第72話 武道館の後で

文字数 2,705文字

「でも私、今汗だくで凄く臭いと思う、それに今回のツアT悪趣味だし、グッズとかお土産の東京バナナとか大量に持ってるし、今日は丸山さんに近寄れないです」

必死に車に乗りたくない理由を並べた。恋人に会うのならもっとちゃんとして会いたい。昔散々女と遊んでたんだったら、この女心わかって欲しい、そう念じた。

けれども彼にはそんな私の願いは通じなかった。

「初めて会った時はもっと汗だくだったよ、バナナがハローって言ってるクソださいTシャツ着てたし、おにぎりとかペットボトル大量に持ってた。いいから来て」
と強引に電話を切られてしまった。


あのバナナのTシャツ、可愛いって思ってたのに……。



腹立ちを抑えて渋々丸山さんの車に乗り込んだけれど、何だか彼の顔を見たら腹立ちなんかすぐにどこかに行ってしまった。

私は恋という麻薬で大分頭がおかしくなっている。

「怪我だいぶ治って良かったです」
「もう殆ど目立たないよ」

「でも、何で武道館にいること知ってたんですか?」そう言うと「この間ダムに行った時に部屋に大事そうにチケット祀ってあったじゃん」とごく当たり前のことを返された。

「そりゃあわかりますね」と一人で笑った。
「東京来るならちゃんと俺に教えてよ」「丸山さんこそ、知ってて夜会えるなら事前に教えて下さい」

そう言い返すと彼はフッと笑った。

「豆腐チームの川井さんっているだろ?」
「あの泣き芸のベテランの方ですね」

「川井さんが月に一回、川井会って飲み会をやってんの、それが今日だったから」
「付き合いも大事な仕事って言ってたけれど、行かなくていいんですか?」

「今日中止になったんだよね、奥さんに浮気がバレたらしい」
「えーそれ修羅場ですね、良かった週刊誌とかに書かれなくて」

「そう思うだろ?でも奥さんにリークしたの俺だけどな」
「えぇ、なんでまた?」

「俺は川井さんには大変世話になってるし恩を感じてる。だからこそ、今このご時世で不倫はまずいって何回も言ってきた。でもあの人病気だから止められないの」

「でも奥さんにリークして川井さんとの仲は大丈夫なんですか?」

「明日ぐらいに反省して泣きながら電話かかってくるよ、丸ちゃん俺に不倫は悪だって気づかせてくれてありがとうって。でもまた三ヶ月したら新しい女どこからか見つけてくるんだよ。今回で三回目だから」

「川井さんテレビと同じキャラ……反省しても懲りないんですね」

「だから、直前までどうなるかわからなかったんだ。これで川井さん暫く大人しくなるし、夜の予定もキャンセルできたし、亜紀ちゃんと一緒にいられるよ」
彼はそう笑った。

「よく私見つけましたね」「本当に偶然、やっぱり俺と亜紀ちゃんは運命の赤い糸で結ばれてるんだ」と自信満々に言うので「本当に調子いいんだから」と運転席の彼の横顔を見ながら笑った。

彼がどこかへ向けて車を走らせ始めた。車は大きなビルが乱立した交差点を曲がる、この道は新幹線の線路と併走しているようだ。

ここは東京のどこを走っているのだろう。車窓からサラリーマンが帰宅する様子を眺めていたら、彼が口を開いた。

「今後東京に来る用事があったら前もってちゃんと教えてよ」

「うん、何か言い出し辛くて、迷惑かなって思っちゃうし」

「そんなに遠慮しないで、言いたいことあったら何でも言ってよ」

「言いたいこと……?」「そう、何でも受け止めるから」

彼はそう言って大人の余裕を醸し出した。私より7つも歳上だし、本当に何でもぶつけてもいいのだろうか。

「この車、レタス農家の佐藤さんが今月買い替えた車と同じでびっくりしました」

「誰だよそれ」彼は呆れながら笑った。

「佐藤さん五十五歳なんですけど、この間特に用もないのに、急ブレーキかけながらキキキって学校に颯爽と現れて、女は高い車に乗ってる男が好きだから、この車に乗ってれば二十歳の嫁が来るはずって真顔で言っててびっくりしました」

「頭おかしいジジイと一緒にすんな」と彼は笑った。

「本当に怒らなくて受け止めてくれた」そう言って笑うと、「亜紀ちゃんって俺弄り回すの好きだよね」と言われたので「確かに好きかも」と答えた。

「今の台詞ゾクっとしたからもう一回言って、丸山さん弄り回すの好きって」「何か意味合い変わってますよね」とまた笑った。

東京に土地勘がないのでどこを走っているかわからないけれど、車はトンネルに入った、
「丸山さん、冗談はさておいて実はお願いがあります」「何?」

「今日はあまりに汗臭いから銭湯に寄ってから新幹線で帰ろうって思ってたんです。だから今同じ密閉空間に居るのも嫌なくらいで、とにかくどこか銭湯寄らせて欲しいんです。お風呂道具も持ってるし」 

と申し訳なさを醸し出して訴えるとちょうどトンネルを出て赤信号で止まった。

「わかったよ、そこまで言うならじゃあうちのシャワー貸してあげる。それなら最終の新幹線の時間まで一緒にいてくれる?」

丸山さんがそう言って信号待ちの合間に私をじっと見た。まるで私がうんと答えるのをわかってるかのように。

「じゃあそれなら」

そう答えると、丸山さんが私の首にかかっているツアーグッズのタオルを見たような気がした。信号が青に変わりまた車は動き出した。

「亜紀ちゃんのタオルちょっと貸して」
「……何かどこかで聞いたことある台詞、一応聞きますけど、何でですか?」

「匂い嗅がせて」
「嗅がせるわけないでしょ!」
「前より仲良くなって付き合ってるけど駄目?」
「駄目なもんは駄目です」
「じゃあ脇の匂い」
「嗅がすわけないでしょ?登山の時のあれ本気で言ってたんですか?」

登山した時に丸山さんにタオル交換しろだの、匂い嗅がせろだの言われたことを思い出した。

「当たり前だろ?俺、嗅覚が結構鋭いんだよ。残り香で部屋に誰がいたかわかるくらい。だから今も亜紀ちゃんの汗の匂いがいいね」

私は無言で助手席のパワーウィンドウを開け、タオルを畳んで鞄にしまった。

車はまたトンネルに入り辺りがオレンジの光に包まれた。

「あーこんな事言わなきゃ良かった」と暗いオレンジ色に照らされた彼が呟いた。

「何でそんなに変態なんですか?」そう聞くと「生まれつきだから」と開き直った。

「凄い、ど変態」と言うと「それ褒め言葉だから」と彼が言うので二人でまた笑った。

車はトンネルを出ると車窓の風景がビジネス街からマンションだらけの地区へと変わっていた。










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