三十八の一 宵待少女

文字数 2,490文字

 コオロギ達が元気に鳴いている。

「張師兄、お別れです」
 思玲が転がる麗豪を見おろす。
「あなたは香港経由で南京に戻ることになりました。旅をお楽しみください。……日月潭の森で祭師兄を殺したのは、私ではございません。あなたの最終目的地で、祭が火にあぶられながら待っています。あの夜の出来事は、地獄の底で奴からお聞きください」

「魔女みたいな言い草だ。そこにはほかに誰がいる?」
 雷に焦げた麗豪が、なおも思玲へと笑う。
「昇か? お前の弟も、そこでお前を待っ――」

 思玲が麗豪の顔を蹴る。飛ばされた眼鏡を踏みしだく。縛られた男は抵抗できない。

「ハラペコ、惜別は済んだ」
 思玲が振りかえる。
「リクト行くぞ。龍を呼べたら、でっかい狩りが始まるからな」

 露泥無である闇が男を包む。リクトである川田が喜々として山道に入る。俺と横根は顔を見合わせる(ドーンは頭上だ)。思玲の弟……。初耳だ。

「思玲……」

 俺の声など彼女は聞かない。ずんずんと川田のあとを追う。横根が追いかける。

「聞くなってことじゃね」

 関わる気などなさそうなドーンを頭に乗せて、俺も続く。俺だって俺達のことで精いっぱいだけど。

 ***

 山道を下ってくる人はいない。護符を手にした思玲がリュックサックを背負っている。横根にはサテンをかけさせた。もはや全員がターゲットだ。誰も喋らないから静かすぎる。

「やっぱり納得できねーし」
 そうなるとドーンがくちばしを開く。
「やめるべきじゃね? 瑞希ちゃん、そうしよ」

 前を行く横根から返事がない。透明な体は暗くなると見えなくなりそうだ。思玲も黙っている。林の中の山道は、足もとへと懐中電灯が欲しいくらいだ。

「哲人からも言えよ。ヤバいことをやりそうな連中だろ?」
「うるさい!」

 横根が立ちどまる。振り向きはしない。
「……夏奈ちゃん」
 彼女のつぶやく声は林の静けさに消えていく。秋の虫達にかき消される。
「夏奈ちゃーん!」
 ありふれた雲がくすんできた空へと叫ぶ。

「やっぱりやめよう」
 俺は彼女に言う。なのに、

「夏奈ちゃん! 夏奈ちゃん! 夏奈ちゃん!!!」
 泣きながら絶叫する。闇に沈みかけた山は問いかえしてもくれない。

「瑞希、もうやめろ」
 少女が横根の腕を引く。
「その声が届いたならば桜井は戻ってくる。それよりリクトがいなくなった。あの馬鹿犬こそ呼びかえさないと」

 早々にかよ。……夜が近づき、異形が少女を愛ではじめている。その魔除けのごとき手負いの獣は夜を待ちきれないでいる。俺は夜など来てほしくない。新月であろうと。

「俺が探す」
 ドーンが頭から飛びかけたので、その足をつかむ。
「……分かったよ」

 空中でこけたカラスが、俺の言いたいことを察する。
 しかしケビンがいないと、もはや手負いの獣を御せられないかも。どうやって探す? 山道を進むだけでも緊張する暗さだ。

「私が呼び戻す。どうせ外ポケットだろ」
 思玲がリュックを降ろす。鷹笛と犬笛を取りだした……。それは触ってはいけないものだ。なのに少女は口にくわえる。
「聞こえぬな……。誤って仮縫いから開けてしまった。これはパンツのポケットに入れておけ」
 金属の笛を俺に投げる。木製の笛を口にくわえる。
「……やさしい笛だな」

「そっちは駄目……」

 俺の声など、こいつは聞かない。少女は犬笛をくわえて息を吹きかける。……こちらも音はしない。なのに、

「なんだ、なんだ、なんだ!」
 川田が林から飛びだしてきた。「俺を呼んだではないよな?」

「お前を呼んだ。狼ではない」思玲がにやりとする。

 この女は間抜けだ。笛を触っただけでも怒り狂ったのに、音までだしたとあれば……。たったいまから、こいつが雅のメインターゲットだ。

「俺やシノが狼に狙われた理由を教えたよね。――横根。布をかけてあげて。思玲が雅に食べられる」

 泣きたい気分だ。
 あの狼はフサフサにすら感づかれずに、樹上の俺を狙った。首を一撃で引きちぎられかけた。常識で考えたら、思玲は会うなり即死だ。

「大丈夫だ。蒼狼のことはドロシーから聞いてある。あの娘は妖怪博士だ」
 少女は平気だ。
「草原、氷原、森などに生息する異形。その地に君臨する。星の数は忘れた。狂暴だが知性が極めて高い。報復の意識も高い。自在に人の目にさらされる状態になれる。体力攻撃力ともに無尽……」

 そんな敵だらけだ。

「で、思玲はなんで大丈夫なの?」
 雅の怖さを知らないドーンが尋ねる。

「それはシークレットだが、お前達を巻き添えにできない。私一人で待ちかまえるゆえ駐車場に戻れ。……桜井を呼ぶのは延期だな。すまぬ」
 言葉と裏腹に俺へと笑う。

 宵の林がざわついてきた。はやくも木霊が少女を愛でている。思玲がリュックを俺に突きだす。劉師傅のサテンをマントのように首に結ぶ。

「来たぜ」
 川田が俺を見上げる。
「気配丸だしで挑んでやがる。二手で挟むか? 俺と松本がAチームだ」

 登場が早すぎる。たいそうお怒りのようだが、もしかしてずっと俺のそばにいたとか。

「川田君は私と離れたら駄目だよ。ドーン君と三人で追いこもう」
 猟犬はともかく、横根も思玲をおいて帰る気はないらしい。

「みんなでかたまって帰る。思玲を囲もう」

 俺の言葉に少女が振りかえる。
「お前は間抜けか? 和戸や瑞希に守れるはずないだろ。ここで待ちかまえる。みんな急いで離れろ。哲人もだぞ」

 思玲がまた犬笛をくわえる。おおきく吸いこんで吐きだす。またもや、なんてことを。

「思玲、うるさい!」
 川田だけが反応する。
「松本、ドーン、瑞希、行くぞ! すこし下って林の中を回りこむ」

 片目の猟犬が来た道を戻る。薄らいだ横根が俺の横に過ぎる。

「ドーン君も来てよ。いまの川田君は怖いから。……夏奈ちゃん来るかな?」

 上空は茜色のなり損ないだ。雷雲は見当たらない。龍は来そうにない。

「哲人も瑞希ちゃんから離れるなよ。守る順位、変えるなよ」
 ドーンが飛びたつ。

 ドーンですら遠回しの言い方。でも俺は追わない。いまは思玲を守る。

「川田を道からはずれさせるな」

 それだけ言っておく。……いまでも川田は横根を守るだろうか?




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