第91話 人間って難しいな

文字数 1,824文字

ふと会話の手がかりを思い出した。

「さっきの店、美子ちゃんがお会計全部済ませてくれてたんです。今度ちゃんとお礼しなきゃ」

「美子ちゃんはすっごいしっかりしてそうなんだけど、何者なの?」

「美子ちゃんは産婦人科のお医者さんなんですよ。私初めて会った時、聞きましたもん。智のどこがいいんですかって?」
「それ俺も気になる。どこがいいって?」

「びっくり仰天なんですけど、「周りにいるエリートの男の人達と違って純粋で優しいんです。家事も上手だし」って言われて、価値観って人それぞれなんだなって、みんな違ってみんないいんだって実感させられました」

「何だよその道徳の授業みたいなまとめ方は」と彼が笑った。

こんな時にこんな話するんじゃなかった、何故だか今までの日々が思い出されて涙が出そうになった。違う話にしようと思うけれど、頭がうまく働かない、口が勝手にさっきの話の続きを話し始めた。

「ほら、健はモテにもてまくってたから扱いは違うけど、こんな風に智のこと評価してくれる人がいるんだって、今まで頑張って育ててきて良かったなって、二人をちゃんとした大人にできるかいつも不安だったけれど、本当に良かったって初めて思いました」

そう言いながら私は泣いていた。今なら夜の暗闇に紛れて涙が見えないだろうと思ったから。歩幅も変えずに声色も変えずに平静を装いながら泣いていた。

急に丸山さんが立ち止まったので、私も立ち止まって彼を見ると、ポケットからハンカチを出して涙を拭いてくれた。

この人はどこで私が泣いている事に気がついたのだろうか、彼の優しさにまた涙が止まらない。いい歳して人前で路上でこんなに泣いている自分が本当に情けない。

だから泣きながら「月曜日にクラスで抜き打ちでハンカチティッシュ持ってるかチェックしたら、男の子一人しか持ってませんでした」と言うと、「俺はその選ばれた一人なのか」と彼は苦笑いした。

「ハンカチ持ってない男の子達に手洗った後どうやって乾かすの?って聞いたら「自然乾燥」とか「服」とか「頭」とか「壁」って答えられてあの人達の配膳する給食食べたくないってウェって思いました、そんな事口に出さないけれど」

そう言って泣きながら笑った。

「亜紀ちゃんにいい事教えてやるけど、男って大人になっても変わらないからな。トイレから出るときの手洗いほぼ全員がいい加減だから。寧ろ洗わない奴もいる。俺以外の男はみんなばい菌の塊だぞ」

「私を男性恐怖症にしようとしてるの?」と笑うと「キープする男作らせないようにしてんだよ」と彼が真面目な顔で言うので「作んないから」とまた笑った。

大きく息を吸うと「もう大丈夫、年甲斐もなく泣いてみっともないですね」と笑うと彼に抱きしめられた。

歩道横の道路は渋滞がようやく解消したようで自動車が次々と私達を追い越していく。

「俺は潔癖症で清潔だから、今日家来るでしょ?」と耳元で聞かれたので「ううん、丸山さんにそれで怒られたばっかりだしホテルに泊まる。どこか空いてるでしょ?」そう答えた。

「あれは他の男にそういうことしないでくれって話で、俺は別にいいだろ?」

いくらなんでも今日そういうことをする気には到底なれない。部屋泊まれってそういうことだみたいなことを三日前に言ってたし。

「……だって確かに丸山さんのこと好きなんだけど、この間付き合ったばっかりっていうか、でも35歳だったらこういうこと気軽にできなきゃダメなのかな、あーでも私完璧主義っていうか潔癖症も入ってるからそんなこと気軽にできないし、でも好きだからいいんだけど流石に今日じゃないっていうか」

ブツブツと念仏のように唱えていると丸山さんが吹き出して私を抱きしめるのをやめた。

「俺不在で勝手に話を進めないでよ、さすがに俺そこまで頭おかしくないからな。お父さん亡くなった日に何かしてやろうって、人として駄目だろ」

「いやだって耳元で囁くから」
そう言うと彼は気まずそうに顔を顰めた。

「結果的にそうなってしまっただけ、確かに抱きしめて耳元で言うことではなかった。何にもしないから家泊まって。使ってない部屋あるからそこで寝てよ」

確かに彼は優しいから私の意思に反することは絶対にしないだろう。

だから素直に「うん」と頷いた。

「病院の駐車場に車止めたから、そこまで歩こう」と彼と手を繋いで歩き始めた。
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