二十六の二 夢見るは人

文字数 2,618文字

 思玲が開いたままの自動ドアを抜ける。外への扉は閉ざされていた。彼女が背筋を伸ばす。

「あいつらがいるかもしれない。だとしたら、お前は空に逃げろ」

 俺の返事も聞かず扉を開ける。夕涼みのような外気が吹きこんでくる。

ニャッ

 人と妖怪のいきなりの登場に、黒猫がびくりと逃げていく。入学当初から学校に居ついていた痩せた野良猫だ。
 異形のものはどこにも見あたらない。外にでた思玲が西日に照らされる。

「いないのなら、あいつらと合流するか」
 彼女はポケットから草鈴を取りだす。自分達の無事を鈴の音に乗せる。桜井へ向けて、こっちに来るなと強く笛を鳴らす。
「まずは瑞希を探す。だが、すこしだけ休ませてくれ」

 思玲が石段にしゃがみこむ。張りつめていた気をようやくゆるめる。
 このまま休んでいてもらいたい。俺だけだと、桜井達と合流したところで一緒に空を逃げるだけだ。なのにタイムリミットがある。逃げ続けることも許されない。非力すぎて、悔しさを通りすぎて悲しくなる。

「門ダケデナク、教授ノ部屋モ壊シテクレタラ云々」
「俺ラガ片付ケサセラルシ」

 院生らしい若い男性が二人、談笑しながらやってくる。思玲を一瞥するが、そのまま通り過ぎる。
 男子学生も一人現れる。スマホだけを見ながら正門方面へと去っていく。と思ったら、うずくまる思玲をちら見する。立ちどまり凝視したあとに、スマホに目を落としやっぱり去っていく。
 彼女は目立ちすぎだ。西日を背に受けて、また人がこちらへと近づく。

「ここは人が通ります。そんないでたちだと不審がられます」
 俺は彼女の肩をつかむ。傷だらけの思玲になおもうながす。

「かまわぬ。ここの人間は、すすんで人に関わらない」

 東京の人間だって、みんながみんな無干渉ってわけではないだろ。そら見ろ。この女の子だって、遠巻きに思玲をじろじろ見ている。……不安げに思玲を見つめている。俺も小柄な女の子を見つめかえす。
 今の俺は喝采などあげられない。

 彼女は意を決したように歩み寄る。昨日までよく見なれた女の子が、小さめな麦わら帽子をかぶり、大きなカバンを抱えてやってくる。

「思玲……。横根です。横根が人に戻っている」

 なぜだか俺は小声で伝える。目の前にあるものが驚いて消えないように、そんな感じに。

「なんだと?」
 思玲が手すりを持ち立ちあがる。
「たしかにあそこにいたな。だが、もっと強そうな者だと思いこんでいた。こんなに華奢な娘だったのか」
 痛々しさを消し去さろうと凛とした姿勢で石段を降りていく。

「ダ、大丈夫デスカ? 怪我ヲシテイマスヨネ」

 横根はすこし怯えた感じで彼女を見る。真横に浮かんでいる俺に目を向けない。おそらく俺は見えていない。

「……瑞希はなんと言っている?」
 思玲が俺にしか聞こえない異形の言葉を放つ。

「思玲の身を心配しています」

 俺は横根を見ながら答える。こんなにかわいい子だったのだと、あらためて思う。なのに、ただの人間かとも感じてしまう。妖怪になると、ぼろ雑巾みたいな思玲に惹きつけられる。

「ノーサンキュー、シェーシェー」

「海外ノ人デスカ? エート、メイアイヘルプユー?」

 思玲は彼女へときつい目を向けるだけなのに、横根はくりっとした瞳で思玲をまっすぐに見上げる。さきほどまで何度も抱きかかえられた人だとも知らずに。

「マツモトテツト、カワダリクト」
 思玲が唐突に俺達の名前を列挙する。
「ワドシュン……、ドーン、サクライカナ。……ワンスーリン」

「エッ、ダ、誰デスカ」
「オーケー、センキュー、ソーリー」

 思玲はなおも横根を見つめる。ささいな瑕疵を探るかのように。彼女がなにかに気づく。
「イッツ、コーラル」

 思玲が横根の胸もとを指さす。首にまわした麻糸の先に、赤い玉のペンダントが揺れている。珊瑚の玉……、海神の玉だ。

「エッ、イッツイズ、プレゼント。フロム、マイ、プレシャス、フレンド」

 この珊瑚は大切な友人からの贈り物だと、横根は思玲に伝えた。

「イッツ、ビューティフル。アンド……」
 思玲が話の途中で、俺に心の声をかけてくる。「それを捨てたりするなは、英語でなんと言う?」
「日本語で伝えてくださいよ」


「アナタニ似合ッテマス。イツマデモ大切ニシテクダサイ」

 俺がアレンジした日本語を、思玲がたどたどしく口にだす。横根はきょとんとしている。

「哲人、日本の別れの言葉を教えろ。道中無事を祈る言葉も教えろ」
 俺に命じながら、思玲は鼻血のかたまった顔に無理やりやさしい笑みを浮かばせる。
「サヨウナラ。気ヲツケテオ帰リクダサイ。ワタシハ平気デス」

 思玲は俺が教えたとおりのセリフを伝える(うまい言葉が見つからなかった)。
 横根は心配そうなままだが、ちらりと腕時計を見る。やはり無理やり作った笑みを思玲に向ける。

「アナタモ気ヲツケテクダサイネ。ソコノ事務所ニ職員サンガイマスカラ……」

 俺達に背中を向けて歩きだす。
 西空の縁が橙色へと変わりゆくなか、横根は一度だけ振り向く。気がかりを隠した小さな笑みで会釈をする。正門のほうへと去っていく。一度も俺と目をあわすことなく。

「瑞希は大丈夫だ。あの玉が護ってくれる。私のときなど輝いてもくれなかったくせに」
 横根が角を曲がり見えなくなると、思玲は石段へとしゃがみこむ。眼鏡をはずす。
「完璧に人に戻ったぞ。哲人の仕業だ」

 俺は感情が混ざりあって、思玲へと言葉が返せないけど、
「横根はもうあっちの世界に行ったから、俺達のことを覚えてないのですね」
 これだけは聞きたい。
「でも、俺達も人に戻れたなら、また思いだしてくれますよね」

「いかにもに決まっているだろ」
 思玲が手で顔を覆う。
「そして私のことを忘れようが、私はいつまでもお前達を覚えていてやる。……哲人も人に戻ってくれよ」

 じきに夕焼けがひろがりそうな空だ。人であったときは気にもとめなかった空だ。

『胡蝶の夢よ』

 峻計があざけりながら言った言葉を、人でなくなった俺が思いだす。もとは漢文だ。蝶になり、愉快に舞う夢を見る。目が覚めて思う。あの夢を見た自分が本物か、もしくは夢の中の蝶が本当の自分か――、そんな内容だった。
 それをたとえにあいつは、異形となった俺達を嘲笑した。
 でも結んだ黒髪に空色のワンピースの横根を見て、あらためて確信した。
 俺達は異形などでない。この悪夢を見ている俺達が本物だ。

 あと四人。必ず人に戻ってやる。




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