三十三の一 本堂の二人

文字数 1,923文字

「この国はたくさん異形がいると思いこんでいた。小鬼も大燕も王姐がいると声をかけてこない」
 ドロシーが引き戸を閉める。俺とつないだ手をシャツで何度もこすりやがる。
「お爺ちゃんがいなければ、琥珀は封じられたまま。九郎は香港島をぐるぐる回るだけだったのに」

 お堂の中がうっすらとした闇になる。傷を負った身には、ひんやりして救われる。人の姿で確認すると、彼女の身長は160センチ前半ほどかな。夏奈とおなじぐらいだ。……夏奈よりは色白だ。
 ドロシーはリュックから指揮棒をだす。銃はださないだろうな。胸部がなおさら痛くなる。

「お爺ちゃんって偉い人なんだ」
 話せば痛みから気が逸れる。

「十四時茶会のメンバー。その重鎮」

 ドロシーはリュックを覗いたまま答える。心への言葉が今日は脳みそに突き刺さらない。異形や魔導士達へと同じに声かけられているからだ。それでも他のものより大声だが。
 会話が途絶えていた。お寺の空気より俺達のが寒々している。ドロシーが俺を見る。顔はあわさない。

「シカゴのヒップホップユニオンに入会待ちなの? 2008年から嘆くほどに」

 俺のTシャツのプリントを中国語に訳し、心の声で伝える(ちなみに法董に裂かれたシャツは、『ボディはマックスだけど、つまりフルなボーイ』みたいな英語だった)。

「借りたシャツだから」
 俺も心の声で返す。ぎくしゃくした空気を変えたい。
「サイズがあわないし脱いじゃおうかな」

「肌を見せるな」
 即座に指揮棒を向けてくる。
「ただでさえ気色悪いのに。お前からは人の汗と血が漂ってくる。明け方の北角(ノースポイント)の市場のがはるかに香ばしい」

 こんな女に付き合っていられるか。

「はやく祈れよ。そもそも必要ねーしな。お前の術など痛くもないし」

 痛みをこらえて立ちあがる。ドロシーが俺の横を過ぎる。

「『殺』は抑えた術だ。『滅』と違い威嚇のためだ。そんなので骨を折るとはな」
 彼女は閉じたばかりの戸をひろげる。
「『誅』を喰らっていれば貴様は寺院で死んで、手間をかけずに感謝された」

 開けた戸から夏の日差しが飛びこんでくる。女の子が立っていた。

「覗いていたわけではないぞ」
 思玲が俺達をにらむ。
「面白そうだから見ようとはしたがな。――やる気がないのなら時間の無駄だ。十五時に救急車を予約しておくからな。再チャレンジするのなら、それまで待ってやる。無理ならすぐに来い」

 女の子は賽銭箱の横から飛び降り、手水舎の向こうの林へ去っていく。

「まだ十五分もある」
 ドロシーが掛け時計を見て、本堂からでていく。靴を履こうとして立ちどまる。悔し涙を流しながら振りかえる。
你為什麼變回人?  都是你的錯!(なんで人なんかに戻った? すべてはお前のせいだ!)

 広東語を人の言葉で叫び、賽銭箱にうつ伏して嗚咽しだす。墓参りの若い親子が怪訝に見ている。
 俺は彼女を引きこみ引き戸を閉める。うす闇に戻る。行動のひとつひとつが肋骨に響いて座りこむ。できれば横になり、やっぱり救急車を呼びたい。
 ドロシーはそっぽを向いて泣き続ける。時間だけが過ぎていく。

「なんで人間が嫌いなの?」

 俺は聞くけど返事はない。口の中が血の味だ。じっとしていると痛みに支配されるから、もう外へ行きたい。やるべきことは死ぬほどある。

「なんで責めないの?」
 ようやく泣きやんでくれた。「貴様が傷つけたと、私に怒鳴れ」

 記憶もないまま妖怪変化になった俺を、このお寺で救ってくれたドロシー。彼女に言えるはずがない。

「なんで日本に残るの? シノと一緒に行けばよかった」
 だから質問をさらに返す。

 ドロシーがくしゃくしゃの顔でにらんでくる。
「分からないの? 傷を負ってない私が雅を倒す。それまで帰れるはずない」

 ……思いだした。あの異形の狼と果し合いの約束をしていた。しかも多忙な今夜を指名された。キャンセルするとシノが狙われる。あの狼ならば荒川区まで出向きそうだ。

「お前に勝てるはずない」
 俺は言う。彼女はあれの怖さを知らない。
「俺が倒しておく」

 俺は怖さをたっぷりと知っている。この子よりは生き長らえる。つまり勝つ機会はある。

「へっ、あんな術も避けられないくせに偉そうに」
 彼女が意地悪に笑う。
「シノに電話を借りて、お爺ちゃんの許しを得た。だから九郎がパソコンを持ってきたら、MP5の出力をあげられる。銃が壊れるまで雅にぶちかます。そもそも、お前とはいずれ戦うかもしれない。誰が敵の傷を治すものか」

 この女はなにを言いだすのだ? ドロシーと俺がなんのために?
 ……お堂がさらにひんやりした。

『キキキ、痴話喧嘩とは悠長だな』
 甲高き誘う声。
『夏の昼下がり、若い男女が二人きり。箱をだしたら、邪魔せず退いてやるぜ』

 本堂が血の色に照らされる。




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