第88話 人間って難しいな

文字数 1,095文字

東京駅に着くと三人でタクシーに乗った。

ふと後部座席を振り向くと「タクシー移動って豪華だな」とニコニコ顔の智と「良かったね」とニコニコ顔で智を見つめる美子ちゃんが見えた。

父さんは美子ちゃんを見て「智はいい奥さん貰った」と少しは安心してくれるだろう。


二十分程で病院に着き、広い病院の中を歩幅を大きく歩く。ようやく辿り着いた病室の外から室内で慌ただしく看護師さん達が動いている気配がし、息を呑み込んだ。

一人の看護師さん達が私達に気がつき、「ご家族の方ですか?」と部屋の中へといれてくれた。

   
この前よりも沢山のチューブに繋がれた父さんが苦しそうに寝ていた。

「父さん」呼びかけると父さんの目がゆっくりと開いた。「亜紀、本当にすまない」

「もう喋らなくていいよ、父さんがいなくなって大変だった、本当につらかった。けど自分の人生に後悔はしてない。今はずっと夢だった小学校の先生として働いてるんだ、智だって今介護士やってるし、健は俳優目指して大きな事務所の研修生やってる。智なんか結婚して奥さんもいるんだよ」

「父ちゃん、俺の奥さんの美子。いい女だろ?」
そういうと美子ちゃんが私達の後ろから頭を下げた。父さんはゆっくり頷いた。

「父ちゃん、俺は父ちゃん恨んでるけど感謝してる」

智がそう言うと父さんはほっとしたようにゆっくりと目を閉じた。

様子を見にきたベテランの風格がある看護師さんは「落ち着いてきましたがまだまだ予断を許さない状況です」と説明してくれた。

病室にあった簡易的な椅子に座り三人で父さんを見ていた。一時間ぐらいしたら健もやってきた。

目を閉じたままの父さんの所へ行って「父さん、健が来たよ」と言うと少し目を開けてまた閉じてしまった。

どれぐらい時間が経ったかはわからないけど、急に父さんが目を開け「郁子」と呟いた。

慌てて父さんに駆け寄ると「郁子に手紙渡してくれ」とまた呟いた。

どうして父さんが貢ぐだけ貢いで捨てられた女の名前をこんな時にまで呼ぶのだろう。私達四人は唖然として何にも言えずにただ父さんの顔を眺めていた。

お昼12時前だった。機器が警告音を発した。慌ててナースコールを押すと看護師さんとお医者さんが交代で病室に入ってきた。

その十五分後、父さんは頑張ったけれど静かに眠ってしまった。

看護師さんや先生に挨拶をし、ただ座り込む私達3人を見て美子ちゃんが気を回して売店に飲み物を買いにいってくれた。

この部屋には私と智と父さんと健だけになった。何十年ぶりに父さんの手を握ると子供の頃と同じく大きくてまだ暖かかった。
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