第221話 伊豆の踊子

文字数 1,887文字

二人で柵に手をつき太平洋を眺めていると遊覧船が着岸しようとしていた。
ベランダには真冬なのに温かな日差しが降り注いでいる
「伊豆って温暖な気候だね、歳とったらこういう所に住みたいかも」
「いいよ、海がよく見える家買って住もうか」
彼がいつものように調子良く妄想世界に乗っかって来た。だから私も好きなこと言おう。

「広い家でグランドピアノを部屋の真ん中に置いて、こういう穏やかな日差しの日は窓を開けて風を感じながら海を背景にピアノを弾きたい」

彼は何故だか爆笑している。
「独特な貨物列車しか弾けないんだろ?」
「いいじゃん、どうせ妄想世界なんだから好きに妄想させてよ!」

それでもまだ彼は腹を抱えて笑っている。
「その状況で貨物列車弾くの?」
「あーうるさいな!貨物列車だけじゃなくて独特なスイカの名産地も弾けるから」
「何でその曲」と余計に笑い出したのを苦々しい顔で見ていると彼の携帯がまた鳴った。 

「じゃあ俺が弾いてやるから、大人しく窓辺のソファで聞いてろ」と言いまた部屋を出て行ってしまった。


彼がいなくなってしばらくソファに座って壺を眺めていたけれど、彼は戻ってこない。

テレビでもつけようと思ったけれど、この部屋テレビないんだ。

暫く壺を眺めたり海を眺めたりしていたけれど、彼は戻ってこない。

外の露天風呂に入りたかったけれど、入ってる途中に戻ってこられたら気まずすぎる。
というか何して時間潰せばいいの?

ソファに座りながらスマホを触っていたけれどいつの間にか寝てしまっていた。



午後六時、執事みたいな服装の人の「夕食をお持ちしました」という声が聞こえて、慌ててソファから起きた。

「ちょうどいい時間に起きたね」と彼は笑った。
「ごめん、また寝てた」
「いいよ、俺も殆ど電話してたから」
彼は険しい表情だった。

夕食も凄く美味しそうな料理だった。けれど正直味は全然覚えていない。

彼に愛想笑いを返し心の中では刻々と近づいてくる夜の恐怖におののいていた。
このご飯食べたらしなきゃいけないのだろうか。

執事さんが片付けを終えて「ご用事がある場合はフロントに申し付け下さい」と言って出て行ってしまった。

何故だか静まり返った部屋で彼の携帯が鳴った。

「ごめん、また電話だ」

そう言うと部屋の外にまた行ってしまった。もう寝過ぎて眠くない。

そのまま三十分過ぎても彼は帰ってこない、一体誰と電話してるんだろう。
四十分が過ぎた頃、彼が息を切らしながら部屋に戻って来てソファに座っていた私の隣にどかっと腰を下ろした。

「亜紀ごめん待たせた。じゃあ入ろうか」「何に?」「露天風呂に決まってるでしょ。早く脱いで、恥ずかしかったら脱がしてあげるから」彼は真顔でそう言うと私のワンピースのボタンを外しにかかった。

「ちょっと、ちょっと」
ボタンを外している彼の手を握ったけれど、いつもより強い力で振り払われた。
「何?もういいでしょ、早く脱いで」

無理でしょう、いきなり脱げってハードル高すぎる。想定外の事態に私はパニックに陥った。どうしていいのかわからなくなった。

彼の手を振り払うと「いきなり脱げとか無理だから!」と大声で叫んでしまった。

ふと我に返ると彼が悲しそうに私を見ている。何も言えなくなった。35歳だったらノリ良く脱いで一緒に入らなくちゃいけない場面だったのだろう。

それなのに自分の勝手な行動で大好きな人を悲しませている。

彼は「亜紀は俺としたくないんでしょ。ずっと不安な顔して飯食ってて、俺まで悲しくなるよ」と吐き捨てた。

私は首を大きく横に振った。「……違う」

「亜紀あのさ、男と一緒に温泉に泊まるってそういうことじゃん。また何にも考えずにのほほんとついてきて焦ってんだろ。

私は首を横に振ることしかできなかった。

「三連休に休み取るのにどれだけ大変だったかわかってんの?」

彼に申し訳なさすぎて涙が出て出てきた。

「前から思ってたんだけど、本当に亜紀ってズレてんだよ!もう疲れるよ」

彼がそう吐き捨てると言いすぎたと後悔してる顔で私を見た。

「……私だってそこまで馬鹿じゃないからわかってる。ちゃんと覚悟はしてきたんだけど、こんな高そうなホテルだったから、私この金額に見合うだけのことできるの?ってどうしていいかわからなくなって」
彼を見られずに反対方向のドアを見て涙を拭った。

「ご飯食べてるときもずっと不安な顔してて悪かったと思うけど、現実に不安しかないから!だから嘘でもいいから愛してるって言ってキスしてよ」

彼が何か言いかけたのを遮った。

「ちゃんと脱がなきゃいけなかったのに、本当にごめん」

携帯を持つと泣きながら慌てて部屋を出た。

どこかで一人になりたい。

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