第231話 伊豆の踊子

文字数 1,374文字

二人で東京に帰る電車に乗りこむと、人が疎らに座っている程度で空いていた。

「三連休の中日の朝だから東京に戻る奴は少ないな」と彼が言ったので「そうだね」と相槌をうった。

席に座ると自然と腕を絡めて寄りかかる、彼が懐かしそうに昔の話をするので楽しく聞いていた。

「今の事務所に養成所卒業した20歳でいれてもらったんだけど、若手集めて定期的にライブやっててさ、で俺出る度に全然面白くないのにファンが沢山増えてくんだよ、自分で納得できてなくて何でだろうなって思ってたら、パンチングマシーンの木村君が「丸山君、カッコいいから髪型変えた方がいいよ、無駄に女の子のキャーキャー言うファン増えて勘違いしちゃうから」って教えてくれて、あーそうだよな俺かっこいいもんなって思ってさ」

「それ自分で言っちゃうの?」と笑うと「事実だからな」と彼も私の目を見て笑った。

「それでさ、木村君がポマードつけたらどう?って言ってくれて俺一年くらいそれで舞台出てたんだよ。同じ舞台に出てた男からは「かっこいいな」って評判良くてさ、そしたら俺の顔目当ての女のファンはがくんと減ってったんだけど、新宿2丁目に近かったから何故か女の代わりに二丁目の方々が店出勤の前に客席に沢山来てキャーキャー言ってくれるようになっちゃって、木村君が「イケメンって損だよな」しみじみ言うんだよ」

「それでポマード辞めたの?」
「辞めた、性別問わずキャーキャー言うファンは俺を駄目にしてくからな」彼はそう言ってペットボトルのお茶を飲んだ。

「じゃあ、どうしてもう一回調子乗ってパーマかけてグラビアしちゃうの?」
彼はお茶を喉につまらせて咳き込んだ。

「俺本当に調子乗りなんだよ、42歳になってこれでもまだマシになったから。あのパーマかけてる時も木村君と北澤はそのパーマ止めた方がいいよって言ってくれてたのにな、結局五年前の件があるまで調子乗りっぱなしで」
彼が哀しそうに車窓から海を見た。

「北澤さんも木村さんも本当にいい人」
「北澤は今も一緒にやってるけれど、木村君は数年前から一緒に遊べなくなったんだ」
彼は今にも泣きそうに私から目を逸らした。そこまで感傷的なることかと思ったけれど芸人の世界も色々あるのだろう。
「寂しいね」とだけ言った。

彼の携帯に電話がかかってくると「ちょっと出てくる」と言ってデッキの方へと行ってしまった。

昨日から電話が多い、本当に一体何があったのだろうか。

ポマードの彼を検索してみようと思い、自分のスマホを取り出した。マフージャパンのサイトを見ると「パンチングマシーンの木村、大麻所持の疑いで逮捕」という文字が目に滑り込んできた。

震える指でクリックすると記事が出てきた。

「お笑い芸人の木村裕治容疑者が都内の自宅で大麻を所持していた大麻取締法違反の疑いで警視庁組織犯罪対策5課に現行犯逮捕された」


思わずスマホを置いて海を見つめた。
昨日から彼の携帯に何度もかかってきていた電話はこれだったのだろう。いつもは好感度上げて冠番組欲しいとか、将来の野望を語ってる事が多いのに今日はやけに昔の話すると思った。

クリスマスイブの時に会った木村さんの優しそうな笑顔が頭から離れない、何でこんなことしちゃったんだろう。

昨日とはうってかわりどんよりとした分厚い灰色の雲が空を覆っている。風が強いのだろう、鉛色の海が大きく揺れていた。
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