三十九の四 俺の責任
文字数 4,886文字
気を失った人々のなかで、タンクトップの白人男が立っていた。
「ジーザス……ゼイアー、イエローファントム! ……シット、ファントム! ファントム!」
タトゥーだらけのぶっとい腕。両手でかまえた拳銃を俺達に向ける。
また人の作りし轟音。
経験豊富なのか、恐るべき命中率。忌むべき異形の二人には通用しない。ドロシーの露出した胸もとの肌が弾く。俺に当たった弾もデニーのタキシードに穴を開けるだけ。
弾が尽きた音がして、男は呆然とする。
ぞわっ
追い詰められたものの怯え。
浮かぶドロシーが俺を手放す。上唇を舐めて、両手を白人へと向ける。
「……住手 、住手 !」
「住手 !」
やめて……やめて!
やめろ!
ドロシーとデニーの中国語が飛び交い、倒れたままのデニーが偃月刀を片手で振るう。
偃月刀は砕け散りながら、紅色の閃光をはじく。デニーは床に叩きつけられる。
「ウオオオオ!」
狙われた白人は泣いている。アーミーナイフを手にドロシーへ突進する。
「别来了 !」
またも紅色の閃光。俺は男を抱えるように飛びだす。
ドックン
火伏せの護符が発動して、峻計の暗黒の光さえ飲みこんだ強烈な光をはじ……けるはずなく、男ごと人々のなかに吹っ飛ぶ。……背中が燃える。溶けているかも……。
朱雀くずれ、あり得ぬほど強すぎ。
「哲人さん!」
ドロシーが人の声で悲鳴をあげる。
「大丈夫だから、もう打たないで」
まったく全然大丈夫でないけど、彼女を手で制しながら立つ。妖怪のくせに油汗がとめどない。
「アミ……ケント……。ウオオオオ!」
白人男も、なお立ち上がる。わめきながら俺を押しのけようとする。俺の首を狙ったナイフが折れる。
「服に護りの術をかけても物理的な打撃には弱い。それには至近距離からの弾丸も加わる」
デニーが呻くように言う。
「それでも弾の威力を弱めてくれたから、私は死なない。……心の強い人間に術は通用しない。それを見極めず、おざなりに扇を振った私の落ち度だ」
仰向けのデニーの手にまた扇が現れる。もう片方の手で脇腹を抑えながら、それをはらう。
またも記憶消しを受けた白人が、白目となりうつ伏せに倒れる。俺にもかかったけど、護符が跳ねかえしてくれた。
デニーが天井近くを見あげる。
「ファントムなドロシーめ、私の服に穴を開けたな。ゆるしてやるから、二度と人に術を向けるな」
「あの人間が悪い。……二人とも大丈夫? 平気?」
どちらも全然平気じゃなさそうだけど、人であるデニーこそ重傷に決まっている。忌むべき力があろうと、実弾には勝てない。
「医者へ行きましょう」彼へと告げる。
「銃創を見せられるはずないし銀丹の軟膏がある。それを塗れば気休め程度には効く。君達は貪を追撃してくれ。さもないとこの傷は無駄になる」
それから彼は少しだけ悩み、ドロシーへと、
「封じる方法は知っているよな。香港こそが本場だ」
「お爺ちゃんの特技です。何度か見せてもらっていますので、私ならばできます」
自信たっぷりに答える。反省の態度を見せてほしい。
「信じるしかないな。貪を瀕死にして閉じ込めろ」
デニーがドロシーへと天珠を突きだす。
「通信機能はないが聖なる力にあふれている。貪に心も読まれない。……倒すなよ。貪が本来の姿になれば、あなたでも消滅させることはできない。満月である明日、早々に復活される」
「デニーさんの手が血だらけ……おえっ、ご、ごめんなさい。だったら横根さんを連れてきます。ちょっとだけ待っていてください」
ドロシーが天珠を指でつまんで受けとるなり、言葉とおりに飛んでいく。ドアを閉めぬままで去っていく。
いつでもどこでも独断専行。思玲の猪突猛進とは違う。思玲は『考えるまえに動け。やばけりゃ閉じこもれ』。ドロシーは『思うままに動け。やばけりゃ打ちまくれ』。
しかし背中が痛い。回復が遅い。
「あの子の姿は雨でも隠しきれないぞ」
デニーが座りこむ。つらそうに息を吐いたあとにスマホを耳にあてる。
「私だ。ドロシーが向かうから結界をはずすよう殲に伝えてくれ」
横根に伝えて一方的に切る。ポケットからチューブを取りだす。
「唐を呼ばないのですか?」
