺の過去を言ってみろ!」
俺が盾になる。俺の二十年間に恥ずべき過去は存在しない。
『哲人は平凡すぎて、ささやいても楽しくないんだよ』
きっぱり断られる。
『フロレ・エスタスをおとしめることになるしな――。お前は現在を心配していろ。数年後の司法試験でもなく、家族のな』
いまは家族のことを考えない! 俺こそ怯えさせたいのだろ? だったら、もっとこっちに来い。耳元でささやけ。
なのに、こいつは遠ざかる。
『梓群~。ドロシ~。両親は両方で呼んでいたよな。暴動の夜、お前に石を投げる人間の前でも。記憶からも記録からも消されたあの夜。お前は何人殺した?』
え?
「聞こえない」
彼女が震えだす。
「貴様達の声なんか届かない。……私は傷さえ与えてない。みんながそう言っている」
『あっそう。でも記憶消しの術が効かなくて、おじいちゃんが困惑したのは覚えているだろ? そんで、こっちは覚えているだろ? 目の前で、あの二人は何人殺した? お前を救うために』
「もうやめろ!」
俺はそれしか言えない。サキトガはやめない。
『ロタマモが地獄の知り合いに聞いたらしいぜ。あの二人は、火にあぶられながら恨んでいるってな。いまも娘を恨んでいるとな』
「だからやめて!」
ドロシーが崩れ落ちる。
「そんなはずない。パパとママは、いまも私を愛している」
彼女が嗚咽する。俺はうずくまる彼女の肩を抱く。怯えが伝わる。奴らの好物の……。
「サキトガ、姿を現せ」
闇に怯えながら俺の手を引いてくれたドロシー。
「さもないと、貴様を怯えさせる」
俺は彼女だけを守る。
『どうせ暇つぶしだ。現れてやるぜ。この娘は弱すぎて面白くない』
保育園児ほどのコウモリが天上で血の闇に照らされる。
『松本。処女だからってありがたがるなよ。味なんて、ほかと変わらないからな。……ママはすぐに死ねたのに、パパはけっこう苦しんだな。死んだ時間が違えば、魂は別々のとこに行くかもな。自分の娘を呪いながら』
サキトガは笑い声を残して消える。俺を狙え。そばに来い。
「パパ、ママ、助けて」ドロシーは震えている。「やっぱり梓群は弱いです」
赤い闇のスポットライトが、彼女と俺を照らす。
『思玲が言った15時まであと420秒。俺はまだまだお喋りできるぜ』
ドロシーを闇に誘う声。
『俺からはなにも言えないけど、箱を開けて哲人を殺せば、パパとママは天国に行けるかもな』
ドロシーが顔をあげる。俺の目を見つめる。俺は彼女を抱きしめる。
「松本、助けて……」
心への声が伝わる。……ようやく人として抱きあえた。
相性がよかったわけではないと気づく。俺は彼女からリュックを奪う。四玉の箱を引きずりだし、サテンをほどく。護りの布をドロシーにかけて、立ちあがる。むせてなどいられるか。
「ゼ・カン・ユの残兵。藤川匠のあわれなるしもべ」
サキトガへと告げる。
「俺と戦い、地獄にも行けず消滅しろ。ロタマモのあとを追え」
赤い闇さえ笑う。
『俺が弱いと思っていやがる。戦えって言うなら、爪だけ汚してやら』
コウモリがまた姿をだす。
襲ってきたサキトガをカウンターに殴る。奴の爪はかすめただけ。時間差で肋骨が絶叫する。胸を押さえる。
『キッ、短剣を従えた力か。だけども――』
サキトガが天井に浮かんで消える。
「ま、まだ戦え。お前は俺と戦うさだめだ」
妖魔をさえぎる。
「俺は助けを呼ぶさだめだ。だから大カラスはまた一羽消えた。……あのフクロウも俺の指さきで消えた」
もう一度こっちに来い。
『おろかだね。あの爺さんといえども、死んだら教えに来てくれるさ。完全に消滅しないかぎりな』
サキトガめ、俺の指まで来い。ドロシーは俺を見あげている。
「ムジナが隠しているもの」
俺は告げてはいけないことを告げる。
「半分だけの魂」
赤い闇が揺らぐ。
『……キ。遊びすぎたかな』
見えないサキトガが動揺する。
『怒られるまえに迎えにいくか。……もし、あいつの羽根をむしったりしていたら、俺も本気で戦ってやるからな』
「逃げるな」
見えない魔物に命じる。返事はない。あいつが去ったかなど、分かるはずがない。まどわされ続けるだけだ。
「松本……」
ドロシーはへたりこんだまま、俺だけを見あげている。
次回「残酷な癒し」
俺は手を握りかえす。
「平気だ」ドロシーが無理して笑う。「私は強いから」
あさましい妖魔はどこだ? 見つけられるはずない。
『彩華は祓いの力をかすかに持って生まれた。偉大なる父に背き、一般人である兆勝と結ばれる。一人娘を連れてイングランドに移住した。なんのためだっけ?』
「だから?」
ドロシーは涙目になっていた。
「すべて私のせいだ。知っているから私は平気だ」
俺が彼女の過去を知る必要はない。いまはサキトガの声を止めさせるだけ。だけどお堂の闇からの誘う声は途絶えない。
『兆勝こそ災難だったよな。人ではない力をもつ娘を、人間からかばったのだからな。そして、それは新天地でも』
「だから、その汚らわしい声をとめろ」
彼女の手が力なく離れる。昔から、なんでお寺ってのは静かすぎるのだ。
「サキトガめ、俺をまどわせ! 俺の過去を言ってみろ!」
俺が盾になる。俺の二十年間に恥ずべき過去は存在しない。
『哲人は平凡すぎて、ささやいても楽しくないんだよ』
きっぱり断られる。
『フロレ・エスタスをおとしめることになるしな――。お前は現在を心配していろ。数年後の司法試験でもなく、家族のな』
いまは家族のことを考えない! 俺こそ怯えさせたいのだろ? だったら、もっとこっちに来い。耳元でささやけ。
なのに、こいつは遠ざかる。
『梓群~。ドロシ~。両親は両方で呼んでいたよな。暴動の夜、お前に石を投げる人間の前でも。記憶からも記録からも消されたあの夜。お前は何人殺した?』
え?
