第360話 36歳の誕生日

文字数 1,185文字

美子ちゃんが勇を連れて約束の午前10時に私と智を迎えにきて高崎駅まで向かった。

チャイルドシートに座っている勇のフワフワの髪を撫で「勇はかわいいね」そういうと智が「だろ?」と自慢気に言った。

高崎駅の新幹線乗り場を歩いていると丸山さんの事を思い出してしまった。2月ぐらいに別れ話をここですると「俺の愛を疑うな」と言われた。

あそこで別れると彼を脅して結婚させると言わせたのだ。

あのまま無理やり結婚しても上手く行かなかったことはわかっている。

結婚したくない人が無理に結婚してもいずれ嫌になる、人間はそう簡単には変わらない。

そうはわかっていても胸が痛い。

今日はこれから東京に行く、きっと思い出深い場所に行くと当時の気持ちを思い出してしまう法則が発動し、今日一日憂鬱な気分で過ごさなくてはならないだろう。

四人で東京行きの新幹線に乗ると、勇は新幹線の揺れが気持ちいいようでずっとスヤスヤと寝ていた。

天使みたいに可愛い。

勇の顔を見ていると昨日の夜からの考えごとは姿を隠す。



久しぶりに来た東京駅の新幹線ホームを見てまた胸が痛くなった。

ここによく丸山さんが見送りに来てくれていたから、ついつい思い出してしまう。

東京にはあの人との思い出が沢山あり過ぎて

最近は思い出すことも無くなっていたのに、ついつい背丈が似ている人を目で追ってしまう。

あの人はこの街のどこかにいるのだろうか。
構内のムワッとした空気の中そんなことを考えていた。


美子ちゃんが勇のオムツを替えにベビールームに行ってしまった。

私と智は駅のベンチに座っている。

このベンチは二人で伊豆に行った時に私が伊豆の踊子を読んでいると彼がいつの間にか隣に座っていたベンチだ。

思わず隣にいた智に聞いてしまった。

「丸山さんに手紙渡した時に何て言ってた?」

智は何故かカッコつけてこう言った。
「今更兄ちゃんのこと聞くなよ、遅すぎるよ。世の中知らない方がいいこともあるから」

智の言う通りだ、丸山さんが今どうしてるかなんて私は知らない方がいい。

全て終わった事だから。智の話しぶりから言って彼は私以外の違う誰かと一緒にいるのだろう。

美咲さんかもしれないし、違う誰かなのかもしれない。

また胸が痛む、あの手紙が来た時に一度だけでも会っておけば良かったのだろうか。

でも会った所でどうしていたのか

私はやっぱり彼がした裏切りを許せない。

今よりも余計に混乱した状況になっていただろう。

全てはあの三月の雪の日で終わったことなのだ。

今日はあれ以来東京に初めて来た、今心は最大に苦しい。でも高崎にいる時はそこまで思い出さない、だから次東京に来た時はもっと楽になっているはず。

そのうち東京に来ても丸山さんのことを思い出さなくなるのだ。

とにかく今日は健のために来たのだから、しっかりしないといけない。

遠くから美子ちゃんと勇が戻ってきたのが見える、思い出深いベンチから重い腰を上げた。


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