しゃがんで彼の肩に手をまわしつつ尋ねる。不気味な巨大クラゲなくせに、癒やしを授けてくれる。
「飛び蛇に見せられたのか。私が記憶を消したこともだな。……唐は身を削り人を回復させる。海で休むまでは三回が限度だ。なので大姐のためにとっておく」
「だったら、もぐりの医者に診てもらいましょう」
漫画で見かけた情報を口にする。
「日本にはそんなのものがあるのか? 私達はその上をいく非合法だ。この国ですがれるのは影添大社だけだが、もちろん頼るなどしない。……かすめただけだから心配するな。本当に危険だったら正規の救急車を呼ぶ。治療を受けたあとに端から記憶を消し、ベッドから立ち去る。
むしろこの時間が惜しい。人でなきドロシーならば一人だけで済ませただろうに、貪は逃げ切りそうだ」
デニーが雨合羽を脱ぐ。白いTシャツに血がにじんでいた。それを脱ぐのを支える。左わき腹の穴から血がとめどなく流れていた。流範に裂かれた白猫を思いだしてしまう。
彼はそこへと人さし指を突っこむ。うめきながら抜いた指の先に銃弾が貼りついていた。
「これでかすめたと同じになった」
デニーは荒い息のまま目をつむる。歯磨きチューブ一本分の塗り薬を押し込む。肌の外への出血は止まり、おおきく息を吐く。
こんな荒療治を見せられると、自分の傷の痛みを忘れてしま……える程度のドロシーの一撃でなかった。なおさら背中がズキズキする。
「モルヒネを打ちたいな……。君は魔物退治でなく彼女を助けにきただけ。もちろん感謝している。もっと悲惨になっていたからな」
心の声だろうと、弱弱しくなるのはなぜだろう。
「喋らないほうがいいです。ドロシーが横根を連れにいったのは、彼女が誰よりしっかりしているからです」
「君よりもか?」
「ドロシーよりもです。祈りの資質もある」
「知っている。それに頼っていいか?」
「それは彼女が決めます」
横根はどうするだろうか。おのれの魂がまた削られようとも、なおも人を救うだろうか。
「大姐と連絡をとらないのですか?」
「心配させたくない。治ってからだ。君は『闭嘴 』と言いながら質問だらけ。気がまぎれて助かる」
この人は薄く笑い、ようやくリュックサックをおろす。固いフロアで横になり目をつむる。
人々はまだ眠っている。いびきをかく人もいる。
「刀が壊れましたね。すみません」
この人はドロシーを咎めなかった。服に穴が開いたと、冗談で済ませた。
「君が謝る必要ない。……私に関係なく、いずれ松本はすべての記憶をなくす。単なる大学生に戻れるかもしれない。
そのときには、私が彼女を守ってやるから心配するな。あの子は強いくせに弱すぎる。バランスが危うい」
どくん
「俺は青い瞳を残したままで生きていきます。護符もあるので、ドロシーを守れます」
「君は桜井夏奈を捨てる?」
「捨ててなんかいない。最初から夏奈とはなにもなかった」
ドロシーと過ごした時間のが、はるかに多い。「人であったときも二人の思い出なんて……」
大みそかの手前。そこだけひっそりしたショッピングモールの踊り場。
エスカレーターから飛び降りた夏奈。あとに続いた俺。
「女学生のような質問ばかりで済まない。私は恋愛ドラマが好きなんだ。……はやく戻ってきてほしい。ここから立ち去るべきだ」
デニーが早くも腰を起こす。
「ニョロ子が仕切るのですぐだと思います。あの蛇は俺よりもしっかりしている」
「ニョロ子? 忍でなかったのか」
しまった……いまさらどうでもいい。俺は二度も記憶を消されたけど、この人はもはや敵ではない。戦いの終わり近くに現れてリタイアするだけだ。おのれの役目を果たして。
「そんなダサい名前をつけるはずないです」
デニーはしばらく黙っていたけど、ポケットから煙草を取りだす。
「それもお見通しだったか。あの蛇は連れ帰る予定だった。龍も、蒼き狼も、川田陸斗も。……月神の剣も。不夜会を強くする何もかもをだ」
ライターで火をつけて一服吸う。
「ドロシーだけでも連れていくべきかな。香港在住は深圳のドブ川よりこっちが嫌いだけど、彼女に行く当てはない」
煙を吐きだす。
「……彼女はずっと」
ドロシーでも夏奈でもなく、いまの思玲の顔が浮かんだ。でもきっと。
