第545話 猫を飼って

文字数 1,406文字

 飼って、というのは、失礼だな。
「同居していて」である。

「感じ」が、よく分かるようになった。
 あ、こいつ、今、こうしたいんだな、こうされたいんだな、という「感じ」が。
 これは、実家の庭にいた、クロ…とても元気で賢かった犬…とは、異質の「感じ」である。

「同居」するって、こんなに大きいのか、と思う。壁一枚、硝子戸一枚隔てた、「外」とは、こんなに違うのか、と。

 ぼくは、福がいなくなってしまったら、ほんとに悲しいと想像する。
 まったく自分のことしか考えてなくて、でも何を考えているのかよく分からない猫なのだけど、こいつがいてくれることで、ぼくはまったく目に見えないところで、確実に慰安されていると思うのだ。
 人間相手では、こうもいかないのだろうか。

「所有主」という意識はない。寧ろ、ぼくが所有されているかのようだ。
 昼勤の週は、家人が「グサッ」とされている頃、ぼくも起こされるのだ。そして福は、カーテンによじ登ったり、襖に爪立てたりして、ぼくら寝ている人間を、起こそうと必死になるのだ。

 もっとも有益な、家人のおでこへの攻撃。刺された家人は、みだりに動くと「引っ掻き傷」として残る恐れがあるため、 0 . 数ミリほど奥行きに刺さった猫の爪から動くことができない。
 そして、刺した福自身も、刺さった爪の先を、どうしていいのか分からないのだ。
 その爪が刺さった軌道そのままに、福が爪先を抜けば、家人のおでこには傷も付かず、福はそのこととは別の意味で、抜けたことに安堵するのだ。その膠着した状態は、極度の緊張を、両者にもたらすことだろう。

 家人は、「一度でいいから、福をむんずとつかまえて壁に向かって放り投げたい」と恐ろしいことをのたまっている。半分くらい本気である。だが、6kgの福をそうすることには、非力な家人にとっては残念なことに、物理的に不可能と思える。さらに福は、その重さと反比例する俊敏な動きの持ち主なのだ。家人の願望は、願望としてのみ成就する。そして福の可愛さに、その願望と裏腹の「情」も、微量ながらも持ちながらえている、と、ぼくは思いたいのである。

 今夜も、こうしてパソコンに向かうぼくの隣りに、ぼくからやんわりと奪い取った柔らかい座布団付きの椅子の上で、福は眠っている。

      ────────

 今週、昼間(といっても2時半までだが)ぼくは玄関のドアを開けっ放しにしている。
 すると福は外へ出て行く。だが、その開けられたドアの所か、玄関の両サイドにある植物の植えられたプランターの周辺が、昼間の福にとっての「外」なのである。玄関先から半径1mを越えられないのだ。それ以上の「外」が、危険であることを、福は本能的に知っている。だから、半径1mの外出でも、福は極度の緊張をしている。
 ぼくが玄関の手前で「福」と呼ぶと、「アッ!」という感じで、福はトトトと部屋へ入ってくる。そしてまた数秒後には、魅惑の半径1m以内へ外出していく。その繰り返しで、福とぼくの、微妙で幽遠な距離が保たれる。

 ぼくが仕事に行くため、準備をしていると、福は部屋に入ってくる。「行ってくるね、福」と言うと、福は「ニャア」と返事をする。とても悲しい、その日の「別れ」の瞬間である。ぼくは炬燵の掛け布団を開ける。福は炬燵の中へ入っていく。

 福にとっての幸せは、何なのだろう?
 とっても、よくわかるよ、福。
 否、わかる「気」がするよ、福。
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