第614話 お久し振りでございます

文字数 1,146文字

 会社を期間満了退社後、持ち手を失ったフーセンみたいに、ふわふわとしていました。
 こんな筈ではなかった、と思いつつも、パチンコ屋に足しげく通い、他に何もやる気がせず、どうにもならない、フーセンの「風任せ状態」。(でもフーセンならほんとうに風に身を任せられるが、自我のあるニンゲンとしては、そうもいかなかった)

 ある日は1日TVをボーッと見る。またある日は1日中部屋の中で本を読もうと「努力」する。ところがTVの画面から、ぼくはまるで何も見ていないように、何の信号も感じることはできなかった。
 本を読むのも、苦痛だった。頭に入ってこない。大江の「万延元年…」が読みにくいことを差し引いても、一節一節を目で追っていくという作業が、とてつもない重労働に感じられた。

 義務的に家事をするも、実にふわふわ。足に、地が着いている感覚がない。
 自分は一体何なんだ状態。いや、何なのかも、考えることが、それ自体、よく分からない状態。
 今も、それは続いている。

 だが、そういう時にしか、できないことがある。今日、気づいた。
「手書きの原稿」作業。
 朝起きて、ふっと、書き始めた。万年筆のノリが固く、何枚か書き直すうちに、しっくり来始めた。
 パソコンだったら、辞書なんか引かなくても、文字が出てきてしまう。でも、手書きはそうはいかない。「憂鬱」という漢字を辞書で調べ、記す。「咎める」を調べ、記す。蠢動、疎外、十把一絡げ…書けると思っていた字に自信がなく、いちいち辞書で調べ、書く。
 そうこうするうちに、原稿用紙、10枚、小説のようなもの。このまま、続いていけばいい。
 小説は思い切り空想の世界に埋没できる。
 ふわふわしている時、ちょうどよかった。もちろん内容は BLUE なものだ。

 パソコンで書いていたら、こうは書かないだろう、という箇所にも、何回も巡り会った。
 パソコンだと、頭で考えすぎてしまう傾向がぼくにはある。でも、手書きだと、このまま、そのままやってしまえ、と、妙なフンギリがつけられる。頭と両手の指を使って文字をつくるのではなく、右手に持つ万年筆の流れに、身を任せられる感じ。
 これはいい。

 空想と現実のハザマで揺れ動く。軽く宙に浮かぶ。あわてて着地する。小さな虫を見つけて、追いかけてみる。その虫の形状、色、動きを、こだわって見る。
 空を、大きいなと思う。人が、小さく見える。でも、等身大の人どうしが対座すると、人って大きいなと思う。ビビったりする自分がいる。

 お酒を大量に飲むことがなくなり、ヤカンで沸かしたお湯をポットに入れ、ポットのお湯を茶葉の入った急須に入れ、湯飲み茶碗に注ぎ、熱いお茶を飲む。
 お茶が美味しく、ほんとに美味しく感じる。

 寒い風吹き荒れる弥生の初旬、皆様、ご自愛のほどを。
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