「ドロシーはずっとずっと俺といます」
「君は彼女を戦いに利用するだけだ。彼女も気づいている。だから動揺する」
「俺は一度もそんなことをしていない!」
たしかに影添大社で彼女が冥神の輪をかざしたとき、怒りを覚えた。かなりきつい言葉をかけてしまった。さらに怒りは嫌悪に変わった。
でも、いまはゆるしている。何度も術をぶつけられようが、ゆるしてきたように……これからもゆるせるだろうか。
「むきにならなくていい。だが私があとちょっとだけ若かったら、君と彼女を奪いあっていた。日本人に騙されるなと、抱いて引き留めた。それでも彼女は君についていく。
……人の記憶を自在に消せるから、ぺらぺらと喋る。恥ずべき習慣を、護符を持つ君の前でもしてしまった」
大人の余裕だろうか。重い傷を負ったこの人はなおも弱みを見せない。むしろ俺が労 ってもらっているみたいだ。そりゃ閃光をぶつけられた背中は痛いままだけど……。
この人ならば答えを持っているかも。
「藤川匠は、ドロシーが魔女になると言った。ドロシーを倒すために生まれ変わったらしい」
フロレ・エスタスとともに。
デニーは俺の言葉を考えている。一分近く過ぎて、煙草のさきの溜まった灰を落とす。
「魔女とは肩書きだ。力ある魔道士ならば誰でも名乗れる。それをさせないのは、彼女を信じて、かつ彼女を凌 ぐ力をもつ人の責任だ。さもないと、大姐を傷つけた者が正しいことになる」
「……わかりました」
七難八苦最後のさだめを。
「でも俺はドロシーだけを信じていません。たっぷりと出逢ってきました。その中には、ずっと信じられる人がいます」
また思玲の顔が浮かぶ。当然だ。当たり前だ。
「だろうな。私もだ。そうなったのは、ドロシー本人の責任だ」
そう言ってデニーはむせる。脇腹を押さえながら階段に目を向ける。
「失礼……たしかに早い。さすがだが、忍のが似合いそうだ」
同意するようにうなずくニョロ子を先頭に、横根を抱えたドロシーが浮かびながら降りてきた。
「私があなたを守ります。絶対に」
着地した横根が、強い目でデニーを見る。胸もとの珊瑚が濡れたように光る。忌むべき杖を持たぬ側の手に十字羯磨が現れる。
「これで結界も張れるし、スマホで救急車も呼べる。私一人で大丈夫」
俺は白猫を思いだす。そして思う。これが横根の忌むべき世界での最後の役割だ。
「目を見ればわかる。君ならば弔いの祈りをできそうだな」
デニーがもう一度だけ煙草を吸う。
「そんなものは絶対にやりません。それ以外ならばなんでもする。どんな危険でも」
「賭博は避けるべきだな。通訳として医者に同行だけしてほしい」
「はい」と横根は返事して、俺とドロシーに顔を向ける。
「殲が待っている。貪を封じて、ひとつだけでも終わりにして。絶対にだよ」
横根瑞希ならばやり遂げるから、デニーは生き延びる。俺は俺の役目を果たすだけ……責任を遂げるだけだ。
「わかった」
「是 」
二人は横根へと人の言葉で返事する。
デニーが俺へとリュックサックを突きだす。無言で受けとる。
開けたままのドアから聞こえるのは嵐の音だけ。立ち上がった俺の肩にニョロ子が降りる。
誰も私の追跡から逃げられないの
自信ありげな顔を俺の鼻に寄せてくるので、頭をなでてあげる。背中に尻尾が当たって痛い。とてもリュックを背負えない。
胸ポケットから木札をだす。……舌を打ちそうになる。所有者の母親のしわざで早々に焦げていた。
だとしても龍狩りだ。悪しきドラゴンを倒す正義な朱雀のショータイムだ。甲羅がひりひり痛む、丸腰の玄武が付き従う。
次回「チェイスドラゴン」
「ジーザス……ゼイアー、イエローファントム! ……シット、ファントム! ファントム!」
タトゥーだらけのぶっとい腕。両手でかまえた拳銃を俺達に向ける。
また人の作りし轟音。
経験豊富なのか、恐るべき命中率。忌むべき異形の二人には通用しない。ドロシーの露出した胸もとの肌が弾く。俺に当たった弾もデニーのタキシードに穴を開けるだけ。
弾が尽きた音がして、男は呆然とする。
ぞわっ
追い詰められたものの怯え。
浮かぶドロシーが俺を手放す。上唇を舐めて、両手を白人へと向ける。
「……
「
やめて……やめて!
