第232話 伊豆の踊子

文字数 1,366文字

十分程時間が経つと彼が席に戻ってきた。私の深刻な顔を見て全て悟ったようだ。
「ついさっきネットニュース出たんだよ、早いよな何でもかんでも」と彼は海を見つめたきり何も言わなかった。

それ以上何も聞けなくて私もただ海を見つめていた。

五分ぐらいするとトンネルに入った、急に視界が暗くなり、轟音が車内に響いている。

彼が重い口を開いた。
「木村君は俺の数少ない大切な友人、折角亜紀と付き合えて心開ける人間が一人増えたと思ったのに、一人減っちゃったんだよな」

クリスマスイブの時の木村さんの優しさが思い出されて彼に苛ついた。
「減ってないよ!友達は友達でしょ?自分勝手なこと言わないで。キッパリ薬と縁切ったらまた友達に戻れるよ」
「そうかな」

彼は目に涙が溜まっているのを掻き消すように大きなため息を一つついた。
「木村くんは元々ヤンキーみたいな女が好きなんだけど、三年前にヤバイ女と付き合いだして何か変わったんだよな。付き合う相手の影響って受けやすいだろ?木村君は案の定、彼女が紹介したヤバイ関係筋の人と絡むようになっちゃって、顔つきが変わって来たんだよ」

「……そっか」

彼の気持ちを考えると、それ以上どんな言葉も発することができなかった。

電車の走行音が車内に響き渡っている。林に阻まれて一瞬海が見えなくなると彼はポツリと話し始めた、

「今の電話も姉ちゃんからで、俺と仲良かったこと知ってるから、重明はしてないでしょうねって」
「お姉さんの立場からしたらそう言いたくなるよ」
「だから俺は今はちゃんと暮らしててまともな女と付き合ってるっ言った」

「私ってまともなんだ」
そう言って小さく笑った。
「姉ちゃんと兄ちゃんは亜紀に近い人種だよ、まともだし、誰に対しても優しいし」
「そっか」
「姉ちゃんは頻繁に劇場に見に来て、その度に俺と北澤とか木村君とかに飯食わせてくれて小遣いまでくれて」
「お姉さんの気持ち良くわかる。やっぱり弟って心配だからね」
「でも兄ちゃんは一回も見に来てないけどな」
「きっと応援してるよ」
「だといいんだけどな」

彼はそう言ってまた車窓から海を見た、
でも私はどうしても一つだけ聞きたい事があった。おそるおそる口を開いた。

「六年前に職場の子三人で沖縄旅行行こうとして羽田に前泊してた時に、同じ学校の先生が不祥事起こして逮捕されちゃって、夜中の三時に全職員今すぐ学校に来いって招集かかって三人で泣きながらタクシー乗って高崎まで四万かかって帰ったことがあるんだよね」

「その話、初めて聞いたな」と彼は呟いた。

「だから、もしかして昨日事務所の人に東京帰って来いって言われてない?」

彼の表情が曇った。

「言われてたんでしょ?」

「……言われてたよ、社長に木村君と親交のある奴全員来いって言われてた」
「大丈夫なの?」

「うん、まぁお前らは大丈夫なんか的な確認がしたかっただけみたいだし」
「社長さん納得してくれたの?」

「こういう時に亜紀ちゃんの職業って最強なんだよな、俺が付き合ってるのは小学校の先生で、今まで関わった女の中で一番まともで賢いし、女版北澤で今東京に戻ったら彼女に嫌われるかもって言ったら今日でいいって言ってくれた」

そう彼は寂しそうに笑った。
「私が一番まともってどういうこと」そう私も小さく笑った。

電車がまたトンネルに入った。今度のトンネルは長くてなかなか外に出ない。

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