第83話 人間って難しいな

文字数 2,131文字

さっきまで泣いて会いたくないと叫んでいた智が急変した。彼なりにここがどういう所か考えたらしく、幾分か抑えた声で父さんを問い詰め始めた。

「なぁ、父さんあの女は?何でいないの?俺達に父さんはあなた達のことは綺麗さっぱり忘れて本当に愛してる人と生きていくって言い放ったあの女は?」

父親は目を瞑り小さな声で答えた。

「……別れたよ」

「別れたよじゃねぇだろ?俺たちから全てを奪った癖に、ねぇちゃんがどんだけ苦労したかわかってんのか?」

智が煽ると父さんは怒ったように早口で話し始めた。そういえば父さんは昔から短気だった。どこか他人事で智と父さんの様子を眺めていた。

「父親がいないことで苦労かけたかもしれんが、金はちゃんと送ってただろ?母さんだって働かなくてもいいくらい送ってたじゃねぇか」

父さんの余りの言い分に智はいつもの馬鹿でかい声で叫んだ。

「何、寝言言ってんだよ、父さんとあの女が家の金全部持って逃げたんじゃねえかよ、あれから一銭も貰ってない、ねぇちゃんがひたすら働いて働いて自分の大学も行きながら俺と健のこと育ててくれたんじゃねぇかよ」

そう言うと父さんは激しく動揺した。
「嘘だ、俺はちゃんと振り込む用にって」

「あの女が俺たちに金送ると思う?なぁ、父さんに何とか連絡とろうとした姉ちゃんに体でも売ってなんでもして稼ぎなさいよって言い放ったあの女がだよ!」

あの時のことまだ覚えてたんだ、ちゃんと外に出て話せばよかった。幼い子供達につけてしまった心の傷を今更思い知らされる。

「智!ここ病院だよ。他に具合悪い人沢山いるんだからね!」そう怒鳴ると智は静かになった。


「父さん、私東京に住んで楽しくてキラキラした学生生活送るの夢だったのにできなかった。
何とか間に合った地元の大学行ったけど、楽しい思い出何にもないんだ。

授業が終わったらバイトしてバイトして母さんの世話もして智と健にご飯作ってまたバイトして、お金稼ぎながら家事して病人の世話して勉強するってどれだけ大変なことか想像できる?」

一切の感情を捨てて淡々と父さんに聞いたけれど父さんは私を弱々しい目で見るだけで何にも答えなかった。

「何か言ってよ」

私がそう畳み掛けると父さんは震えた声で言った。

「母さんの世話?」

また智が怒鳴り出した。

「何でそれも知らねえんだよ、父さんが出てってから精神的におかしくなっちゃって、ずっと家で薬飲んで寝てた。

それで姉ちゃんの二十歳の誕生日の次の日に川に飛び込んだんだよ!」

怒鳴る智に怒鳴り返した。

「智!ここ病院!」

智は泣いていた。自分で言いながらつらくなったのだろう。

父さんがボソッと呟いた。

「お前たちも幸せに暮らしてると思ってた。母さんも俺のことなんか忘れて好きに生きてくれれば良かったのに」

父さんは昔から周囲のことを全く考えられない自分勝手な性格だったことを思い出した。

「あの女のどこが良かったか教えてよ、見るからに下品で、男に寄生してしか生きていけない女じゃん。他人の家庭ぶち壊しても何とも思わない、人を傷つけても何とも思わない、あんな女どこが良かったの?」

それでも父さんはあの女を庇った。
「郁子のことを悪く言うのは止めろ」

「父さん現実教えてあげるよ、郁子さんって人、父さんと駆け落ちするちょっと前に隣町の三条さんって人の所に行って、旦那さん誘惑してたんだって。三条さんってお父さんの高校生の時の同級生だよね?」

「嘘つくんじゃない!」
父さんが純粋な少年の瞳でキレた。

「本当だよ、父さんが駆け落ちした後三条さん夫妻が心配して時々様子見にきてくれて、野菜とかお米とかくれたり、私の洋服も買ってくれたり本当にお世話になったの」

「三条の嘘だ」

それでも父さんは頑なに私の話を信じようとしなかった。三条さんがそんな嘘ついてどんな得があるっていうのか。私達よりもよほどあの女が大切だったらしい。

智はとうとうキレてしまった。

 
「そんな訳ねぇだろ、馬鹿なんか?父ちゃんって昔から俺に似て頭悪いからな!昔の恋人か何か知らねぇけど、駆け落ちしてこれだけ周りに迷惑かけてさ、父さん昔はじいちゃんのコネでいい会社に勤めるエリートサラリーマンだったよな?

何で縁もゆかりもない東京で役所の人達に世話になるような様になってんの?なぁ」

智は一番言ってはいけないことを言ったと思う。でも何故だか私には智を止めることができなかった。

父さんが腹部を抑えて苦しみ出した。額に大量の脂汗をかいている。

慌ててナースコールを押すとすぐに看護師さんとお医者さんが来て慌ただしく状態を確認し、点滴を始めた。

若そうなお医者さんが私達の方を振り向いた。

「今、麻酔強くしました。お父さん、今必死に頑張ってらっしゃいますのであまり興奮させないようにして下さい」

恐らく私達の声が聞こえていたのだろう。私達を哀れむように優しく注意をしてくれた。

「はい、申し訳ありません」

智と深く頭を下げた。十分ほどすると容態が落ち着いたようでお医者さんと看護師さん達は帰っていった。
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