四十の二 龍となり得る者

文字数 3,043文字

 俺はまだ妖怪変化だ。足が地面を蹴るたびに、疾走する自転車みたいに景色が流れる。高い柵に手をかけて体を持ちあげ、球場内に飛びおりる。
 グラウンド上にひろがる東京の夜空に、半月はもう見あたらない。小鳥だけがいた。
 久しぶりに二人きりだ。桜井の人である幻影が浮かびあがる。彼女はグラウンドに落ちた石ころを蹴っている。分かりやすいほどさみしげだ。
 彼女へと歩み寄る。

「なにかあったの?」
 あったに決まっているけど、ほかに言いようがない。
「思玲がまた結界を張るってさ。新しい扇に慣れたから、すごく厳重のを作るって。戻ろう」

「さっき叫んだこと? むしゃくしゃしただけだし」
 桜井が見つめてくる。「……松本君は大丈夫そうだね」

 不機嫌なときの桜井だ。人であったときに接したこともある。

「俺だって発散したいよ。今度、みんなでカラオケに行こうか」

 笑いかける。桜井は無表情だ。俺の肩に飛んでこない。人の幻影として寄り添ってくれない。
「……ごめん。ふざけすぎた」

 彼女は言葉を返してくれない。沈黙が流れてしまう。

「みんなのところに帰ろう」
 他にかける言葉がない。

「ううん。帰らないよ。人に戻るまで一人でいる」

 そう思う気持ちは分かる。でも、きっとなおさら塞がる。

「危ないよ。楊偉天も来ている」
「私といるほうが危ないし」

 そんなことを言われても……。

「たしかに桜井の気配はすごいけど、今さら気にする必要はないと思う」
「そういう意味じゃない!」

 桜井が目をつぶって怒鳴る。青龍の気配があふれる。
「……すごいよね。自分でも分かる。化け物が私の中にいることが」

「それは俺だって同じだよ。たまたま桜井は――」
「私は別ものだよ」
 俺の言葉をさえぎる。「しかも、こいつは腹を減らしている」

 鼓動がひとつ割りこんだ。

 思玲からあの話を聞いたのが、ずっと昔に感じる。やがて誰かがおぞましい食いものを欲し、それを皮切りにみなが飢えにさいなむと。そして……。

「いつから?」
 俺は狼狽を隠しているだろうか?

「思玲さんと木の葉を探している頃からかな? ううん、もっと前からかも。戦いが終わるたびに、おなかが空いた気はしていた」
 桜井の笑みを感じる。投げやりでさみしげな笑みだ。
「学校の前で野良犬をやっつけたよね。そのまま食い殺そうと、私の中の化け物がした。……しかもだよ。さっきグロすぎて怖すぎる怪物が二匹も来たじゃない? 私、どう思ったと思う? わあ、おいしそう。もうがまんできない。そう感じたんだよ!」

 青龍の気配が爆発する。

――手長と多足は餌だ

 琥珀が残した言葉の意味を知った。怪しまれてもおかしくないほどに、必死に伝えてきた理由も分かった。化け物達を生贄に、桜井を龍にさせないためだ。楊偉天め……。

「夏奈、心配はいらないよ。俺が守るから」

 俺は怒りを飲みこむ。
 一年生の冬。彼女との二度目の出会いを思いだす。俺とのハイタッチを空振りした桜井。嘘偽りなく俺が守る。

「みんなにうつっちゃうし。松本君まで、おなかを減らしだす」
「心配ないよ。今から箱を取りかえすから。だから、こっちにおいで」

 俺は両手をあわせて前にかざす。桜井はちょっとだけ逡巡したあとに、俺の手へと手を重ねる。俺は両手をあわせて青い小鳥をやさしく包みこむ。人である桜井をやさしく抱きしめる。シャツの中へと小鳥をいざなう。
 人としての桜井の魂と直接触れあう。

『松本君、こんなに怒ってくれていたんだ。私のために。みんなのために』

 人である桜井が俺に寄り添う。
 互いに全裸であろうと、俺は彼女に寄り添わない。心を外だけに向ける。

「俺達も戦うと、思玲に伝える。あいつらを倒しにいく。夏奈はここで休んでいなよ。目を開けたら人に戻っているから」
『寝るはずねーし。……色々あったんだ。みんな伝わってくる。松本君が一番戦っていた』