やめろ!
ドロシーとデニーの中国語が飛び交い、倒れたままのデニーが偃月刀を片手で振るう。
偃月刀は砕け散りながら、紅色の閃光をはじく。デニーは床に叩きつけられる。
「ウオオオオ!」
狙われた白人は泣いている。アーミーナイフを手にドロシーへ突進する。
「
またも紅色の閃光。俺は男を抱えるように飛びだす。
ドックン
火伏せの護符が発動して、峻計の暗黒の光さえ飲みこんだ強烈な光をはじ……けるはずなく、男ごと人々のなかに吹っ飛ぶ。……背中が燃える。溶けているかも……。
朱雀くずれ、あり得ぬほど強すぎ。
「哲人さん!」
ドロシーが人の声で悲鳴をあげる。
「大丈夫だから、もう打たないで」
まったく全然大丈夫でないけど、彼女を手で制しながら立つ。妖怪のくせに油汗がとめどない。
「アミ……ケント……。ウオオオオ!」
白人男も、なお立ち上がる。わめきながら俺を押しのけようとする。俺の首を狙ったナイフが折れる。
「服に護りの術をかけても物理的な打撃には弱い。それには至近距離からの弾丸も加わる」
デニーが呻くように言う。
「それでも弾の威力を弱めてくれたから、私は死なない。……心の強い人間に術は通用しない。それを見極めず、おざなりに扇を振った私の落ち度だ」
仰向けのデニーの手にまた扇が現れる。もう片方の手で脇腹を抑えながら、それをはらう。
またも記憶消しを受けた白人が、白目となりうつ伏せに倒れる。俺にもかかったけど、護符が跳ねかえしてくれた。
デニーが天井近くを見あげる。
「ファントムなドロシーめ、私の服に穴を開けたな。ゆるしてやるから、二度と人に術を向けるな」
「あの人間が悪い。……二人とも大丈夫? 平気?」
どちらも全然平気じゃなさそうだけど、人であるデニーこそ重傷に決まっている。忌むべき力があろうと、実弾には勝てない。
「医者へ行きましょう」彼へと告げる。
「銃創を見せられるはずないし銀丹の軟膏がある。それを塗れば気休め程度には効く。君達は貪を追撃してくれ。さもないとこの傷は無駄になる」
それから彼は少しだけ悩み、ドロシーへと、
「封じる方法は知っているよな。香港こそが本場だ」
「お爺ちゃんの特技です。何度か見せてもらっていますので、私ならばできます」
自信たっぷりに答える。反省の態度を見せてほしい。
「信じるしかないな。貪を瀕死にして閉じ込めろ」
デニーがドロシーへと天珠を突きだす。
「通信機能はないが聖なる力にあふれている。貪に心も読まれない。……倒すなよ。貪が本来の姿になれば、あなたでも消滅させることはできない。満月である明日、早々に復活される」
「デニーさんの手が血だらけ……おえっ、ご、ごめんなさい。だったら横根さんを連れてきます。ちょっとだけ待っていてください」
ドロシーが天珠を指でつまんで受けとるなり、言葉とおりに飛んでいく。ドアを閉めぬままで去っていく。
いつでもどこでも独断専行。思玲の猪突猛進とは違う。思玲は『考えるまえに動け。やばけりゃ閉じこもれ』。ドロシーは『思うままに動け。やばけりゃ打ちまくれ』。
しかし背中が痛い。回復が遅い。
「あの子の姿は雨でも隠しきれないぞ」
デニーが座りこむ。つらそうに息を吐いたあとにスマホを耳にあてる。
「私だ。ドロシーが向かうから結界をはずすよう殲に伝えてくれ」
横根に伝えて一方的に切る。ポケットからチューブを取りだす。
「唐を呼ばないのですか?」
しゃがんで彼の肩に手をまわしつつ尋ねる。不気味な巨大クラゲなくせに、癒やしを授けてくれる。
「飛び蛇に見せられたのか。私が記憶を消したこともだな。……唐は身を削り人を回復させる。海で休むまでは三回が限度だ。なので大姐のためにとっておく」
