第128話 夜の街で

文字数 1,662文字

二人で少しでも長く居たくなってしまって、東京駅じゃなくてラジオ局の裏口の隣にある地下鉄の駅の前で降ろして貰った。

時刻は午後八時ちょうど、駐車場に入っていく彼の車を見送ると隣の地下鉄の駅ではなくラジオ局の向かいのコンビニに向かった。

実は凄くお腹が空いていた、午前中に教頭先生に頼まれた農機具のオイルさしをしていたら、新幹線の時間が迫ってきて昼ごはんを食べ損ねた。

お腹が空いて死にそうだ。けれどあんなにお洒落な場所で食べ物食べたいとどうしても言い出せなかった。結局一時間半ぐらい居てノンアルコールカクテル二杯しか飲んでいない。

おまけに私はコンビニが好きだ、色んな物が売っていて商品を眺めているだけでも楽しい。けれど家の近くのコンビニは昼夜卒業生が働いていて私が買った物がまたたく間に村中に知れ渡ってしまう。

だから浮かれながらコンビニの店内でコスメをチェックし、お菓子をチェックした。そして今食べるお握りを選んでいた。

一つ目は鮭、二つ目は炙り明太子、三つ目を紫蘇にするかねぎとろにするか迷っていると「お腹空いてるならねぎとろにしたら」という声が聞こえた。

「じゃあそうする」と呟くとねぎとろをカゴに入れて後ろを振り返ると何故だかしげちゃんがいた。

私が声にならない言葉を発すると彼は「お腹空いてるならちゃんと言え」と少し怒っていた。

「……あのお洒落な場所でラーメン食べたいなんて言えるわけないじゃん。そっちこそ何してんの?」

「今日四時間の生放送だし、ラジオ局って乾燥してるからリップクリーム買いに来たんだよ」そう言う彼の手にはリップクリームが握られていた。

ラジオ局の前のコンビニに居たらそりゃあ会う確率上がるよね、自分の軽率な行動を恥じる。

「じゃあさっきのお礼にもならないかもしれないけれど、リップクリーム買ってあげる」

そう言って彼の手からリップクリームを奪うとレジに持ってって会計を済まし彼に手渡した。

店の外の横断歩道が赤だったので二人で信号待ちをする。大通りの裏道ということもありトラックが一台通っただけで、東京の夜なのに静まり返っていた。

「何かリップクリーム素直に買わせてくれたね」と言うと「女に物買われるとか嫌だけど、何か買わせとかないと気に病むだろ?」と彼は笑った。

歩行者信号が青になったので自然と手を繋いで渡った。地下鉄の駅の入り口に来ると、彼が私の右頬に手を当てた。

「またキスするの?」と聞くと「俺はキス魔だから、今日はまだ3回しかしてないだろ?」と言うので何か言い返そうとした所を少し強引にキスしてきた。

「人気がある所でするのやめて」と言ったはずなのに店内で3回して今4回目をしている。
ここも人通りが無いからいいけれど……

数秒後キスするのを止めた彼に「末っ子って得だよね、結局自分のやりたい事やるから」と言うと「亜紀と北澤は俺に甘いから最終的には俺のやりたいこと受け入れてくれる」と得意気に言った。

彼によると相方の北澤さんは北海道のじゃがいも農家の五人兄弟の一番上らしい。それに対して彼は十二歳離れたお姉さんと五歳年上のお兄さんがいる。

私はたまに会うだけだからいいけれど、一緒にいる割合が高い北澤さんの苦労は容易に想像できる。

仕方ないなと思いながらも「今からのラジオって全国放送なんでしょ?」と聞くと嬉しそうに「そうなんだよ」と言った。

「聞けたら聞くね、仕事頑張って」と言い駅に入ろうとすると「亜紀ちゃん」と呼ばれた。

振り返ると「何とか時間を作るから次来る時は泊まってって」と言われた。

泊まるってそういうことだよね。だいぶ動揺したその瞬間、私の口が覚醒してしまった。

「そんなの言わなくてもわかってるよ」と、いい女風のセリフを自信満々に言い放ち、「じゃあね」とスタスタと駅の構内に入っていった。


駅の階段を降りながら、恋愛経験なんてない癖になんでいい女に成り切ってしまったんだと声にならない叫び声をあげた。

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