十三の二 絶対的おばさん

文字数 1,907文字

 リクトがうなり声をもらす。ドロシーが銃を両手に持ちなおす。女の子が両手をひろげ、みなを制す。

「もちろんです。だが、あいにく手持ちはございません」
 思玲がドロシーをちらりと見る。
「聞くところによると、魔道団の金庫はあふれそうだとか。あちらから――」

「とぼけるな。私ら上海は、富を求めぬと知っているだろ」

 沈大姐は声さえ笑っていない。弦をはじいた。遠くでフサフサが跳ね飛ばされたように転ぶ。
 こいつは知らぬうちに俺から離れ、見えない光を受けた。大姐が手にする弦の糸は術の光でできていた。

「誰も逃げるな」
 大姐が低音を奏でる。ドロシーの灯し火が消えて、再び赤い光に包まれる。
「手負いの獣をよこせ。釣りは払わないがね」
 顔だけをまた笑わせる。

「リクトは人です(たぶん)!」
 なんであれ、渡すわけにはいかない。俺はしゃがんで猟犬を抱える。

「こいつが?」
 大姐が怪訝な顔をする。
「だったとしても、人のかけらは微塵も残っていない。人の目にさらされた忌むべき魔獣なだけだ」

 リクトが大姐へとうなる。思玲はなにも言わない。

「松本達は、みなが人に戻るためにこの世界に来た」
 ドロシーが口を開く。「魔導団を代表して言う。上海の要望を認めない」

 ドロシーが大姐をにらむ。思玲はなにも言えない。

「小娘が不夜会の首領にたてつくか。茶会の奴らの顔を見たいな」
 大姐が真顔になる。「連中みたいにわずらわしい真似事は嫌いだ。はやく寄こせ」

 思玲は手をうしろにして後ずさる。

「松本、これがあるだろ。戦おうぜ」
 リクトが落ちたままの護符をくわえる。

 護符を手にいれたことさえ忘れていた。手にしてからも状況は悪くなる一方だ。俺はそれに手を伸ばすけど、

「やめろよ、思玲の態度で察しろって」
 ドーンが目を閉じたままぼそりと言う。
「みんなで戦おうが俺も哲人もやられて、川田は連れていかれる。陽炎のビルと同じかよ、くそっ」

 いまは何時だろうと思う。夜が深まれば俺でも……。そんなことしか考えられない。

「えー、沈大姐のお願いといえども、それだけはご容赦いただきたい」
 女の子が口を開く。
「ご覧のとおり、いまの私は熟しもせずに地に落ちたドラゴンフルーツです。でも、あなたに噛みついてでも――」

「ハラペコ! あんたからも飼い主にお願いしな」
 フサフサの怒鳴り声が、思玲のおずおずとした声をかき消す。
「何度見逃してやった? 何度手加減してやったと思う!」

 大姐の足もとにいた黒猫が前にでる。

「ハラペコねぇ。僕の本当の名前は露泥無だ。大姐の式神の中で、もっとも知恵ある存在だ」
 黒猫が主を見あげる。
「大姐。こいつが言っているのは事実です。願わくは、この猫を式神に連ねてください。犬の代わりにでも」

「こいつを上海に連れてかえれだと?」
 大姐が露骨にいやな顔をする。
「分かったよ。人と猫はもとに戻してやる。それが手負いの獣をもらう釣り銭だ。――松本だったよな。箱をだしな」

(ヅウ)!」と叫び銃をかざしたドロシーが吹っ飛ぶ。

「玩具といえども私に向けるな」沈が吐き捨てる。「つぎは傷を負わせる」

 リクトが飛びだそうとするのを、俺は押さえこむ。弱りきったシノが、倒れるドロシーへとなおも這っていく。
 このおばさんをゆるせるはずない。でも楊偉天の式神が逃げていく存在の使い魔が、さらに逃げ去る存在。冷静に突破口を考えるべき。

「ざけんな!」
 なのに、ドーンが胸もとから飛びでていく。沈へと飛びかかる。
「俺達は夏奈ちゃんと瑞希ちゃんを救うために来たんだよ! この犬は川田だ! こいつを人に戻すために来たんだよ。まだ半日もたってない。まだ人になんか戻らない!」

 沈はまとわりつくカラスを気にもせず、俺を見て笑っている。その笑わぬ目が教えてくれた。こいつがドーンを傷つけた瞬間に、俺は護符に怒りをこめる。

「大姐、こんなのはどうでしょう」露泥無が言う。「こいつらは明後日の昼を過ぎれば、人の心を失います。それまで猶予を与えましょう。それまでに、あの二人を人に戻せば手負いの獣をあきらめると」

「なんで親身になる必要がある」
「クワッ」

 沈が飛ぶカラスを二胡ではたく。――ただの物理攻撃だ。ドーンが俺の頭に戻ってくる。

「こうしよう」
 この場を制する魔道士は話を続ける。
「お前らは、あと一日半好きにしろ。だが使い魔どもの囮を兼ねろ。奴らをもう一度誘え。連中を処分できたら、お前らにも還元してやる」

 ドロシーが地面に手をつき立ちあがる。シノに渡されたハンカチで鼻血を拭く。
 沈が二胡を片手で持ち、俺を見る。

「それでよければ、箱をだしな。あの爺さんの邪念の結晶を見てみたい」
 手を突きだしてくる。




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