「だったら、もぐりの医者に診てもらいましょう」
漫画で見かけた情報を口にする。
「日本にはそんなのものがあるのか? 私達はその上をいく非合法だ。この国ですがれるのは影添大社だけだが、もちろん頼るなどしない。……かすめただけだから心配するな。本当に危険だったら正規の救急車を呼ぶ。治療を受けたあとに端から記憶を消し、ベッドから立ち去る。
むしろこの時間が惜しい。人でなきドロシーならば一人だけで済ませただろうに、貪は逃げ切りそうだ」
デニーが雨合羽を脱ぐ。白いTシャツに血がにじんでいた。それを脱ぐのを支える。左わき腹の穴から血がとめどなく流れていた。流範に裂かれた白猫を思いだしてしまう。
彼はそこへと人さし指を突っこむ。うめきながら抜いた指の先に銃弾が貼りついていた。
「これでかすめたと同じになった」
デニーは荒い息のまま目をつむる。歯磨きチューブ一本分の塗り薬を押し込む。肌の外への出血は止まり、おおきく息を吐く。
こんな荒療治を見せられると、自分の傷の痛みを忘れてしま……える程度のドロシーの一撃でなかった。なおさら背中がズキズキする。
「モルヒネを打ちたいな……。君は魔物退治でなく彼女を助けにきただけ。もちろん感謝している。もっと悲惨になっていたからな」
心の声だろうと、弱弱しくなるのはなぜだろう。
「喋らないほうがいいです。ドロシーが横根を連れにいったのは、彼女が誰よりしっかりしているからです」
「君よりもか?」
「ドロシーよりもです。祈りの資質もある」
「知っている。それに頼っていいか?」
「それは彼女が決めます」
横根はどうするだろうか。おのれの魂がまた削られようとも、なおも人を救うだろうか。
「大姐と連絡をとらないのですか?」
「心配させたくない。治ってからだ。君は『
この人は薄く笑い、ようやくリュックサックをおろす。固いフロアで横になり目をつむる。
人々はまだ眠っている。いびきをかく人もいる。
「刀が壊れましたね。すみません」
この人はドロシーを咎めなかった。服に穴が開いたと、冗談で済ませた。
「君が謝る必要ない。……私に関係なく、いずれ松本はすべての記憶をなくす。単なる大学生に戻れるかもしれない。
そのときには、私が彼女を守ってやるから心配するな。あの子は強いくせに弱すぎる。バランスが危うい」
どくん
「俺は青い瞳を残したままで生きていきます。護符もあるので、ドロシーを守れます」
「君は桜井夏奈を捨てる?」
「捨ててなんかいない。最初から夏奈とはなにもなかった」
ドロシーと過ごした時間のが、はるかに多い。「人であったときも二人の思い出なんて……」
大みそかの手前。そこだけひっそりしたショッピングモールの踊り場。
エスカレーターから飛び降りた夏奈。あとに続いた俺。
「女学生のような質問ばかりで済まない。私は恋愛ドラマが好きなんだ。……はやく戻ってきてほしい。ここから立ち去るべきだ」
デニーが早くも腰を起こす。
「ニョロ子が仕切るのですぐだと思います。あの蛇は俺よりもしっかりしている」
「ニョロ子? 忍でなかったのか」
しまった……いまさらどうでもいい。俺は二度も記憶を消されたけど、この人はもはや敵ではない。戦いの終わり近くに現れてリタイアするだけだ。おのれの役目を果たして。
「そんなダサい名前をつけるはずないです」
デニーはしばらく黙っていたけど、ポケットから煙草を取りだす。
「それもお見通しだったか。あの蛇は連れ帰る予定だった。龍も、蒼き狼も、川田陸斗も。……月神の剣も。不夜会を強くする何もかもをだ」
ライターで火をつけて一服吸う。