「聞こえない」
彼女が震えだす。
「貴様達の声なんか届かない。……私は傷さえ与えてない。みんながそう言っている」
『あっそう。でも記憶消しの術が効かなくて、おじいちゃんが困惑したのは覚えているだろ? そんで、こっちは覚えているだろ? 目の前で、あの二人は何人殺した? お前を救うために』
「もうやめろ!」
俺はそれしか言えない。サキトガはやめない。
『ロタマモが地獄の知り合いに聞いたらしいぜ。あの二人は、火にあぶられながら恨んでいるってな。いまも娘を恨んでいるとな』
「だからやめて!」
ドロシーが崩れ落ちる。
「そんなはずない。パパとママは、いまも私を愛している」
彼女が嗚咽する。俺はうずくまる彼女の肩を抱く。怯えが伝わる。奴らの好物の……。
「サキトガ、姿を現せ」
闇に怯えながら俺の手を引いてくれたドロシー。
「さもないと、貴様を怯えさせる」
俺は彼女だけを守る。
『どうせ暇つぶしだ。現れてやるぜ。この娘は弱すぎて面白くない』
保育園児ほどのコウモリが天上で血の闇に照らされる。
『松本。処女だからってありがたがるなよ。味なんて、ほかと変わらないからな。……ママはすぐに死ねたのに、パパはけっこう苦しんだな。死んだ時間が違えば、魂は別々のとこに行くかもな。自分の娘を呪いながら』
サキトガは笑い声を残して消える。俺を狙え。そばに来い。
「パパ、ママ、助けて」ドロシーは震えている。「やっぱり梓群は弱いです」
赤い闇のスポットライトが、彼女と俺を照らす。
『思玲が言った15時まであと420秒。俺はまだまだお喋りできるぜ』
ドロシーを闇に誘う声。
『俺からはなにも言えないけど、箱を開けて哲人を殺せば、パパとママは天国に行けるかもな』
ドロシーが顔をあげる。俺の目を見つめる。俺は彼女を抱きしめる。
「松本、助けて……」
心への声が伝わる。……ようやく人として抱きあえた。
相性がよかったわけではないと気づく。俺は彼女からリュックを奪う。四玉の箱を引きずりだし、サテンをほどく。護りの布をドロシーにかけて、立ちあがる。むせてなどいられるか。
「ゼ・カン・ユの残兵。藤川匠のあわれなるしもべ」
サキトガへと告げる。
「俺と戦い、地獄にも行けず消滅しろ。ロタマモのあとを追え」
赤い闇さえ笑う。
『俺が弱いと思っていやがる。戦えって言うなら、爪だけ汚してやら』
コウモリがまた姿をだす。
襲ってきたサキトガをカウンターに殴る。奴の爪はかすめただけ。時間差で肋骨が絶叫する。胸を押さえる。
『キッ、短剣を従えた力か。だけども――』
サキトガが天井に浮かんで消える。
「ま、まだ戦え。お前は俺と戦うさだめだ」
妖魔をさえぎる。
「俺は助けを呼ぶさだめだ。だから大カラスはまた一羽消えた。……あのフクロウも俺の指さきで消えた」
もう一度こっちに来い。
『おろかだね。あの爺さんといえども、死んだら教えに来てくれるさ。完全に消滅しないかぎりな』
サキトガめ、俺の指まで来い。ドロシーは俺を見あげている。
「ムジナが隠しているもの」
俺は告げてはいけないことを告げる。
「半分だけの魂」
赤い闇が揺らぐ。
『……キ。遊びすぎたかな』
見えないサキトガが動揺する。
『怒られるまえに迎えにいくか。……もし、あいつの羽根をむしったりしていたら、俺も本気で戦ってやるからな』
「逃げるな」
見えない魔物に命じる。返事はない。あいつが去ったかなど、分かるはずがない。まどわされ続けるだけだ。
「松本……」
ドロシーはへたりこんだまま、俺だけを見あげている。
次回「残酷な癒し」