三十三の一 韓流魔道士

文字数 3,975文字

「壮信! 俺を信じろ!」
 異形でない俺は心から叫ぶ。
「思玲は目を開けて」

 抱える彼女を画面に向かわせて、琥珀のスマホの電源ボタンを押す。続いて放電。

「弱い」天から白虎の声が響く。「雷術とはこういうものだ」

「やめろ! 弟がいる!」

 この声が届かないならば、貴様は終わりだ。
 でもライトグレイの曇り空が光る。ただの人の単なる怒りなんて、忌むべき世界に届かない。
 瞬時に光に包まれて、スマホのアンテナがすべて吸収する。

 握る手がちょっとだけ痺れた。画面を見れば充電表示は赤色で1000%。緊急地震速報みたいな警告ブザー。スマホが熱を帯び膨らみだした……。

「わああ!」

 あわてて放り投げる。スマホは3メートル先の車道に転がる。
 黒い小犬が駆けてきて、それへと覆いかぶさる。くぐもった爆発音がした。

「もっと遠くに投げろよお」

 犬が俺へと非難めいた顔を向ける。……犬じゃないな。豆柴サイズだけど、たぶん子熊だ。間違いなく、人の目に見える異形だ。

「パニック寸前だから、ギャラリーの記憶を消していた。ここに着くまで、ずっとそんな感じの戦いだった。暴雪め……」
 イウンヒョクが上空を気にしながらやってきた。服が大きく破れ、血がにじんでいる。スニーカーの爪先を子熊に向ける。
「こいつは俺の式神の黒乱(フンナン)。暴雪が避ける存在だ。その隙に、そいつらの記憶を消すぞ」

 イウンヒョクの手に、顔を隠れるほどでかい白扇が現れる。俺達へと振る。
 弟だけが気絶する。思玲は目を見開く。

「私達にもまとめてかけたな。弱いから屁でもないが、哲人も大丈夫だよな」

 思玲が弱々しげに言うけど、おそらく俺もなにも忘れていない。壮信のが心配だ。受験のために詰めこんだ暗記まで消されただろうか。……峻計にのしかかり殴りまくった俺だけ忘れてほしい。

「哲人? こいつが皆の記憶に半端にも残らず、暴雪に狙われ続ける有名人か。俺も初めましてかな? どうでもいいよな。何歳だ?」
「二十歳です」

 どうでもよくないけど、異形の俺を覚えてない人に言ったところでどうにもならない。

「意外に若いな。俺は二十四歳……俺の下手くそな記憶消しでも、先生は妖術扱い。黒乱を人の目に見える異形と忌み嫌うし、年寄りはどんどん頭がかたくなって一緒に暮らせない」
 ウンヒョクがしゃがんで子熊の頭をさする。顔をあげる。
「暴雪がいかれた。町中で俺を待ちかまえた。本来ならばこんな傷は負わないから、思玲ちゃんは失望しないでね」

 白虎がいまにも襲ってきそうな状況下で、周囲の人に安堵をもたらす笑みを浮かべる。
 俺は思玲を抱える手を少しだけ強める。

「暴雪はしつこい。思玲と弟を避難させよう」
「必要ないよう」
 子熊の黒乱がのんきに答えやがる。

「異形の熊の毛皮は硬さが半端ないよな。お前は平気でも、私達は生身の人だ」
 思玲が俺に身を預けたままで言う。

「暴雪は黒乱を攻撃しない。あの化け物は小さい異形フェチだ。一緒にいる俺達も安全」

 そんな理由では安堵をもたらさない。たしかに琥珀も九郎も殺されなかったけど。

「だが異形だと冥界送りを仕掛けられるのでは?」
 思玲の問いに、

「黒乱の毛皮は跳ねかえす。つまり、ゆくゆくは星五つのかなりヤバい異形だ。この子が大人になるまえに処分しろなんてね。……さて俺は狩りを続ける。思玲はそこで休んでいて」

 遠くでカラスが鳴いている。俺を呼んでいる。
 そうだけど、ここは我が家だ。記憶消しで意識を失ったままの弟がいる。なにより術に精魂を注ぎ果てた思玲がいる。

「峻計は思玲を求めていた。儀式で使うためだ。あいつこそしつこい」
 俺は本人へ告げる。

「聞いていた。だが、なんであろうと私は哲人の弟を守る。私がだ」

 俺に抱えられた思玲が見つめてくる。叱咤の眼差し……。
 人間同士だ。彼女の告げたいことが体温を通じて伝わる。俺はうなずく。

「ウンヒョクさん。虎狩りはあなたに任せます」
 思玲から手をどかし立ち上がる。守るでなく攻めるために。
「すぐ近くの山腹に小さな神社がある。俺はそこへ行く」

「お天狗さんか?」

 思玲の問いにうなずく。
 あの騒いでいたカラスはミカヅキだ。あの石段を登れと、俺を導く声だ。
 そして、大峠の本堂で聞いたカラスの声もきっとミカヅキだ。あのときの鳴き声は、ドロシーから癒しを受けるのを止めさせるものだったんだ。結局は唇を奪われたけど、足が二本だけの単なるハシブトガラスである八咫烏は、俺がドロシーと結ばれるのを阻止しようとしていた。
 やっぱりあの女は魔女だ。俺は取り込まれかけていた。