「ドロシーだけでも連れていくべきかな。香港在住は深圳のドブ川よりこっちが嫌いだけど、彼女に行く当てはない」
煙を吐きだす。
「……彼女はずっと」
ドロシーでも夏奈でもなく、いまの思玲の顔が浮かんだ。でもきっと。
「ドロシーはずっとずっと俺といます」
「君は彼女を戦いに利用するだけだ。彼女も気づいている。だから動揺する」
「俺は一度もそんなことをしていない!」
たしかに影添大社で彼女が冥神の輪をかざしたとき、怒りを覚えた。かなりきつい言葉をかけてしまった。さらに怒りは嫌悪に変わった。
でも、いまはゆるしている。何度も術をぶつけられようが、ゆるしてきたように……これからもゆるせるだろうか。
「むきにならなくていい。だが私があとちょっとだけ若かったら、君と彼女を奪いあっていた。日本人に騙されるなと、抱いて引き留めた。それでも彼女は君についていく。
……人の記憶を自在に消せるから、ぺらぺらと喋る。恥ずべき習慣を、護符を持つ君の前でもしてしまった」
大人の余裕だろうか。重い傷を負ったこの人はなおも弱みを見せない。むしろ俺が
この人ならば答えを持っているかも。
「藤川匠は、ドロシーが魔女になると言った。ドロシーを倒すために生まれ変わったらしい」
フロレ・エスタスとともに。
デニーは俺の言葉を考えている。一分近く過ぎて、煙草のさきの溜まった灰を落とす。
「魔女とは肩書きだ。力ある魔道士ならば誰でも名乗れる。それをさせないのは、彼女を信じて、かつ彼女を
「……わかりました」
七難八苦最後のさだめを。
「でも俺はドロシーだけを信じていません。たっぷりと出逢ってきました。その中には、ずっと信じられる人がいます」
また思玲の顔が浮かぶ。当然だ。当たり前だ。
「だろうな。私もだ。そうなったのは、ドロシー本人の責任だ」
そう言ってデニーはむせる。脇腹を押さえながら階段に目を向ける。
「失礼……たしかに早い。さすがだが、忍のが似合いそうだ」
同意するようにうなずくニョロ子を先頭に、横根を抱えたドロシーが浮かびながら降りてきた。
「私があなたを守ります。絶対に」
着地した横根が、強い目でデニーを見る。胸もとの珊瑚が濡れたように光る。忌むべき杖を持たぬ側の手に十字羯磨が現れる。
「これで結界も張れるし、スマホで救急車も呼べる。私一人で大丈夫」
俺は白猫を思いだす。そして思う。これが横根の忌むべき世界での最後の役割だ。
「目を見ればわかる。君ならば弔いの祈りをできそうだな」
デニーがもう一度だけ煙草を吸う。
「そんなものは絶対にやりません。それ以外ならばなんでもする。どんな危険でも」
「賭博は避けるべきだな。通訳として医者に同行だけしてほしい」
「はい」と横根は返事して、俺とドロシーに顔を向ける。
「殲が待っている。貪を封じて、ひとつだけでも終わりにして。絶対にだよ」
横根瑞希ならばやり遂げるから、デニーは生き延びる。俺は俺の役目を果たすだけ……責任を遂げるだけだ。
「わかった」
「
二人は横根へと人の言葉で返事する。
デニーが俺へとリュックサックを突きだす。無言で受けとる。
開けたままのドアから聞こえるのは嵐の音だけ。立ち上がった俺の肩にニョロ子が降りる。
誰も私の追跡から逃げられないの
自信ありげな顔を俺の鼻に寄せてくるので、頭をなでてあげる。背中に尻尾が当たって痛い。とてもリュックを背負えない。
胸ポケットから木札をだす。……舌を打ちそうになる。所有者の母親のしわざで早々に焦げていた。
だとしても龍狩りだ。悪しきドラゴンを倒す正義な朱雀のショータイムだ。甲羅がひりひり痛む、丸腰の玄武が付き従う。
次回「チェイスドラゴン」