 心が接しているから返事など必要ない。

『はは、気にしてたんだ。私のがいっぱい光を受けたからかな、ずっと松本君の幻は見えてたよ。でも、小さい松本君が必死こいているのも格好良かった』

 今さらそんなことどうでもいいや。俺は思玲達のもとへと駆ける。

 ***

「師傅が箱を抱えて来られるのを待て。まったくもって愚かな判断だ」
 思玲ににらまれる。
「哲人らしからぬな。桜井にそそのかされたのでは――」

 彼女が感づく。俺はうなずく。

「まことの青龍ゆえ、前例などあてにならぬか。だが哲人だけに行かせぬ。みなを置いていくなど言語道断……。川田、どうすればよいと思う?」

 彼女は足もとの子犬に意見を請う。川田は結界に入らなかった。

「ドーンは本調子じゃないし、瑞希ちゃんはとりあえず人だ」
 子犬の片目に眼光が宿る。
「それより桜井になにがあった?」

 手負いの獣はいくら五感も六感もさえようが、機微を察してくれない。

「腹を減らしている。じきに人ではなくなる」俺が伝える。

「それをはやく言え」
 子犬が思玲を見上げる。
「結界を消して六人で行く。最後ならば、力をあわせないと悔いが残る」

 川田の決断になら従うけど、横根もか? これより先は彼女を巻きこむべきではない。

「瑞希はとりあえず人ではない。哲人が落とした白玉の破片は、瑞希へと一直線に飛んでいった」

 俺が落とした? あれはたしかポケットに入れて……、琥珀のスマホを押しこんだときに押しだされたのか? そして目の前にいるもとの持ち主のところへ喜び戻っていった……。俺はなにをしているのだ。

「かくなるうえは、お前達の判断に付き合う」

 思玲が扇を振るう。結界が消え去り、人の姿のままの横根が現れる――。カラスと談笑していた。

「あ、和戸君、結界が消えたよ」
 横根が立ちあがる。俺に気づく。
「ほんとだ。いつもの松本君だ。……でも人じゃないんだ」

 横根の目に万感がこもった涙が浮かびあがる。
 彼女は人の姿のままだけど、俺が見えて俺達の声が聞こえる。俺がこぼした白い光のかけらのせいで。

「結界を消したってことは、いよいよってこと?」
 ドーンが俺の頭に飛んでくる。
「俺はまだいがらっぽいけど、思玲に比べたら絶好調かも。カカカホ、ゴホ……。わりい、むせた」

「和戸。哲人には桜井を任せる。私の肩にとまれ。つらいのならば抱えてやってもいい」
 ついで彼女は横根に笑みをかける。
「私ですら言いだしづらいな。お前には白虎の光――」

「一緒に行きます」
 横根がためらいもなく言う。

「ならば急ごうぜ。体で受けたからな。師傅の術なら見つけられる」
 小犬が空の匂いを嗅ぎ、ちょこちょこと駆けだす。

 カラスを肩にした思玲が一度だけ深く息を吸う。背筋を伸ばし川田のあとを追う。

「松本君、ちょっと待って」
 横根が管理室へと駆けていく。脇のロッカーにかばんを入れて、小銭を投入する。
「スマホ以外は邪魔だし、なくすかもしれないし」
 俺に笑いかけながら、ロッカーの鍵を胸ポケットにしまう。
「結界の中で、今の記憶を走り書きしたんだ。だから和戸君と盛りあがっちゃったけど、それも閉まっておいた。……それは今の心だから、それをなくしちゃ駄目だものね。絶対に」
 また歩きだす。

『いざとなったら私も戦う』桜井が告げる。
 心配するなよなんて、俺は言わない。俺の気持ちはすべて伝わる。


 川田達に追いつく。遅れてきた俺達を気にもとめない。

「これが正しい選択だと決して思わぬ」
 思玲のつぶやきだけが聞こえる。
「だが最高の選択に変えてやる。最後ぐらいは」




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