「餌が動いてくれるのか?」
 ウンヒョクが俺の肩を叩く。「だったら同行してやる。黒乱はここに残れ」

「はあい。暴雪を殺したらウンヒョクさんも伝説だ」



「お前の毛皮は人の心を回復させるだと?」
「ちっちゃいうちはね。大きくなると心をくじく効果に変わるんだよお」

 思玲は末恐ろしい子熊を抱いている。……座敷わらしも人の心を強めると、師傅が言っていたな。いまの俺はどうだろう? 自分の心ぐらいは強められる。そうに決まっている。
 壮信はまだ目を覚まさない。ニョロ子は虎を探りに向かった。俺は知らぬ間に立ち上がっていた。

「そこに行くと何があるんだ? そりゃ何かあるのだろうけどさ、教えてくれ」
 知らぬ間に腕へと包帯を巻いたウンヒョクが尋ねてくる。

「分からない。でも信じられる声がした。……本当に弟と思玲は大丈夫ですか」

「ここは火伏せの神のホームグラウンド。廃墟みたいなお前の家に、また護札の力が戻った。同じものを弟も持っている」
 ウンヒョクが、知らぬ間に手にした白色Tシャツに着替えながら言う。
「憔悴してもかわいい思玲ちゃんは黒乱と一緒。なので白虎は襲えない。魔物女が戻ってきても、黒乱が熊手で切り裂き、牙で食い殺す。弱った異形は、化け熊の大好物だからな」
 破けたシャツを我が家である廃墟へ捨てやがったあとに、ポケットからだしたスマホをチェックする。
「麻卦から返事がない。あいつは一般回線を嫌がる」

 俺もスマホをだす。さきほど一瞬起動しかけた。でも立ち上がらない。琥珀のスマホは爆発したし天珠もないから、連絡はこれが頼りなのに。

「壊れたのか?」ウンヒョクが手を伸ばしてくる。
「水につかりました」
「乾燥してやる。貸してみろ」

 ウンヒョクの片手に馬鹿でかい扇が現れる。スマホを渡すと、扇で払ったあとにボタンを長押しする。

「あきらめて買い替えろ。次は韓国製にしろ」
 黒い画面のままで返される。

「ウンヒョク様はちょっと休憩が長いかもお。暴雪は待ってくれないよお」
 モフモフがゆったりした口調で強く告げる。

「すぐに行くよ。……白虎はウンヒョクさんを狙ったのですか?」

「なぜだかな。誰だって蜂に刺されたくないから、暴雪は俺の毒矢を嫌がる。でも今の奴は韓国にいたころと違う。なので俺といようが襲われるのを覚悟しておけ。着替えが済んだから駆けるぞ」
 ウンヒョクが唐突に走りだす。

「行ってくるよ」
 思玲の返事を待たずに追いかける。

 ……さすが魔道士。ついていけない速度だ。あっという間に20メートルぐらい突き放される。
 白虎はコンビニの屋根で待ちかまえていた。通りかかった俺へと飛びかかろうとする。

 ニョロ子からの視覚を受けた俺は、道でしゃがみ頭を抱える。地元で情けない姿だけど、見えない攻撃を避ける。代わりに国道で車が一台吹っ飛ぶ。

「またかよ。頼むから人を傷つけるな!」

 ウンヒョクがアーチェリーを構える。矢を継ぐなり続けざまに放つ。矢は消えていく。
 車から三十代男性がでてくる。怪我はなさそうだけど、自損事故で処理されるのだろう。本人も、やっちまったって感じ。

「当てたのは一本だけ。ここまでの戦いで三本。あと七本当てれば毒が効きだし、姿を隠せなくなり動きもにぶる。さらに二十本当てれば白虎でも倒せる」

 巨大な異形が三十本で死ぬ。どれだけ強い毒だ。あの化け物にそれだけ当てるのにどれだけかかる?

「結界は張れますか?」
「お前でも割れる薄いのなら。だけど俺は、お前らが倒した法董と南京で手合わせしている。五度やって一度はいい線までいった」

 つまり全敗じゃないか。あの破戒僧でも白虎に勝てそうもないのに。……墓地で俺を見捨てたとき、この人は自分を劉師傅と同格と言った。でも師傅ならば、法董など一蹴しただろう。

「あと五分で麓です。そこから山道を登ります」

 俺は走りだす。自分の身は自分で守りたいけど無理だ。でもニョロ子は、絶妙のタイミングで襲撃を教えてくれる。それに頼るしかない。

「来る」とイウンヒョクが隣に来る。空の四方に弓を構える。だけど何も起きない。
 ニョロ子も、なにも心に伝えてこない。俺達はまた走りだす。

 俺の実家近辺は歩行者は少ない。それでも年配女性二人とすれ違う。

「来た」

 ウンヒョクが歩道に転がり弓を構えるので、お婆さん達が悲鳴をあげる。

「驚かしましたね。失礼」
 ウンヒョクは何もなかったように笑みを浮かべて立ちあがる。
「ずっとフェイントばかりだ。気の緩むときを待っている」

「……暴雪はウンヒョクさんを倒すつもりですか?」

「ぼかすなよ。殺す気だ」
 ウンヒョクがまた駆けだす。「先生が来ようが、従うか分からない」

 背後から暴雪が突進してきた。逃げ道ない橋で。

「くそっ」

 俺は欄干を乗り越えかけて、ウンヒョクに抱えられる。

「お前も引っかかったな」
 ウンヒョクが笑みを浮かべる。

「俺じゃなくてニョロ子です」

 真上で飛び蛇が頭を下げていた。
 たしかに、これだと心が持たない。有能なニョロ子でさえ。

「ニョロ子? ポケモンにでてきそうだな。小学生が名づけたのか?」

 失礼を言いながら、またウンヒョクが駆けだす。俺も追いかける。お天狗さんの参道入口が見えてきた。




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