第87話 人間って難しいな

文字数 1,670文字

アパートに帰ってくると明日朝早くにやらなければならない仕事を思い出した。おまけに放課後も職員会があったりして一日中忙しい。

この部屋に戻ってくると、父さんと会ったのがフワフワとした夢物語のような気がしてならない。十七年間父さんはどんな生活をしていたのだろう。

高校生の時に父さんが中国出張に行った時にお土産として買ってきてくれたパンダのピョンピョンを手に取った。

このパンダ買ってきてくれた時は、少し自分勝手だけど普通の父親だったのに、大きなため息をつく。

丸山さんから貰ったパンダのリャンリャンも一緒に手に取った。そういえば今日丸山さんとキスした……

こんな大事なことも今まで思い出さなかったくらい激動の一日だった。

これまでは毎日何にもない、つまらない日々だったのに、神様は私にイベントごとを起こすのをすっかり忘れていたのだろう、今日一日に色々詰め込み過ぎだ。




あれから三日後の水曜の朝だった。その日はよく晴れた日で、まだ十月の筈なのに気温が氷点下を記録し、吐く息も白く凍っている。

朝から全校で走るイベントがあったのでいつもより早い6時半に家を出た。



運転席に座りエンジンをかけた。凍っている窓ガラスを溶かそうとワイパーを動かすと着信音が車内に流れた。画面をみると高山のおばさんからだ。指先が震える。意を決して電話に出た。

「もしもし、亜紀ちゃん?さっきNPOの人から電話があってお父さんの容態が悪くなったらしいんよ。だから早目に来てくれって言われたんだけど、亜紀ちゃんの好きにしていいからね。よく考えてから行ってね」

私を気遣ってくれているのがわかる、電話を切った後遠くに見える朝靄に包まれた帽子岳を眺めた。

きっと父親に会えるのはこれが最後になるだろう。

そして決めた、父さんに会いに行こうと。

智に電話をすると、どうするか美子ちゃんと二人で話し合って結論を出していたようですぐに返事がきた。
「最後だし行くよ。美子も行くって言ってる」

二人とは高崎で合流することにして電話を切った。
健にメールするとエキストラの仕事中なようで終わり次第行く」とメールが届いた。

職場に休む連絡をするのは三年前にインフルエンザにかかって以来だった。

普段は空気の読めない教頭先生に電話して「父の具合が悪くてどうなるかわからないので今日休ませて下さい」と言うと

「そうか、学校のことは、俺山浦先生のクラス入るから気にしないで行っておいで」と快く送り出してくれた。
「ありがとうございます」電話越しにそう頭を下げた。空気が読めないだけで教頭先生もいい人なのだ。

「弔電学校で打つし、忌引き使えるから」と余計なことも言っていたけれど、教頭先生らしくて少し笑った。

二日分ぐらいの着替えと喪服を鞄の底に詰め込んで駅から新幹線に乗った。高崎駅で乗ってきた智と美子ちゃんと合流し東京駅を目指す。

3人とも喋らず無言の時間が多い、長いトンネルを抜けた時、智が思い出したように話しかけてきた。
「兄ちゃんが何かあればすぐに連絡するようにって言われてて」

何かあっても丸山さんに連絡しないって思われてんだろうな。

「私から連絡入れておくから、智はいいよ」

そう言うと美子ちゃんが「お姉さんの彼氏のことなんだから全部任せておこうよ」と智に念押ししてくれた。

窓から外を覗くとビル群が見えてきた、東京に来るときはちゃんと連絡するって約束したからメール送っておこう。

「父の容態が悪化したので今仕事を休んで東京に来ています。バタバタしているので返信できないかもしれません」と彼にメッセージを送信した。

智がその様子を覗き込んで「姉ちゃんいい加減LINE入れなよ!どんどん時代に取り残されていくぞ」と偉そうに講釈を垂れた。

すると美子ちゃんに「今の若い子もうLINE使わないらしいよ」と言い返されアワワとなったのを見てようやく笑みが溢れた。

軽快な音楽が流れアナウンスは東京駅に着くことを知らせている。
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