第357話 五月の新緑

文字数 1,738文字

土曜日、私は群馬県研修センターにいた。
代休も出ないのに一日研修という最悪な日だ。

会場は大講義室で群馬中から集められ休日出勤させられた教員が全部で二百人はいるだろう。

最初はメンタルヘルスケアという研修でストレスを溜めない為にという講座を聞いた。

知らない人とアイスブレイクと称したミニゲームをやらされたり、自己紹介させられたりした。

見知らぬ年上の白髪がダンディな先生に名前と誕生日を言うと「明日だね、おめでとう」と言われ、明日が自分の誕生日だということを思い出して憂鬱になった。

もう36歳になってしまう。


講師の先生が「皆さんこれでストレス解消の仕方はわかりましたか?」と得意気におっしゃった。

この講座は人と楽しく関わればストレスが解消できることを伝えたいようだ。


講師の先生には本当に悪いが「休日に朝から知らない人と無理に関わらされて余計ストレス溜まるわ!」と心の中で暴言を吐いた。

次の時間は教育基本法改正についての講義で、昨日余り眠れなかったのでフラフラになりながら何とか講義を受ける。

それを夕方の四時まで繰り返しようやく研修が終わった。

「さぁ帰ろうか」という時に背後から誰かに声をかけられた。

「亜紀先生!」

振り向くとそこには山の上小学校の美香先生がいた。

「美香先生!久しぶり!会いたかった」

美香先生と再会を喜びながら、山の上小のことや子供達や村人のことについて話す。

「斉藤さんの所に今度二人目が産まれるみたいよ」
「あっそうなんだ、それはおめでたい」

斉藤さんは最後にあんな電話をかけてきたけれど、奥さんとうまくやっているようだ。本当に良かった。

山の上小は私の代わりに若い男の先生が来て、休み時間毎に男の子達にサッカーに連れ回されているそうだ。

「みんな元気そうでよかった」

そういうと美香先生は複雑そうな顔をした。

「亜紀先生、あの言ったほうがいいか迷うことなんだけど」

「何?なんかあった?」

「亜紀先生が前付き合ってた人いるじゃない?亜紀先生が引っ越した日の夕方に新しい人と部屋に行ったらあの人が来てたんだよね。

それで「亜紀先生の引っ越し先教えて」って言われたんだけど、亜紀先生にあんなことしてってムカついてたから「個人情報だから教えられません」って突っぱねたの」

息が止まるかと思った。

もう全て終わったことだと思っていたのに、まだ鼓動がこんなに激しくなる。

美香先生に「九月の運動会は見に行くから」と言い別れた、帰る人波に流れに合わせて研修センターを出ると、何とか自分の車までたどり着いた。

車に乗り込むとエンジンをかけずにハンドルにもたれかかった。社内のムワッとした空気が私に襲いかかる。

一体どういう事なんだろう。

あの人は私が引っ越した3月29日の夕方にアパートに来ていた。

そしてゴールデンウィークの最終日に智から手紙を貰った。

この空白の一ヶ月は何なのだろうか、もしかして私の行方を探してくれていたのだろうか。

だとしてもあの人が私を裏切ったことに変わりはない。あの人と別れたのは三月の初めで引っ越したのは三月の終わりだ。

その一ヶ月間、あの人は何をしていたのだろうか。

間違いなく美咲さんと一緒にいたのだ、と思う。

ふと思い出したことがある。

東京の夜景が綺麗に見えるあの人の部屋のベランダでこう言った。

「十何年引きずってたことだから気持ちの整理が必要だ、だからその時は時間をくれ、そしたらきっと亜紀を選ぶ、と思う」

もし、その空白の一ヶ月本当に気持ちの整理をしていたとしたら?

私のことを裏切っていないとしたら?

もしもを考えると鼓動がさらに早くなる。

でもそれは有り得ない、あの人の性格上「俺は裏切ってない」とどんな手段を使ってても言ってくるはずだから。

それを言ってこないということは、やっぱり私を裏切っているのだろう。

もしくは裏切ってなかったとしても、本当にその後美咲さんとヨリを戻したのだ。

あの後何にも言ってこないのが全てなのだ。
もう今更何がわかったところで全てが遅い。

目から涙が溢れた。

もう何も考えたくない。

車内の暑さに耐えきれなくなりエンジンをかけてエアコンをつける。

あの人に会ったのは夏の終わりだった。そして最後に会ったのは雪が降っている日で、今季節は春を過ぎ、もう夏が始まろうとしていた。







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