第158話 一時間だけ

文字数 1,547文字

オゾンモールに入っていく小さな美雪先生の後ろ姿を見ながら彼は尋ねた。
「今の人村人?」
「美雪先生っていう仲のいい先生。びっくりしただろうな」
「何で仲いい人に俺と付き合ってるって言ってないんだよ」
「言ってなくはない。この前丸山さんと登山終わってから会いました?って聞かれたから会ってないとは言い切れないって言った」
「何でそこで付き合ってるって言わないんだよ」

彼はちょっとというか、かなり怒っていた。怒りたい気持ちもわかるけれど私の立場にも立って見てよ、複雑な思いで彼を見た。けれども彼はどこ吹く風だ。

「俺は全世界の人の前で胸を張って言える、亜紀と付き合ってるって。誰にも恥ずかしいことはしてない。俺と付き合ってるって隠すことなのか?」

彼は正論を吐いているが、正論モンスターの私から言わせれば正論は一つだけとは限らない。大きく息を吸った。

「普段あんなに真面目そうなのに恋人にSMクラブに行ってきてってせがんでるの?プププって言われたくないし!テレビとかユウチュウブとかラジオでネタにして頭おかしい女って日本中に宣伝してくれて、ありがとう!」

彼はすぐに全面降伏した。組んでいた私の手を離し深々と頭を下げた。
「すみませんでした、本当に申し訳ありません」

これだけ直ぐに謝るということは私が知っている以外にも心当たりが沢山あるのだろう。

「そう言う仕事してるんだから別にそれで笑いがとれるんだったらいいけど、付き合ってるって言いたくない私の気持ちも考えてよって話。わかる?」

「はい、わかります。申し訳ありませんでした」
再び彼は深々と頭を下げた、どことなく嬉しそうに怒られているのは見なかったことにする。

「自分の私生活全く言わない芸人さんもいるけど、何で自分のプライベート喋りまくるの?」

「えーっと、テレビに呼ばれるようになる為には多少私生活知れてキャラ付けされてる方が良くて、おまけに俺は昔女関係でトラブルを起こしたので、ちょっと頭のおかしい気の強い彼女の尻に敷かれながらもちゃんと付き合ってるって言ってた方がイメージアップするかなっていう計算が働いて」

正直に言い過ぎで思わず笑ってしまった。せめて私のこと好きだから言いたかったんだぐらい言えばいいのに。

「わかったって。それでイメージアップするならいいけど」
「笑って許してくれて俺は嬉しいよ。周りには俺がいつも言ってるのはネタってことにすればいい。だから亜紀ちゃんも俺と付き合ってるって堂々と言ってくれ」

彼のその提案に乗れなかった。頭がおかしい女と思われるよりも心配なことがあったからだ。そして彼から目を逸らすと口が勝手にそれを話し出した。

「……だって別れたらどうするの?しげちゃんは全然気にしないでいいだろうけど、私こんな狭いコミュニティにいるから、群馬のどこの学校に移動になっても、昔有名人と付き合ってた女ってずっと言われなきゃいけないんだけど」

彼は優しい顔で私の髪を撫でた。
「別れないから。しなくてもいい心配するな、さっき俺のことずっと好きでいてくれるって約束しただろ?」
そう言うと頬にキスをして「じゃあ俺もう行くから」と改札に券を通して行ってしまった。

彼は女慣れし過ぎていてこう言う時にうまい言葉を持ってくる能力に長けている。別れないって言っても未来のことなんてどうなるかわかんないじゃん。人が疎にしかいない駅構内を複雑な気持ちで歩いて外に出た。

駅からアパートまでの帰り道、曇り空の下北風に吹かれながらふと彼の言葉を思い出した。

「次は夜くるから」
夜ってそういう関係を持ちにくるのか、それとただ単に会う時間がそこしかないからか、どっちなんだろう……。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み